いってきます
先ほどの試合の興奮は覚めやらず、なおも報じられるリプレイ映像を見ながら凛の帰りを待つ。そして日を跨ぎ、テレビ画面はニュース番組から深夜の通販番組に切り替わる。だからリモコンを操作してサブスクの動画配信に切り替え、飽きもせずに今日の試合を振り返った。
——それから二時間ほど経っただろうか。うつらうつらと舟をこぎ始めたところで玄関の方から鍵を開ける音が聞こえた。意識は途切れ途切れで流していた試合もいつの間にか終わっている。今は肩を叩いて喜び合う青のサポーターたちが映し出されていた。
「ん、……おかえり」
「まだ起きてたのかよ」
「もちろん」
欠伸を噛み殺し目をこすりながら立ち上がった。しかしその時、凛が肩に掛けていた荷物を下ろそうとしたので慌てて駆け寄る。横からエナメル生地のバッグを支えようとすれば驚いた顔をされた。
「なんだ?」
「試合で怪我してたでしょ。大丈夫なの?」
「問題ない。試合後に検査もしたからな」
ただ、しばらくは練習量を控えるようには言われたらしい。もしかしたら次の試合のフル出場は難しいかもしれない。欧州では週二試合やるというのもザラにある。
「凛、」
名前を呼べば無機質な目が向けられる。帰って来たときからなんとなく感じてはいたが、今この瞬間確信した。
「自分のゴールに納得してないの?」
初めは怪我が痛くて我慢しているのだと思った。でも凛の言ったことに嘘はないだろう。次に考えられたのは試合後の疲れであるがそれとは違うヒリついた空気を凛は纏っていた。
「フリーキックのゴールは得点じゃねぇ」
やっぱりそうか。そしてタイミングよく点けっぱなしであったテレビにも凛が映し出された。今の発言を決定づけるかのように画面越しの凛も似たようなことを言っている。故に本日のヒーローインタビューは一分も持たずに終わったのだ。
「糸師凛にとってはハットトリックではなかったと?」
「……残り三分ないとはいえ、あそこまで相手が寄せて来るとは思わなかった。シュヴァリエにパスを出す選択肢もあったが向こうのフォローのが早くてパス回しがグダるコトを警戒した。その結果のフリーキックでのゴール、あれは得点じゃねぇ」
本当にどこまでもストイックだ。完璧なまでの二得点に満足することなく三得点目のフリーキックの結果にこだわる。もしかしてハットトリックの約束を気にしているのだろうか……と少しだけ自惚れてみたが、これはきっと凛の中のエゴが納得していないのだろう。
「ねぇ凛、ちょっと屈んでくれる?」
「なんだ?」
「いいからいいから。それで私の指を見てて」
腰を折り曲げてもなお、私より身長は高いが十分に距離は近づいた。そんな凛の目の前に人差し指を立てる。それをじっと見つめている瞳に徐々に指を近づけた。しかし顔に触れる直前に手を急上昇させる。そして意識がそがれた一瞬の隙を付き、折り畳んでいた中指でおでこを思いっきり弾いた。
「イッテ…?!」
「あ、ごめん。思ったより力入っちゃった」
「いきなり何すんだ?!殺すぞ!」
「おっかないなぁ」
久しぶりに聞いた殺人予告に思わず笑う。すぐに涙目の凛に睨まれたけれど何にも怖くなかった。でも本当に強くやり過ぎてしまったようでおでこは僅かに赤くなってしまっている。だからその額に手を伸ばして、それから頭を撫でた。
「だからなんっ——」
「今日の凛、かっこよかったよ」
もしかしたら叩き落とされるかも。なんて思っていたけれど凛は思いのほか大人しかった。されるがままでそのまま顔を下へと向ける。おかげでより撫でやすくなった。だから私もそのまま言葉を続けた。
「凛のことだから試合が終ってからずっと三得点目のゴールについて考えてたんでしょ?病院で診察してもらってる間も家に帰るまでの時間もずっと考えて。それでちゃんと自分の中で分析して反省点も見つけられてる」
多分、こういう言われ方をされるのは嫌いだと思う。ただ一人≠除いて、誰に褒められたってきっと彼は自分のプレーにいつまでも納得しないのだろう。それがストライカーとしての糸師凛だ。でも、だからこそ私は凛に言いたい。
「自分が勝ち点を挙げた試合にそこまでストイックに考えられる人はそういないよ。そういうのも含めて凛はすごいよ、かっこいい」
彼が自分に厳しい分、私はめいっぱい彼のことを褒めてあげたい。賞賛したい。サッカーをやってもいない人間に言われても鬱陶しいだけかもしれない。ただのいちファンとしての声にすぎないけれど、それでも言いたかった。
「試合お疲れ様でした」
私が言いきれば部屋はしんと静まり返る。時が止まったかのような夢みたいな静かな空間。しかし時計の秒針がその役割を忘れなかったおかげで今が現実であることを教えてくれた。
「……?」
