エンカウント


都内の大学に通っていれば乗る機会はないけれど、実家に帰った際には車を運転している。主に家族のパシリ役としてだけど。だからこそ大学一年のときに取った免許でもペーパードライバーにはならずに済んでいる。ただし、未だに乗る時は初心者マークを付けてるけど。

『駅着いた』

駅近くでも比較的交通量の少ない道に車を停める。一方通行の細い道ではあるが軽だからこそ許される路上駐車である。年末のこの時期だからか私のようにお迎えできた車が何台か並んでいた。

『北口のちょっと離れたとこにいる。携帯ショップの近く』

着たメッセージに簡潔に返事をする。次いで思い出したように車の特徴も伝えた。それに対しての返事はなかったが既読は着いたので多分大丈夫だろう。

「あっ凛」

運転席でスマホを弄りながら待っていれば、コンコンと窓ガラスが叩かれた。
ガラスの向こうには三ヵ月ぶりに見る凛の顔がある。といってもネットニュースや試合動画で姿自体は見てるけどね。ただサッカーをしているときは殺人鬼()だと思っているので別の存在として捉えている。

「お疲れ!駅から遠くてごめんね、大丈夫だった?」
「デッキからエレベーター使ってここまで来たから意外と距離はなかったな」
「よかった。キャリーケース後ろに乗るかな?」

それなりに荷物は大きいと思い、予めシートは倒してきたのだ。案の定、キャリーケースは七泊分くらいの荷物が入りそうなほどのサイズではあったが後ろに乗せることはできた。この分だと凛は助手席に乗ってもらうしかない。今日は黒のキャップとマスクも付けているので身バレの心配はないだろう。まぁ持ち前のスタイルの良さで若干目立ってはいるが。

「どこか寄ってきたいとことかある?」
「特には」
「じゃあとりあえず鎌倉方面目指していくね」

車を出して裏道から大通りへと抜ける。交通量も中々に多いが、だからこそ飛ばすような輩もいないので法定速度の範囲内で走れるからある意味安心できる。そして赤信号で車が停まったタイミングで凛が口を開いた。

「迎えに来てくれてありがとな」

新横浜駅から鎌倉市内までは下道を使ったとしてもおおよそ一時間ほど。このくらいの運転なら今までもしたことがあるので凛のお迎えを買って出たのだ。

「いいよ。どうせうちにいても家の手伝いさせられるだけだし」

お正月に向けての買い出しに駆り出されるのだ。また、弟が塾に行っているので家でだらけていると「迎えに来て」と言われてしまう。それでもいいんだけど、ぐーたらなお父さんにも仕事を与えるべく今日は身を引いてあげた。

「正月は親戚んとこ行ったりしねぇのか?」
「弟が今年受験生だから行かないんだ。凛のお家は?」
「俺んとこも別に……兄貴も帰ってこないみてぇだしな」

糸師冴、怪我による休養——そのニュースを見たのは一週間ほど前だったか。試合中による怪我で全治三週間の捻挫だそうだ。歩けないほどでもないようだが大事を取って日本に帰省しないことは容易に想像できた。

「そっか。お兄さん早く良くなるといいね」
「俺が殺すより先に壊れられちゃ堪んねーからな」

おっとまずい、空気が重くなってしまったぞ。基本的に凛から話題提供をされることはないのでこちらから何か振るしかない。ナビ上の案内がしばらくは直線である事を確認してから、そういえば……と話を切り出した。

「凛も二十歳になったわけだけどお酒飲んだ?」
「あークラブチームの食事会で多少は」

凛が飲んだらどんな風になるのか、実はかなり気になっていた。興味ないことはしないだけで、基本的には何でも卒なくこなせるタイプだと思っているので弱くはなさそうである。しかし、かと言って顔色を変えずにがばがば飲む人とも思えない。

「どうだった?酔っぱらった?」
「別に。どこぞの酔っぱらいと一緒にすんな」
「へーどこの酔っぱらいなんだろうね」
「今隣で運転してる奴だわタコ」
「蛸じゃなくて人間だから私のことじゃないね。ねぇ今度一緒に飲もうよ、凛がどんなになるか見てみたい」
「どうせお前のが先に潰れんだろ」

