子どものままじゃいられない


東京都目黒区は交通の利便性も高く治安もいいため住みたい街ランキングでも常に上位に入るほどの人気がある。大学や森林公園、また著名人の居住区エリアとしての印象が強いが自由が丘に近い西側では飲食店も多くみられる。いま私がいるこの店も目黒区の外れにある海鮮料理が評判の和食店だ。

ここは優さんに教えてもらった隠れ家的なお店である。これは出会ってから後に知ったことなのだが廻くんのお母さまである優さんは新進気鋭のアーティストでかいぶつ≠テーマに絵を描く画家であった。その才能は『廻物展』という個展を開くほどだが芸術に疎い私は全く知らなかった。しかし、だからこそ優さんは「貴方と仲良くなれたと思う」と言ってくれた。どうやら『先生』扱いされるのはあまり好きではないらしい。

そんな優さんとは試合観戦で何度か会ううちに仲良くなり今では連絡先も知っている。だから凛とご飯を食べに行くとなった時に有名人が行っても騒ぎにならないようなお店を知らないかと相談させてもらったのだ。そこで紹介されたのが全部屋個室のこの店である。



『店の近くまで来た』

今日の試合のネットニュースを見ていたところで現れたポップアップ。それに気付きすぐに電話を掛けた。
この店は大通りの外れにあるビルに入っているため場所が分かりづらい。加えて看板も出していないため一見するとオフィスビルに見えなくもない。だから電話越しにビルの入口と店のフロア階数を伝えて道案内をした。

「さっきぶり、無事に来れてよかったよ」

個室の扉がノックされ返事をすればお店の人が凛を連れてきてくれた。
ユニフォーム姿から打って変わり白のシャツに黒のジャケットとテーパードパンツというラフな格好になっている。足元も黒の革靴、しかし九分丈の裾からはくるぶしが覗いていた。

「スゲーなここ、外からじゃ何も分かんなかった」
「私も迷いかけたよ。結構歩かせちゃってごめんね、どうぞ座って座って」

四人掛けテーブルの向かいの席を勧め、メニュー表を開いて渡す。刺身が美味しいらしいよ、と教えれば凛はパラパラとページを捲った後、そこまで時間をかけることなくマグロ丼を注文していた。私も凛が来る前に頼むものは決めていたのですぐに店員さんを呼んで注文を通す。

「いつもテレビで試合見てたけどやっぱり生だと違うね。迫力あった」

おしぼりで手を拭く様子を見ながら今日の感想を述べれば恋焦がれたターコイズブルーが向けられる。それは先ほどの試合とは打って変わり凪のような静けさがあった。でも私は覚えている。先ほど、試合の感想を綴ったメモ帳のスクショではなくこの店の位置情報を送ってキレられたことを。だから言葉を選んで話題を作った。

「そうかよ。だが今日の相手は弱すぎだ、フィールドを戦場とも思っていないぬりぃ奴らの集まり」
「おっ言うねぇ。でも確かにそうかも。この前のバスタード・ミュンヘンとの試合の方が見てる方も熱くなった」
「負けた試合の話すんな」
「でも凛が二ゴール決めた試合だよ?」

面と向かっての会話は何時ぶりか。でも初めこそあった緊張もするすると解けていく。
次第に話題はサッカーのことから互いの近況報告へと移る。でもあまり自分のことを話したがらない彼は料理が届くのと同時に私に質問を投げた。

「夏休みにフランス来るって話、どうなった?」

凛から醤油さしを受け取り自分の小皿にも赤みのある液体を注ぐ。凛の前にはマグロ丼が、そして私の前にはサーモンやイクラも乗った海鮮丼が並べられた。その料理に、いただきますと手を合わせながらはじめに汁物の蓋を開ける。

