三年後の私たち
呪文のように長い商品名を唱えながらレジ打ちをしてオーダーを通す。平日の夕方は学生の利用客が多く、また初夏を迎えた気候も相まってか冷たい飲み物がよく売れた。そして店舗限定メニューも提供しているこの店では客足が途絶えることはまずない。
「今日はもう上がりでいいよ」
次のお客さんを呼ぶ前に後ろから肩を叩かれる。それはこの店のバイトリーダーの先輩で、眉を八の字にしながら「急に来てもらってごめんね」と謝られた。確かに今日は休んだ人の穴埋めに来たわけだが本来のシフトよりも早い時間で上がってもいいのだろうか。
「あと二十分くらいあるんですけどいいんですか?」
「次の人が来るまで俺が入るから大丈夫。それにこの後用事があるんでしょ?」
「はい。それなら今日は上がらせてもらいますね、お疲れ様です」
「お疲れ様、ありがとね」
テーブル席を通り抜けスタッフルームへと引っ込む。そして女子更衣室のドアを開ければ同じ大学でこのバイトを紹介してくれた友人がいた。
「お疲れー」
「お疲れ…ってあれ?今日シフト入ってたっけ?」
「風邪で休んだ人の代わりに呼ばれた」
そう説明しながら彼女の隣のロッカーを開ける。そして素早く身に着けていたエプロンとシャツを着替えた。本当は持ち帰って洗濯をしたいところだが荷物になるので明日取りに来ることにする。
早くに上がらせてもらった分、時間にはまだ余裕がある。ならばこれ幸いにとバッグの中からポーチを取り出しロッカーの扉に付けられた小さな鏡と向き合った。
「なになに?今からデート?」
そんな様子を彼女は玄米ブランの袋を開けながら見ていた。きっと彼女はこの時間から二十一時までのシフトに入るのだろう。
パウダーが付いたパフを目の下に当てながら一瞬だけ迷い、違うよと答えた。
「サッカー観戦。ほら今日の夜やるでしょ?」
某飲料メーカー主催の国際親善大会が今夜開催される。世界ランキングに関わる試合でもないけれどフットボールファンにとっては十二分に見る価値があるもの。さらに今夜の試合には世界的に活躍している日本人選手が多く招集されており注目度も高かった。
「あーそういえばすごいニュースになってたね。潔とか千切が来るんだっけ?」
欧州のサッカー選手にとってはオフシーズンのこの時期ではそれも珍しいことではない。でも今回はその中でも有名どころが多く集まる。現にサッカーに疎い彼女ですら何人か選手の名前を言い当てた。
「そうそう。チケット手に入ったから見に行くつもり」
「いいなぁ」
「サッカー興味あったっけ?」
「そっちは興味ないけど最近のサッカー選手ってかっこいい人多いじゃん!」
「なるほど」
ファンデーションで顔面の補強を終える頃には彼女は二つ目の個包装を開けていた。バイト先には十分前に行けばいいのでまだ時間があるのだろう。彼女とのお喋りを続けつつポーチからアイメイクパレットを取り出した。
「ユッキーもサッカー選手なんでしょ?ほらスポドリのCMやってる人」
「そうだよ、今日の試合には呼ばれてないけどね」
夜だから少し濃いめしても浮かないだろうと判断しチップで二度ほど色を乗せる。その時、アイラインが一部剥げていることに気付き慌てて引き直した。二十四時間耐久と書いてあっても安物はよくないなと反省。それから目元の仕上げとばかりにラメを指の先を使ってちょんと塗った。シルバーブルーのそれは光に当たると海の水面のようにきらめくのでお気に入りだ。
「そっかぁ……あっでもあの人は出るんでしょ?めちゃくちゃかっこいい人!」
「もーみんなかっこいいって言うからどの人か分かんないんだけど」
