再会には乾杯を


大学三年の八月下旬、フランス留学と言う形で私は日本を発った。ここから丸一年は日本には帰らないつもりである。だからか見送りには家族だけでなく友人達も来てくれた。涙ながらに見送られるとやっぱりなんだか寂しくなってきてしまう。しかし今やインターネットの時代。例え地球の裏側にいようともすぐに連絡は取れる。

だから皆には「忙しくなると思うから連絡はマメじゃなくていいけどSNSの更新くらいはしてね!」と言われた。そして付け足すように「イケメンとお洒落な風景の写真待ってる!」とも。おそらくこちらが本命である。だけどそのおかげで気も楽になり、いってくる!と笑顔でフランスに向かうことができた。

一年ほどかけて留学の準備はしてきた。フランスでの住まいは学生寮になるので家具が全て揃っているのはありがたい。食事に関しては自分で用意しなければならないが寮には共用のキッチンもあり、また学生都市でもあるので手ごろな飲食店も多い。生憎、自分の住む寮に日本人はいないがだからこそ語学も身に着くというわけで学校以外でも勉強の日々だった。



「久しぶりだな」
「うわっ久しぶりに聞いた日本語の安心感がやばい」

九月になればいよいよ学校も始まり大忙しに。そしてやはり慣れない生活に気を張って寮に帰れば寝落ちしてしまうことがほとんどだった。だからせっかく同じ地にいるのに凛に会いに行く余裕もなく……そのため十月になってようやく年始ぶりの再会を果たしたのである。

「ホームシックか?」
「いやそうなる暇もないくらい一日が一瞬で過ぎてたから……でも凛に会ったら唐突に日本が恋しくなってきた」
「とりあえず中入れ」

凛のマンションに足を踏み入れる。ここは昨年私が訪れた家とは違う凛の新居である。どうやらつい最近引っ越したらしい。以前の場所よりも広くて見るからに高級そうなマンションだ。後ろで扉が閉まれば音を立てて自動でロックが掛かる。その瞬間、私の視界は暗くなった。

「凛……?」
「来んのが遅ぇわタコ」

ぎゅぅっと、それこそ骨が悲鳴を上げるくらいの力で抱きしめられた。気のせいかもしれないが少し見ない間にまた体が逞しくなったように思える。

「ごめんね」
「電話も出ねぇし」
「帰ったら寝落ちすることも多くて」
「許さねぇ」

そう言って噛み付くように唇を奪われた。今夜は凛の家に泊まるつもりで来たから散々な目にあうことは何となく予想はついたが始まりは唐突に。そして理性なんてものも飛んでいるようで何度も啄まれた。
現にそれは深くなっていき舌が絡み合って唾液が交わる。私が体を少しでも動かそうとすれば背中に回された腕の力が強くなり、もう片方の手は胸板についていた手首を握る。どこにも逃げないというのに、凛はこういう風に分かりやすく拘束をしてくるのだ。

「凛は可愛いね」

唇が離れた隙をついてそう言えば眉間に三本筋が刻まれる。子どもっぽいその表情が私は可愛いと思うし、何よりも愛おしく感じる。でも本人は馬鹿にされたと思ったらしい。分かりやすく舌打ちをされた。

「あ?お前はこの場で襲われてぇのか?」
「急に治安悪くしないでよ。ほら、お酒も買ってきたんだ。一緒に飲も」

日本が恋しいと言ったけれど私が恋しかったのは凛だったようだ。まだ夜は長い。せっかくの二人の時間なんだから楽しまないと。あとこの時間からされたら私の体力は確実に持たないし翌日には筋肉痛で帰れなくなる。

「遅くなっちゃったけど先期のP・X・Gのリーグ・アン優勝を祝して乾杯!」

手土産をテーブルの上に広げソファに並んで座る。ダイニングテーブルでもよかったんだけどこっちの方が凛の近くにいられるから、こっちにした。

「もう今シーズン始まってるけどな」
「それはほんとごめん!」

自分のペースを害されたのが気に入らなかったのか、実にトゲのある言葉をもらってしまったが気にせずグラスを合わせる。中にはそこまで度数の高くないベルギービールのエールが注がれている。芳醇でフルーティーな香りが特徴で比較的飲みやすいものだ。

「これ美味いな」
「でしょ?大学の子に教えてもらったんだ」

私の通う大学はフランスの北部にあるがフランスよりはベルギーの文化を強く受けている。現に建物も白よりはレンガ造りの茶色い街並みで食文化もベルギー寄りだ。主食としてじゃがいもを使った料理、フリッツ(フライドポテト)の屋台も多いしとんでもない量のムール貝を食べている人も見かける。私が持って来たこれらの物もその大学周辺の店で買ってきたものだ。

「もう知り合いできたのかよ」
「ううん、そういうのじゃなくて偶々講義で隣の席だっただけ。親切心で色々と教えてくれたみたい」

お酒のアテとしてテイクアウトしてきたムール貝の蒸し焼きや牛肉の煮込み料理、チーズやチョコレートなんかも良いお店を教えてもらった。以前、フランスでスリに遭ったこともあり初めは何か裏があるんじゃないかと疑ったりもしたが純粋に親切な人が多い。それは大学最寄りの駅に到着した際、客待ちをしていたタクシー運転手に「どうだい?ここは素敵な街だろう?」と聞かれてしまうくらい彼ら自身もまたその性格に自信を持っているほどだ。