「予定通りいくつもり。でも旅費抑えたいから九月頭からって感じかな」

四年制大学の国際分野の学部へと進学し、現在大学二年生。今はDELF・DALFのフランス語資格試験の勉強をしつつ来年には留学したいと考えている。だから今回のフランス行きはその下見のようなものだ。

「どのくらいいる予定だ?」
「一週間だけどそっちへの滞在は実質五日ってかんじかな。今は料金比較して安く泊まれる場所探してる」
「費用だけで選ぶんじゃねーぞ。設備の差だけじゃなくて治安悪ぃ場所だからって理由で値段下げてるとこもあんだからな」
「分かってるって」

凛のフランス行きをキッカケにあちらの文化にも興味を持つようになった。具体的な夢までは決まっていないが将来的には国際的な分野で働きたいと考えている。だから、決して凛を追いかけてフランスに行くわけではない。

「日程確定したら教えろ。首都内ならそれなりに案内してやる」

でも下心がないと言えば嘘になる。遠くなってしまった彼の存在に近づきたくて、追いかけている自分がいるのもまた事実。だからその言葉には容易に頬が緩んでしまう。でもそれを悟られぬよう俯いて、半分ほどに減った丼ぶりに箸を伸ばしながら答えた。

「それは嬉しいけど九月ってフランスリーグの時期と被らない?忙しいでしょ」
「休みが全くないわけじゃねぇ」
「でも自主練するじゃん」
「だから日程分かったら教えろっつってんだろ。そしたら調整できる」

負担にはなりたくない。だけどその言葉はやっぱり嬉しくて頷いてしまった。

食事を終えてお茶を飲んでいた凛に断りを入れお手洗いへと向かう。用を済ませて手を洗いながら鏡を見ればそこには幸せボケした自分が映っていて笑ってしまった。
そして真っすぐ部屋には戻らずその足で店の入口へ。本来ならばお会計は部屋で行うのだが今日は私がすべて出すつもりでいたので先にしておこうと思ったのだ。しかし、声を掛けた店員さんの一言で慌てて部屋に戻ることなる。

「なんでお会計しちゃったの?!」

片や凛はスマホを見ながら実に寛いでいた。そして怒る私を見ても尚、その態度は変わらない。

「元より出すつもりだった」
「そうされるのが嫌だったから店も私が決めたんだけど!」
「お前は学生でこっちは働いてんだから気にする必要ねーだろ」

日本に帰ってきて何度か出掛ける機会はあった。でもその度に財布は凛持ち。確かに年俸額だけで見ても相当稼いでいるのは知ってるから言いたいことは分かる。だけど私たちって同じ年齢でしょ?だったら割り勘が普通だと思う。

「バイトはしてるし!」
「フランス来んだから金貯めとけ」

対等じゃない感じがして私はこれが好きじゃない。だからお財布の中から抜き身のお札を押し付けようとするが「もう出るか」と言って凛は部屋を出てしまう。こちらとしても店の人の前で騒ぎ立てたくはないため言葉を飲み込んだ。いつもこのような形で丸め込まれてしまう。

「ありがとうございました。お気をつけてお帰り下さいませ」

五階フロアはこの店だけしか入っていないため、菩提樹で作られた竪繁格子の引き戸の先にエレベーターがある。そのボタンを押せばちょうどこの階に来たお客さんがいたのかすぐに扉が開いた。二人で乗り込んで『一』と『閉』のボタンを押す。

胃が浮くような浮遊感を味わいながらエレベーターが下へ降りていく。階数を示すボタンの上には電光パネルがはめられており、そこに表示された数字は一定の間隔で数字を減らしていった。

エレベーター内は沈黙。
パネルに表示される数字が『四』から『三』に変わっても止まる気配を見せない。
だから、『あっくる』って思った。

フッと操作ボタンの上に影が落ち、肩の上に手が置かれる。そしてそのまま軽く引かれれば体は容易に振り向かされた。
指先が髪を払いのけするりと頬を撫でられる。添える、というよりは上を向かされたと言う方が正しいか。