まぁそれは否定できないが。だけど一緒に飲みたいのは本当。一杯目をビールにするだとかの堅苦しいルールはなしに、サワーでも梅酒でも何でもいいから付き合ってほしい。新しい凛の顔が知れそうだから。

「もうそこまで飲まないし付き合わせないって」
「介抱すんのが嫌なワケじゃねーよ。他人に隙を見せるお前が気に食わねーだけだ」
「すごくはっきり言いますね……」

なんかちょっと凛が素直になった?いや、元々これぐらい言う人だっけ。恋人としての自覚が出てきたのがつい最近なので過敏になっているのかもしれないけれど。



「そこ左曲がって三軒目」
「白い車が停まってるとこ?」
「の先の家」
「あーここか」

道中、渋滞に巻き込まれることもあったが一時間半ほどで目的地に到着した。途中でナビを切り凛の案内のもと辿り着いた家は立派な一軒家だった。和風と言うよりは今っぽいデザインの戸建てで、ここが二人のプロサッカー選手が育った場所かとしみじみ感じてしまった。

「とりあえず先に荷物下ろす」
「私も手伝うよ」

道の端に車を停めて凛と一緒に後ろに回り込む。バックドアを開ければそこには凛が押し込んだキャリーバッグが一つ。結構大きいしこれなら私が乗り込んで中から押した方が取り出しやすいかも。

「ちょっと待ってて」

膝をついて四つん這いになりながら車内へ。そして私が中から押し凛に外から引っ張って貰った。そうすればそこまで苦労することなく、ストンとケースが地面に着地する。見た目よりも重くなかったな、と思いつつ入った時と同じように出ようとすれば凛が身を屈めてこちらを覗き込んできた。

「キャリーケース以外に何か乗せてた?」
「違う」
「え、……っ」

そこからさらに体を半分ほど入れて来たと思ったら、後頭部を支えられてキスされた。予期せぬ出来事に頭が真っ白になって。そして凛の唇が離れて目が合い、そこでようやく何をされたのか理解できた。

「急に、なんで……びっくりした」

力が抜けて車内に座り込む。凛は相変わらず中腰のままこちらを覗き込んでいた。昼間の、しかも自宅前のこんなところでやめてほしい。家族やご近所さんに見られたらどうするの。

「家、寄ってかねぇか?」

そして目の前の男は私の気など知らずにマイペースに話を進めてくる。他に何か言うことあるでしょうが。……って家?もしかしてお呼ばれされてる?そしてもしかしなくてもご両親とエンカウントする?

「いや、でも、突然行ったらご家族にも迷惑でしょ?」
「迷惑じゃねーよ。まぁ今の時間は誰も家にいねぇと思うケドな」

そっかぁよかった。さすがにまだ凛のお母さんやお父さんに会う覚悟までできてないし。でもだからと言って家に上がる心の準備もできていない。彼氏の実家に行くのってかなりハードルが高いイベントだと思う。

「あー…うーん……」

うわぁめっちゃ怖い顔するじゃん。嫌なわけじゃないんだよ。でも今じゃないって言うか何と言うか……

「車あるし…!」
「父さん出掛けてるからそこのスペース使えばいいだろ」
「帰ってきて見知らぬ車停まってたら驚かれない?」
「そん時は説明する」

彼女の車ですって言うのかな。凛が私のことを両親に紹介するって、なんか想像しただけで私の方が恥ずかしくなってくる。でも、嫌なわけじゃない。まぁ凛の話だとそれは今日じゃなさそうだけど。

「凛?帰って来てたの?」

と思っていたのだが……

「母さん?」
「迎えはいらないって言うからどうやって帰ってくるのかと思ってたけどお友達にお願いしてたのね。それにしても凛とそこまで仲がいい子がいたなんて……あら?」