キュッ、と靴が床を擦る音と同時に凛が距離を詰める。頭から手を退ければさらに一歩詰め寄られデコピンをお見舞いしたおでこが私の首筋に収まった。凛の呼吸が肌を撫でてくすぐったい。それから腕を回されてぎゅぅっと抱きしめられた。同じように背中へと腕を回せば凛が頭を上げて背筋を正し、自分の胸に私を引き寄せる。
「次は完璧なハットトリックを決める」
「ふふっ楽しみにしてるね」
ほんと凛はかっこいいね。ただこの言葉はもう言わないでおこう。私のボキャブラリーのなさでは次にハットトリックを決めた時に言う言葉がなくなってしまうので。
「それと、」
まだ何かあるのだろうか。しかし腕の力が強くて身動きが取れない。だからそのまま胸に埋もれたままその続きを待った。
「ただいま」
ようやく聞けたその言葉に安心した。そしていつか私が凛の帰る場所になれたらいいなと、烏滸がましくも本気でそう思ったのだった。
◇
決して整理整頓が苦手なわけではないけれど、なんでキャリーケースって一度開くと元に戻せなくなるのだろう。確かにお土産も多少は買ったが十分な空きスペースはあったと思ったのにな。
「うーん……」
「紙袋ならあるケド使うか?」
「ありがとう、助かります」
今日の午後の便で日本に帰る。その荷造りを今現在しているわけだがキャリーケースの中が爆発していた。それを見かねた凛から紙袋を頂き一部を移しかえる。
「これは別に置いてきゃいいだろ」
荷造りしている私の後ろで文字通りの腕組後方彼氏面をしていた凛が顎で荷物をしゃくった。それはこちらで使っていた室内履きのサンダルと寝間着。凛の服はさすがに大きすぎたので大学の下見に出た際に買ってきていたのだ。
「え、凛が着るの?」
「んなワケねーだろ!また泊まり来るときにどうせ必要になんだろ」
また来いよって言ってもらえた気がして嬉しかった。
それなら、とお言葉に甘えこの家に置いていくことにした。それからまたテトリスのように荷物をうまい具合に詰めていく。これなら紙袋なしでもなんとかなりそう。そうしてギリギリの戦いを繰り広げていれば凛がキャリーケースのすぐそばでしゃがんだ。あ、しまった。
「これなんだ?」
プチプチの緩衝材に巻かれた長方形のブツ。荷物を詰めるのに必死で一度ケースから出したのを忘れていた。あとでこっそりラッピングしようと思っていたのに一番みっともない状態を見られてしまった。
「お菓子、かな?とりあえず返して」
「ン、……なんか落ちたぞ」
そしてそのラッピングがブツの下から出てきてしまった。青色の包装紙と銀色のリボンが床に散らばる。ここまでくれば察しがついてしまうだろう。
「ごめん、本当はちゃんと渡すつもりだったんだけど……」
「?」
おや?もしかして気付いていない?当日ではないにしろさすがに気付くと思ったんだけど。これならまだ誤魔かしができたかもしれない。でもここまで来て一度引くのも空気が悪くなりそうだったので勢いのまま渡すことにした。
「一日早いけど、誕生日おめでとう」
今日は九月八日、凛の誕生日の前日だ。本当は九日に祝えるように来るつもりだったけれど日本との時差を忘れて航空機を手配してしまったために叶わなかった。でもプレゼントだけは手渡ししたかった。
「……あぁ」
「もしかして自分の誕生日忘れてた?」
「忘れてはねーよ。ただ特別だとも思ってねぇだけだ」
でも「ありがとう」と言ってプレゼントは受け取ってくれた。そして開けてもいいかと聞かれたので、どうぞと答える。包装紙でもないただの緩衝材なのに凛は思いのほか慎重にテープを取って丁寧に開けていった。
「絵……写真か?」
「うん。アートパネルって言うみたい」
「それとこの景色ってアレか?地元の海でコンクリート壁の上から見える…」
「そうだよ」
長方形のパネルは四分割されており、それぞれに同じ海の写真がはめ込まれている。左上から時計回りに春、夏、秋、冬の景色が載せられている。そしてそれは凛がよく足を運んでいた場所から見える海の写真だ。
「季節ごとに地元に帰って写真撮ってね、一年がかりで作ったよ」
「これお前が撮ったのか?」
「お父さんの一眼レフ借りたんだ。結構うまいでしょ?」
まぁかなり練習はしたんだけどね。そして同じ景色だからこそ撮影する時間帯にはかなり気を使った。春は日の出前、夏は夜、秋は夕暮れ、冬は早朝、と枕草子をなぞり大学が休みの日に地元に帰っては撮影にチャレンジした。
「さすがにパネルへの加工は業者に頼んだけどね。もうフランスでの生活には慣れたと思うけどやっぱり地元は忘れて欲しくないからさ」
この場所は凛のひとつの原点だと思ってる。この景色を見ても思い出すのは良いことよりも苦い記憶の方が多いかもしれない。でも凛にとってはきっとどちらも大事なものだ。