「……ふぅん」
「先に言っとくけど女の子だからね」
「は?別に聞いてねぇし」
「独り言だから気にしないで」
「フン」

凛はグラスを傾け残りのビールを全て煽った。しかし顔色は変わらずにまだ余裕そうである。この様子だと少なくとも私よりはアルコールに強そうだ。まだ飲む?と聞けば頷かれたので新しくビールを注いだ。

「そういえば凛がモデルやってるブランドの広告見たよ」
「ン゛ッ」

スマホを取り出し自身のSNSを立ち上げる。そこからフォローしている凛のページに飛びアップされている画像をタップした。これどうやって着るの?と問いたくなるくらい複雑な洋服を、しかし凛は抜群のスタイルの良さで着こなしていた。

「日本でもニュースになってたよ。まさか凛がこんな派手な仕事受けるとは思わなかった」

以前もモデルのような仕事をしていたがそれはクラブチームが受けた仕事だったため断れなかったそう。それに内容もスポーツ用品に関わるものだった。しかし今回はフランスでも名高い洋服ブランドのモデル。しかもそのブランドの日本人起用は凛が初めてらしい。

「それはマネージャーに言われたからだ」
「リシャールさん?」
「あぁ」

クラブチームと契約を結んでいたリシャールさんは今年に入り凛と単独契約を結んだのだ。その彼が言ったというのは少し違和感がある。

「凛にサッカー以外の仕事をしろって言う人じゃないと思うんだけど」

リシャールさんは凛にとってはフランスの母のような人だと思ってる。保護者であり教育係みたいな。そして凛の愛想のなさまで十分に把握している彼がこんな表に立つような仕事を持ってくるだろうか。

「……クラブスポンサー主催の懇親会」
「うん?」

それにしてもこのビール飲みやすいな、と自分のグラスにもおかわりを注ぐ。その横で凛は自分の前髪をかき上げながら頭を抱えていた。その横顔は苛立っているように見える。

「その会長の娘だとかいう女に会の最中ずっと付き纏われて。終いには腕掴んで誘ってきやがったから『casse-couilles(クソうぜぇ)』つったらそこのスポンサー契約打ち切られた」
「あー……」

凛曰く、その程度で契約を切ってくるスポンサーなどクラブチームからしてもいらないらしい。でもきっとリシャールさんはお灸を据える意味でも今回の仕事を凛に振ったのだろう。クラブの運営にはどうしてもスポンサーからの出資が必要不可欠だ。

「なんでサッカー以外のコトに時間と労力使わなきゃなんねーんだよ」
「スポンサーからの支援あってこそ練習ができるんだよ。まぁだからって王様面されるのもムカつくけどね」

ムール貝をスッと一口で食べればしっかりと弾力が感じられその中から汁が溢れ出す。お酒のアテにちょうどいい塩加減である。これは確かに皆から愛される食べ物なのかもしれない。

「お前そんな口悪かったか?」
「え、うそ……今の言葉汚かった?」
「お前にしては」
「くっどこかの誰かさんのせいで…!」
「やめろ」

えいっと鳩尾に猫パンチを喰らわすが私の拳が痛いだけだった。この腹筋が憎い。そしてすましたその顏も。でも、凛に女の影がないようで安心した。

その後もBGM代わりのテレビを見ながらちょっとずつお酒を飲みながらおつまみを摘まんでいく。しかし二杯目の途中ですでに眠くなってきた。頭がふわふわする。

「あった」

船をこぎ始めそうになったところで隣からそんな声が聞こえた。凛の手にはスマホが握られていて何かを探していたらしい。面白いものでも見つけたのだろうか。

「なになに?」

凛にもたれ掛かるようにしてその肩に頭を預ける。そしてスマホ画面を覗き込めばそこにはよく見知ったものが表示されていた——私のSNSアカウントのページ。そして凛は何の迷いもなく『フォロー』の文字をタップした。フォロワー五十万人越えの糸師凛のアカウントから私のことをフォローしたのだ。

「は、ちょっ、まっ……貸せい!!」
「あ?」

この瞬間に眠気は一気に吹き飛んだ。凛の手からスマホを取り上げすぐにフォローを解除する。相互だった時間はわずか三秒。さすがにこの短時間で糸師凛のフォロー人数が増減したことに気付く者はいないだろう。

「なにやってんの?!フォローしないでよ!」
「は?なんで他の奴はよくて俺はダメなんだよ。つーかお前だって俺のコト、フォローしてんじゃねーか」
「立場を考えなさい!」

企業や同業者しかフォローしていない人間がフォロワー百前後の女と繋がったら確実に関係を怪しまれるでしょうが。外に出るときはそれなりに変装するようになったからてっきりそのあたりの自覚も出てきたのかと思いきやネット関係の危機感は低いらしい。それはきっとネットを通じてやり取りする友人もいな…——おっと誰か来たようだ。