それはフラグでしかなかった。

「は、はじめまして……」

凛のお母さんとエンカウントしました。





男の子は母親に似ると聞くので凛のお母さんはてっきりクール系美女なんだと勝手に思っていた。でもそれは本当に想像でしかなくてご本人は良い意味で普通のお母さんだった。見た目はどちらかと言えば糸師冴の方に似ているか。ただ人当たりもよく品の良さそうな人で、この人があの兄弟を育てた母親かぁなんて同じ女性として感心してしまった。

「お母さん、優しそうな人だね」

そしてお母さんに促されるままに結局家にお邪魔することになった。リビングは片付いてないからという理由でとりあえず二階の凛の部屋に行く。一人で使うにはかなり広い部屋でベッドも大きかった。曰く、昔は兄弟でこの部屋を使っていたらしい。

「怒ると怖いケドな」
「まぁそれはどこの家も同じだよ」

その部屋が物珍しくてつい見回してしまう。凛は下に置きっぱなしにして来たキャリーケースの中身を整理してくると言って部屋を出て行った。一人その場に残され、改めて部屋を見る。凛がここで生活をしていたのなんて十代半ばくらいまでだろうけれど確かにその面影は残っていた。

「おぉ!小っちゃい!」

中でも目を引いたのは戸棚に置かれたトロフィーや盾。そしてその中にはクラブチームで撮った写真も飾ってあった。真ん中に無表情に立っている糸師冴の隣で小っちゃい凛が両手でトロフィーを掲げている。しかしその背中を支えるように冴が凛の方に腕を回していた。

この二人にも仲がいい時期があったなんて今では想像もつかない。でも凛にサッカーを教えたのは糸師冴なんだっけ。あの雪の日の出来事以前は親友のようなライバルのような、そんな関係だったのだろう。

それにしても並べられている盾にはヒビの入っている物もあった。トロフィーは一部欠けているものも見られる。よく見れば接着剤で修繕したような箇所が見られた。これに関しては何となく察しがついたので追求しないでおく。

「待たせた」
「ううん」

とりあえず凛の幼少期の写真はちゃっかりスマホに保存しといた。あくまで写真を撮ったのだからこれは盗撮に当たるまいと判断し黙ってスマホを仕舞う。それに凛が気付いたかどうかは定かではないが特に気にする様子もなく、スッと私に袋を一つ差し出した。

「土産」
「えっうそ?!ありがとう」

まさかそんな物が貰えるとは思ってもいなく素直に受け取る。中を見れば可愛らしい缶に入ったお菓子が出てきた。確かフランスで有名な洋菓子店だった気がする。色々と調べて買ってきてくれたのだろうか。何より凛の気持ちが嬉しかった。

「それと、」
「まだあるの?」

お菓子とは別にもう一つ箱が手渡される。細長いそれはチョコレートだろうか。それもお礼を言って受取り一緒に袋の中に入れようとすれば何故か待ったをかけられた。

「え、もしかして横にしたらいけなかった?」
「ちげぇ。そもそも食いモンじゃねーわ」

だから別で渡してきたのか。じゃあ中身は何なのか。
今開けてもいい?と聞けば無言で頷かれる。箱に掛けられたリボンを解いて蓋を開けた。そしたらそこにはネックレスが仕舞われていて息を呑んだ。

「今までクリスマスに何もあげてなかったから。つってももう過ぎたケドな」

シルバーのチェーンに雫型に加工されたターコイズが一つ付いている。今まで凛がイベント事を気にしたことなんてなかったからその言葉にも驚いた。しかし何より、アクセサリーを貰ったのは今回が初めてだったから尚のこと言葉も出なかったのだ。

「きれい……」
「気に入ったか?」
「うん!ありがとう!」
「そうか」

これなら毎日身に付けられそうだ。となると服も自然と寒色系の色味の物が増えそうである。

「これ付けてみてもいい?」
「今か?」
「うん。それで凛が着けてくれると嬉しかったりする」

流に乗じて我儘を言ってみれば、凛は思いのほかあっさりと受け入れてくれた。箱の中からネックレスを摘まみ上げ、私が背を向ければ正面にネックレスを通す。邪魔にならないように髪をのければ凛がフックを止めてくれた。付けているネックレスは自分からは見えないけれど肌に触れたネックレスの感触が気持ちよかった。