「そうか」
凛の顔が一瞬泣きそうに見えたのは気のせいだろうか。もしかしてホームシック?憂い奴め、と思いながら昨日と同じように黒髪に手を乗せた。
「凛はもう何でも買えちゃうくらいお金持ちだから考えるの大変だったんだよ。このプレゼントは満足して貰えた?」
「あぁ。大切にする」
そしたらびっくりするくらい頬が緩んだのでこちらが面喰ってしまった。凛の表情筋はまだ生きてたんだなって本気で思うほどには驚いた。
しかしそれも一瞬ですぐにいつもの顔に戻って立ち上がる。それから部屋を見回して、寝室の壁にそのパネルを飾っていた。曰く、寝る前に見ると落ち着けそうだからとのことだった。
「忘れ物はねぇか?」
「うん、大丈夫」
そしてついにこの家ともおさらばするときが来た。四日ほどしか過ごしていないのにもう自分の家のような安心感さえある。しかし私がこの地に住むためには母国に帰ってまだまだ勉強しなければならない。
「やっぱり空港まで送る」
「だからいいって!タクシーも呼んだしそのまま空港に行くから!」
パリ市内から空港までのタクシー料金は近年一律化されたのでそこまで高くつくわけでもない。このマンションは市内からは少し外れてはいるけれどそれを差し引いても安全を買えるなら安いものだ。それに時間にはまだ余裕があるため交通渋滞の心配もない。
「行けたとしても空港でトラブったら困んだろ」
「昨日の試合で大活躍した選手が現れてその場でファンに気付かれた方が困るよ」
凛が心配してくれるのは嬉しいが、その前に自分の立場を理解していただきたい。こんな言い方したくはなかったけれど、説得するよう強めの口調で言えば納得はしてもらえたらしい。そのかわり空港に着いたら公衆電話から連絡しろと言われた。このご時世に公衆電話があるかは不安だが空港ならあるだろうと思い承諾する。
「じゃあ行くね」
「あぁ」
「あっ今日は凛がやってよ、気合入れるやつ」
そう言って玄関を正面に凛に背中を向ける。毎回、私が謎の儀式としてやっていた行為だが今回は立場が逆なので所望してみる。すると「腰が砕けても知らねぇからな」と脅された。もしかして背骨折られます?
「じゃあいくぞ」
「え、やっぱまっ……、っ」
ど突かれる覚悟でいたが、身体は全くの逆方向の力に引き寄せられ後退した。しかし倒れずにすんだのはその大きな体に受け止められたからで。私の身体はすっぽりと凛に抱きしめられていた。
「……本当に帰んのか?」
そう耳元で囁かれて足元がぐらつく。これはまずい。本当に腰が砕けるかも。
「帰るよ。大学もあるし」
その答えを拒絶するように腕の力が強くなる。言うことを聞かずに駄々をこねる子どものようだ。でもそれと共に愛おしい気持ちが込み上げて決心が揺らぎそうになる。毒を飲まされたような気分だった。
「次は留学生としてこっちに来るから。一年なんてあっという間だよ」
自分に言い聞かせるように言った。来年の秋にはこちらの学校に通うことになっている。今までのことを考えたら一年なんて瞬きほど一瞬に過ぎることだろう。
「待てねぇ」
「凛、」
「それより先に俺が会いに行く」
腕が緩められたので体の向きを変えて凛と向かい合う。そうして見上げれば目の前のターコイズブルーに自分の顔が反射した。
「先に?」
「今年の年末は日本に帰る」
凛がそう断言したことに驚いた。確かにその時期はリーグ戦も中断されウインターブレイクに入る。でも凛はお兄さんに会いたくないからいつも時期をずらして無理やり帰省していたのだ。
「ほんと?」
「あぁ」
大丈夫?なんて聞くのは野暮だと思った。だから、待ってるねと短く応えて背伸びをして唇を重ねた。
「んぁっ……」
先を越されたのが気に入らなかったのか、それともスイッチを入れてしまったのかも分からないがやり返された。唇の隙間から捻じ込まれた舌が絡み合って水っぽい音を立てる。もうそろそろマンションのエントランスに下りた方がいいというのに、どんどん名残惜しくなってしまう。
「はぁ……りん、もう…」
「わかってる」
リップ音を残して唇が離れ、その代わりにぎゅうっと強く抱きしめられた。そして今度は私が凛の胸に手を付いて身体を離す。もう本当に帰れなくなりそうだったから。
「じゃあまたね」
「おう」
キャリーケースを持って扉を開ける。そこでもう一つやっておきたいことを思い出してしまった。振り返って凛を見れば首を傾げられた。その顏は「忘れ物か?」と言いたげだったが、ある意味間違ってはいなかったので私は小さく笑ってその言葉を口にした。
「いってきます」
送り出される立場になってみたかったのだ。
「いってらっしゃい」
そしたら凛はちゃんと答えてくれた。
その言葉に励まされたような感覚になり、私は日本へと帰国した。