彼女の例えが抽象的すぎて笑いながら聞く。そんな唇に買ったばかりの新色リップを引いてポーチのファスナーを閉めた。それをバッグに戻しつつ置きっぱなしにしてある制汗剤を手に取り服の隙間に吹きかける。本当は髪にも手を加えたかったがそこまでの時間はなさそうなので軽く整えるだけにしておいた。
「ほら兄弟でサッカーやってる…凛!糸師凛って人、…うわぁ?!」
「あっごめん!」
力が入り過ぎたのかロッカーの扉が大きな音を立てて閉まる。「びっくりさせないでよ!」と驚く彼女にはもう一度謝った。
「ほんとごめん!そろそろ時間ヤバいなって思ったら焦っちゃって」
バッグを肩に掛け直しながら苦笑い。そしたら彼女も「私もヤバいわ!」と言いながらゴミを片付けていた。
「じゃあ楽しんできてね!」
「ありがとう!そっちはバイト頑張ってね」
彼女とは別れて駅へと向かう。
バッグの中にはフランスから送られてきたチケットが入っている。席はいつも通りのメインスタンドで一般では絶対に手に入らないSS席のプレミアシート。こんないい席を用意してくれたのは言わずもがな友人が少ない彼である。
凛がフランスへ行きP・X・Gでストライカーとして世界的な活躍をしてからも私たちの関係は変わっていない。
時差の関係で電話をする機会は減ったがそれでも細々と連絡は取り合ったし、日本で試合をやる時は招待チケットをもらった。そして長期休暇で凛が帰国すれば必ず会いに行った。
桜を見収めたあの日から、次に帰って来たのは高二の夏。塾の夏期講習帰りにスマホを見たときは驚いた。そこには一件の不在着信と「日本に帰って来た」のメッセージ。何故いつもこの人は当日連絡なのだろうか、と思いつつこちらが散々連絡を無視していたことを思い出す。だって純粋な女子中学生の前で私を公開処刑しておきながらあまりにも彼がいつも通りだったから。
電話やメッセージが来る度に、もしかして告白される?好きって言われたりして……なんて緊張していた自分がいよいよ阿保らしい。このままでは華のJK時代が芽吹くことなく枯れてしまう、そう判断し電話には極力出ないようにしていた。そしてメッセージもかなり時間をおいてから返すようにして凛の存在を脳内から消そうとしていた。
テレビやネットで彼の活躍だけを追う日々。もうどんな声だったのか忘れた。これでようやくただのサッカーファンとして糸師凛を応援できる……そう思ってたのに、
「凛…?」
『駅着いたけどお前はどこいんだ?』
メッセージを見て三秒後、電話を掛け直していた。
参考書とテキストが詰まった重いスクバを持ったまま遊歩道を走る。夕日に照らされた影はどこまでも長く伸びていて私の隣を並走していた。潮風が鼻に抜けどこか懐かしく思うのはこの場所での思い出が脳裏にチラついたせいだろうか。生温かい風がスカートを太腿まで捲れ上げさせたけれどお構いなしに駆け抜けた。彼が待つ場所まで。
「凛っ…!」
制服姿の私とは違い彼は私服だった。だからかやはり大人びて見える。そして顔つきも頬から顎にかけてのラインがよりシャープになり、十代のあどけなさというものがそぎ落とされたかのように思えた。また筋肉量も増したのか服の上からでもその厚みが分かる。
「お前はいつも走ってんな」
「誰のせいだと思ってんの?!」
「体育の成績上がったか?」
「私の中では三段階評価だからこれ以上は上がらないの!」
でも凛は凛だった。
声も、口調も、私に向ける表情は何一つ変わっていなかった。
コンクリート壁のくぼみに足を掛ければ、その上にある柵を越えて凛が手を伸ばしてくれる。それに掴まり駆け上がれば大きな太陽が見えた。青い海は茜色に染まり昼間とは違う姿を見せる。夕日に染まる縁に並んで座れば、凛は確かに隣にいた。