「大切にするね」
「なくすなよ」
「なくさないよ……、ん」

振り返って笑えば当然のことのように唇をかすめ取られた。正直そうされることは分かってたし、そうされることを望んでいた自分もいた。私だって会えなかった三ヵ月分、凛に触れたかった。

「ねぇりん……」
「あ?」
「ちょっとこれはまずい」
「もう家ん中だしいいだろ」
「でも下にお母さんいる」
「今から夕飯作るっつってたから上に上がってこねぇよ。それにやるつもりまではねぇ」

そしてなし崩しにベッドに押し倒されたわけであるがそう言う問題じゃない。この雰囲気が良くない。自分の性欲は強くない方だと思ってはいたけれどこの流れで何も感じない程、自分の体は鈍くなかった。そして煽るように唇以外にキスをしてくる凛も悪い。あと服捲ろうとしないで。

「なんか変な感じになるからだめ」
「…………」
「え、なんで急に無言になるの?」
「いや、お前もそーゆーの感じんだなって」

人を不感症みたいな言い方しないでほしい。それにマグロってわけでもないし……いや、でももしかして反応が薄い方だったりする…?その手の動画も見ないし凛以外の経験がないから普通がどれくらいなのか分からない。

「凛、入っていい?」

ぐるぐると思考を巡らせていたところで扉がノックされた。お母さんの声にはさすがの凛も驚き跳ねるようにして私の上から退く。そして私もベッドから体を起き上がらせ髪と服を整えた。

「なんだ?」
「お茶とお菓子持って来たわよ。彼女に送ってもらったんだからこのぐらい用意しなさい」
「あぁ……」
「いえお気遣いなく!そろそろお暇しようと思ってましたし!」

急いで立ち上がり凛が開けた扉の先にいるお母さんに挨拶をする。でもお母さんは、ゆっくりしていっていいのよ〜なんて朗らかに言ってみせた。そして次にまたとんでもないことを言い出した。

「なんかお父さん、お友達の家で飲んじゃったみたいで運転できないから今日は泊まるって言い出したのよ。だからもしよかったらお夕飯食べてかない?」

もはや突発的なイベントが多すぎて頭が付いてかない。



そして結局、夕飯までご馳走になってしまった。てっきり凛の方が嫌がるかと思っていたけれど思いのほかしれっと「なら食ってきゃいいだろ」とあっさりOKしたのには驚いた。

「ご馳走様でした」

食事中は終始和やかで、でもお母さんには色々と聞かれた。二人はどこで出会ったの?とか今は大学生?とかご実家はどのあたり?とか、とにかく色々。その中でも「この子は無口で不愛想でサッカー以外のことはほとんど何もできないけど一緒にいてつまらなくない?」と聞かれたときには思わず笑ってしまった。

「またぜひ遊びにいらっしゃい」

そして凛も凛で「余計なコト言うな」と膨れたのが面白かった。それに家族相手だとそれなりに喋るらしい。だから思いのほか盛り上がって長居してしまった。

「ありがとうございます」
「凛がいないときでも来てくれていいからね」
「おい」

息子が初めて彼女を、というか人を連れてきたのが嬉しかったらしい。家を出る頃にはそれなりに仲良くなった。

「母さんに付き合ってくれてありがとな」

そして家を出て凛の方からそう言ってくれたのが嬉しかった。寧ろお礼を言いたいのは私の方だ。だって凛は私のことを彼女だってお母さんに紹介してくれた。私にとっては心の準備もできていない状態だったけれど凛がそう言ってくれたから私も堂々とお母さんに挨拶できたと思っている。

「私の方こそちゃんとご挨拶できてよかったよ。今日は本当にありがとうね、あとこれも」

そう言って首元のネックレスを触る。凛の瞳と同じ色をしたターコイズブルーが揺れた。

「あぁ。気を付けて帰れよ」
「うん、じゃあね」

車のエンジンをかけ夜の路を走り出す。

気分が良くなっていた私は帰りにコンビニでお酒とお菓子でも買っちゃおうかなぁと少し浮かれていた。しかしそこでふと思い出したお土産の存在。そういえば貰ったお菓子を凛の部屋に置き忘れてきてしまった。凛が日本にいる間にまだ会うことはあるけれど年内に会うのはおそらく今日が最後だ。となると忘れ物をしたまま年を越すのももやっとする。