視線が上へと向けばその先には透き通った海が見えた。
しかしそれも一瞬で。
近付けられた顔に、反射的に目を瞑った。

「ん、……」

唇が押し当てられて重心が傾く。思わず右手を伸ばしそこにあるであろう腕を探した。指先が服に触れそのまま掴む。やば、舌入れられる。

「…ッ、ついたよ」

電子音と共にゆっくりと開かれる扉。目の前の胸を押し返して距離を取った。
扉の先に人がいなかったことにひとまず安心する。でもこの状況が良くないことには変わりないので脱兎のごとく腕から抜け出してエレベーターの外へと逃げた。

「凛はどこ泊まってるの?どっちにしろタクシーだよね、私捕まえて来るから」
「おい、」

大通りに向かって足を急がせる。平日の二十三時といえどもさすがは都会と言ったところかそれなりに交通量はある。そして幸いなことにタクシーはすぐに捕まった。手を挙げた私の前に減速してぴたりと車体がつけられる。

「勝手に行くな」
「だって凛がいたら目立つでしょ?それとちょっとはマスクするなり帽子被るなり変装してよね」
「来るときはしたわ」
「今もして」

口調を強めて言えば渋々取り出した黒縁メガネをめんどくさそうにつけてくれた。でもそれだけ。全然隠せてないと思うんですけど。しかしこれ以上、タクシーを待たせるのも申し訳ないのでその状態で凛を後部座席へと押し込んだ。

「じゃあまたね」
「は?お前はどうやって帰んだよ」
「まだ終電あるから電車で帰る」
「お前も乗ればいいだろ」

それはさすがに私の本能が警告音を鳴らす。
凛のことは好きだし、一緒にいたいし、付き合ってもないのにキスもしちゃっているけれど、この一線だけは超えたくない。

「ここからだと遠いからいい」
「なら尚更だろ」

凛の左手が私の手首を掴む。そしてシートに座ってこそいるが長い脚は外に出されたまま。このままではドアが閉まらず強制的に発進させてもらうこともできない。

度のないガラス越しにこちらの様子を窺っているのが分かる。だからこそ私は自分の手首から目が離せなかった。それはしっかりと力が込められてはいたが無理に引っ張ることはされない。

「大丈夫だよ」

もしかしたら簡単に振りほどけたのかもしれない。
そうじゃなくても抵抗するべきだったのに、凛の体温が心地よくてできなかった。

「真っすぐ帰すから、乗れ」

諦めよりは懇願に近いような声色だった。そう感じたのは私の思い上がりか。

「……分かった」

凛に奥に詰めてもらい、自分も後部座席に乗り込む。ドアが自動で閉められれば凛が運転手に行き先を告げていた。それは私のアパートの場所。うちに来たことはないけれどチケット送って貰ったりする関係で一人暮らしをはじめた先の住所も教えていた。

『いや〜今夜はもうサッカーの話しかないでしょう!』

車内に流れる深夜のラジオ番組。三人ほどその場にいるのか今日の試合を興奮気味に熱弁していた。
この運転者が凛に気付いたかどうかは定かではないが寡黙な人らしい。それとも私たちの空気を察して気を使ってくれたのか。どちらにしろ声を掛けられなかったので有難かった。

ラジオパーソナリティの声に時折規則正しいウインカー音が混ざる。私は外ばかりを見て隣を意識しないようにしていた。
タクシーは信号に足止めされることなく夜の街を穏やかに走行していく。大通りを過ぎれば外灯の少ない一車線の道路へ。

そこでふと目の前の窓ガラスに焦点を合わせれば反射した凛の横顔が目に映る。彼もまたつまらなそうにドアに頬杖を突きながら外の景色を見ているようだった。

凛が私をどう想っているのか分からない。
私も自分がどうしたいのか分からない。

だから、タクシーに乗ってから右手に重ねられた手を私は握り返すことが出来なかった。

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