それに気付いたら今までの抱えていたもやもやも、次会ったら平手打ちしてやろうという気持ちも一瞬で潮風に飛ばされた。そんなことに気を割く暇があったら凛の顔を見て少しでも長く話したいと思ったのだ。
「日沈んじゃったね」
「さすがに帰っか」
だから、油断した。
先に遊歩道へと降り立った凛が手を伸ばす。また引っ張んないでよ、と冗談めかして言いながら手を取って飛び降りた。
無事に着地し一安心。でも手は離されない。
顔を上げれば恋焦がれていたターコイズブルーと目が合って、息を呑んだ。
「ただいま」
触れ合った唇が離れて波の音よりも静かに言った。
この時、私は選択を間違えた。
二度も勝手にして、と怒ってやればよかったのだ。今度こそ顔を思いっきり叩いてやればよかったのだ。それか関係を壊す覚悟で想いを告げて玉砕していれば良かったのに。
「……おかえり」
結局、守りに入った。
この行為が挨拶でも気まぐれでも何だっていい。都合の良い女でいることが隣にいられる条件なら安いもんだって思ってしまった。だってやっぱり好きだと確信してしまったから。
電話はするし連絡は取り合うし試合にも見に行く。
でも想いは伝えられずに擦らせたまま。
私たちの関係は今もずっと変わっていない。
◇
熱気に包まれたスタジアム。今この瞬間、世界で一番フットボールが熱い場所は紛れもなくここであろう。
『続いて本日先制ゴールを挙げた糸師凛選手です!お疲れ様です、先制ゴールは前半の十二分でした。振り返っていかがでしたか?』
『向こうのディフェンスラインが下がった時点でゴールを確信しました。決まるべくして決めた一点です』
『中盤では潔選手とのパス回しが印象的でした。久々に
『ない』
『なっ……そ、そうなんですか?』
『そこにいて俺の動きについていける奴がアイツだっただけです』
『では最後にサポーターに向けてメッセージをお願いします』
『目に見える結果として実力を示すだけです』
『先制ゴールを挙げた糸師凛選手でした、ありがとうございます!』
体裁など気に掛ける様子もない試合後のインタビューは実に凛らしい。この姿をcoolと称し熱烈な彼のファンもいるくらいだ。現に一分も持たずして終わったインタビューに会場は大きな拍手を送っている。しかし、その内にエゴイストな獣を飼っていることは一部の人間しか知らないだろう。
今回の親善大会は日本の勝利で終わり、その後も活躍した選手のインタビューが続いていく。ぽつぽつと人が席を立つ中、その様子を最後まで見てから席を立った。
しかし私が向かうのは出口ではなくその逆のstaff only≠ニ書かれた扉。警備の人にチケットの座席番号と名前を告げれば難なく中へと通された。
扉を開ければその傍にまた別のスタッフがおりその人に案内をしてもらう。といってもさすがに選手控室までは入れないので自販機がある休憩スペースで待つように言われる。そこには私の他にも選手の家族や友人と思われる人達がいたが見知った顔はなかった。潔さん家のご両親がいたら挨拶したかったのにな。
「あっ豹馬ぁー♡」
「げっなんで姉ちゃんいんの?!今日は用事で来れないんじゃ……」
「豹馬の方が優先に決まってるでしょ?」
あれはイングランドで活躍している千切選手か。なんとまぁお熱いことで。いや、それにしては顔が似すぎてるし姉ちゃんって言ってるな。どうやら恋人ではなく美人姉弟の組み合わせらしい。
「おい、」
「あっ凛お疲れ様」
目の保養だな、と見惚れていたところで後から声を掛けられる。濃い青のユニフォーム姿のまま肩にタオルを下げていた。その顏はインタビューの時よりも幾分か緊張が解けている。
「ちゃんと見てたか?」
「もちろん!先制点決めたところも潔くんにボール持ってかれたところもオフサイドの抗議しに行ったのもちゃんと見てたよ」
「チッ」