車をUターンさせ凛の家へと引き返す。車は家の前に路駐させてもらい運転席から降りる。そしてインターホンを押そうとしたとき後ろからタクシーが走ってきて私の車と並ぶように停まった。お隣さんだろうか。しかしそれにしてはこちら側に寄っているような……

「えっ」

そしてそこから出てきた人物を思わず二度見してしまった。ロングコートを羽織りモデルさながらに季節外れのサングラスをして出てきたのはあの糸師冴。

「この家に何の用だ?」

私の存在に気付いた彼はサングラスを外してこちらを見た。その目は凛とそっくりだ。でも髪色と顔立ちは母親譲りだった。それにしても思ったより背が高いな。海外選手の中にいると分かりづらいが確か一八〇はあるんだっけ。というか顔ちっさ。それもあってか本物を見た瞬間にたじろいでしまった。

「あの、忘れ物をしてしまって……」
「忘れ物?」
「凛からもらったお土産を……あっすみません、凛の彼女です」

軽く自己紹介をした時点で胃に穴が開きそうだった。だって本物の糸師冴が怖いんだもの。見た目とか態度がとかじゃなくてオーラが。初心者装備でラスボスと対峙した気分である。

「は?」

そして糸師冴は糸師冴で信じられないものを見たかのような目をしていた。それは凛の彼女に対して向けられたものなのか、それとも不審者に対して向けられたものなのかは分からない。ただ、後者に間違われて有名サッカー選手のストーカー扱いされることは避けたいところ。だからこのタイミングで糸師冴にスマホを取り出されたときは本気で焦った。

「ほ、本当です!不審者とかではなくて…!」
「あぁ、ウチで飯も食ったのか」
「へ?あ、はい…!」
「母さんからメッセージ着てた。凛が彼女連れて来たって大喜びしてる」

ちょっと恥ずかしいけれどお母さんに助けられ、あらぬ疑いを掛けられずにすむ。そして糸師冴は改めて私を見た。この人もこの人で何を考えているのか読めない。そういえば凛も初めの頃はそうだっけ。

「凛の奴、今帰ってきてるのか?」

そして徐に口を開いたかと思えばそんなことを聞いてきた。凛が帰省すること知らなかったんだ。まぁ凛から話すわけないか。

「はい」
「いつもこの時期はゼッテェ帰ってこねーのにな」

私と話すというよりは独り言のようにそう言っていた。そしてその瞳は二階の明かりの付いた部屋へと向けられている。そこは確か二人が育った部屋のはずだ。

「お客さん、荷物下ろすの手伝いましょうか?」

会話が途切れたタイミングでタクシー運転手が窓を開けて糸師冴に申し出た。もうメーターは切っているはずだから運転手としても早く仕事を終わらせたいのだろう。しかし糸師冴は運転手に返事をするどころか自分でドアを開けてタクシーに乗り込んだ。

「えっお客さん?!」
「駅方面に頼む」
「あ、あのっ」

自宅に寄らずに立ち去ろうとする糸師冴に声を掛ける。この人が私に気を使うことはまずない。だとしたら考えられるのは凛に会いたくないからか。それは多分凛もそうなんだろうけどこのまま見過ごすのも後味が悪い。

「なんだ」
「家に帰らなくていいんですか?」
「余計なお世話だタコ」

ですよね!うん、知ってた!
そのままタクシーは再び夜の中を走り出し私は一人残される。でもこの状態で凛に会う気にもなれずに、結局インターホンを鳴らすことはなかった。

その翌日、凛からの連絡があり今日糸師冴が帰ってくると聞かされた。だから凛は残りの日本での滞在期間をホテルで過ごしていた。両親とは出国前に顔を合せたそうだけど徹底的に糸師冴のことは避けたらしい。だから私も糸師冴に会ったことは言わないまま、この休み期間は凛と楽しむことだけを考えて過ごした。

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