「なぜ舌打ち」
もうにわかとは言わせない、とばかりに感想を述べたのにどうやらお気に召さなかったらしい。ものすごい顔をされた。しかし、そんなおっかない凛の肩越しにぴょこんと飛び出た双葉を発見する。
「潔くん?」
「あれ?久しぶり!来てたんだ」
身体を傾けて凛越しに顔を出せば、双葉の正体は確かに潔くんでこちらまで来てくれた。しかもプライスレスの笑顔付き。オアシスはここにあったかと感じつつも数十分前にはエゴ丸出しで試合をしていたので逆にこのギャップが怖かったりもする。
「うん!潔くんも試合お疲れ様でした。それとこれ前に言ってた鎌倉で有名なきんつば、もしよかったらどうぞ」
「うわマジで!嬉しい〜ありがとな!」
でもやっぱり潔くんの笑顔は百点満点だわ。私たちの間で舌打ちをする誰かさんにも見習ってもらいたいところである。でもこれ以上、彼の女性ファンは増やしたくないので難しい所だ。
「普通のも美味しいんだけど私のおすすめはかぼちゃ味でね、他にも……」
さて、と潔くんにきんつばプレゼンを始めようとしたところで視界が遮られる。それは私と潔くんの間に凛が立ちふさがったためだった。そしてなぜ無言で見下ろしてくるのか。もう試合も終わったんだしちょっとくらい話してもいいじゃん。かまってちゃんか。
「お前は先店行ってろ」
「まだ予約まで時間あるから平気だよ?」
「えっ凛この後の集まり参加しねぇの?」
もしかして食事会でもあるの?確かに今回の試合では
「誰が行くか」
「せっかくなんだし行って来たら?ってゆうかそういうのあるなら言ってよ」
「だから行かねぇつってんだろ」
凛と目が合えば眉根をぎゅっと寄せられた。本当に行きたくないのか、それとも私に気を使っているのか。そのどちらなのか見定めたかったが答えが出る前に肩を掴まれ百八十度回転させられた。
「早く着替えてくっから先行ってろ」
「ちょっと待って、まだ廻くんに会ってない!」
「別に会わなくていいだろ」
「そうはいかないよ。優さんが来れない分、廻くんにもたくさん差し入れ持って来たんだから」
「なら俺から渡しとく」
もう一つの紙袋が引っ手繰るように奪われた。そしてそのまま背中を押され退場を命じられる。なんとか首だけで振り返ればまだ双葉が見えたので、またね!と手を振っておいた。その返事とばかりに舌打ちが降って来たが凛に言ったわけじゃないからね。
「じゃあ着いたら連絡してね。場所分かりづらいから」
「あぁ」
staff only≠フ扉の前まで送られたが、早く行けというわりに何か言いたそうな顔をしている。とはいえ、その何か≠言ってくる人ではないのでこちらが察するしかあるまい。
「そういえばさっき言いそびれちゃったんだけどさ」
これで合っているかは分からないがスマホのメモ帳を立ち上げその画面を凛にみせた。早すぎる試合展開の合間に指先を酷使して打ち込んだ文章だ。といっても箇条書きのようなものだけど。その画面を凛は前かがみになりながらじっと見つめた。
「試合の感想。記憶力ないからメモっといたんだ」
場面ごとに感じたことを書き留めておいたのだ。ただ、感想と言っても結局は素人知識なので「すごかった」「かっこよかった」くらいの語彙力しかない。でも今日の凛は特に活躍していたのでその言葉がたくさん連なっていた。
「そうかよ」
いま笑った?一応正解ってことでいいのかな。だから私も笑ってその場を離れることが出来た。
「またあとでね」
扉を開けてスタジアム内の廊下へと出る。もう観客はおらず清掃の人が仕事をしているだけだった。凛に小さく手を振れば扉の内側に立ったままスマホを指差された。
「送っとけよ」
その言葉に頷き、店の地図情報を送った私がキレられるのは数分後の話である。