「誰も人のフォロー欄まで見ねぇだろ」
「もしや凛が潔くんと相互になったときのファンの荒具合をご存知ない?」
「なんだそれ」

『サポーターの応援あってこその優勝!これからもP・X・Gをよろしくお願いします!』と、明らかにスタッフが書き込んだであろう凛の投稿には多くのコメントが寄せられた。それは他のリーグで戦っている選手たちからも。その時に寄せられた潔くんからのコメントにいいねを送り、そして元より凛のことをフォローしていた潔くんのことをフォロバしたのだ。

「ほんとすごかったよ。『潔選手おめでとう!』ってワードがトレンド入りしたくらいだし」
「あれはマネージャーが勝手にやったんだ。つーかなんで潔が祝われてんだよ」

そりゃあ凛の投稿が上がる度に潔くんがコメントを残し続けていたからだ。他にも廻くんや蟻生選手、二年前にスペインのチームに移籍した士道選手なんかも凛のSNSに反応することはあった。それでもここ数年、すべての投稿にコメントを残していたのは潔くんただ一人だった。

「凛が無視し続けたからでしょ……」
「アイツと仲良しごっこなんてする気はねーんだよ」

と言いつつフォローは外してないんだよなぁ。素直じゃないあたりどうしようもなく甘えん坊か。きっと潔くんもほっとけないんだろうな。まぁそれはともかくとして、SNS上で私と仲良しごっこはしないでほしい。

「凛が女のアカウントをフォローしたって知れたら炎上確定だから私のことはフォローしないでね」
「…………」
「りーんー」
「チッ…わーったよ」

ヤケクソのようにビールを煽った凛を見て不安になる。が、やはり顔色は変わらなかった。仕事関係で飲む機会も増えたのだろうか。やっと凛に追い付き始めたと思ったのにまた先を行かれているようでちょっと悔しい。だから私も同じように残りグラス半分のビールを一気に煽った。

「おい、お前はペース考えろ」
「もう自分のキャパは分かってるから大丈夫!ねぇ今度はこれ開けてみよ、パスティスなんだけど青色なんだって」

凛の瞳と同じ色だよ、と言ってグラスに注げばその色は澄んだブルーだった。凛の瞳よりは少し明るすぎるかも。でもパスティスの面白いところは水を加えると白く濁るところだ。アルコール濃度が低くなることによりこのような変化を楽しめるのだそう。

「これくらいかな?凛の瞳の色に近づいた気がする」
「んなドブみたいな色してねーわ」
「ひどっ」

目線の位置までグラスを持ち上げ見比べてみるが、確かにドブとまではいかないがお酒は濁り過ぎていた。まぁでもドブ味と言うわけではないので飲めないということもないだろう。

「これ、」
「うん?」

徐に凛の手が伸びてきて私の首に触れた。それはするりと滑り指先がチェーンに引っ掛かる。そこには凛から貰ったターコイズが光っていた。

「付けてくれてんだな」
「貰った日から毎日付けてるよ。もうお守りみたいになってる」

おかげで新しく服を買う時、このネックレスが似合うかどうかが購入する判断基準になってしまった。それくらい気に入ってるし大切にしている。

「そうか」

あっ凛が笑った。お酒も入っているせいかその表情もいつもよりほんの少し柔らかいような気がする。でもその差も周囲から見たら和也と達也くらい見分けがつかないものであろう。

「凛はさ、お守りにしてるものとかゲン担ぎ的なことってしてるの?」
「別にねぇな。メンタルを整えるために作る奴もいるがそれがないと不調になるっつーのも言い訳にしかなんねぇからな」
「凛らしいね」

手元のお酒に僅かに舌を付ける。うっ……思ったより度数高いかも。あとこの独特のハーブの香りが薬っぽくて苦手だ。甘いシロップを入れればいけそうだがこのままでは流石にキツイ。

「まぁでも、言霊的なのは信じてる」
「言霊?」

グラスをテーブルの上に置いて凛と向き合う。そうすればお酒よりもネックレスよりも綺麗なターコイズブルーと目が合った。

「来年はチャンピオンズリーグに出る」

チャンピオンズリーグ——欧州のサッカークラブチームの頂点を決定するリーグだ。強豪同士のハイレベルな試合内容から世界中のサッカーファンが注目する最高峰のリーグ。全てのサッカー選手がこのフィールドに立つことを夢み、熱狂の渦の中ただ一つの王座を奪うために奮闘する。

「次はゼッテェ選ばれる」

P・X・Gとしてはチャンピオンズリーグへの出場は決まっているが凛は選手に選ばれなかった。どのクラブチームも優秀な選手を抱える戦国時代、単純なゴール数だけで選ばれるわけでもない。とくにフォワードとなればその枠の争いもよりシビアなものとなる。また、凛と同じ世代の日本人の中ではまだ誰もチャンピオンズリーグへの出場を叶えた者はいない。

「それが今リーグの抱負だね。応援してる」

理想を明確に語るのは重要な行為だと、かの有名なフットボーラーであるクリス・プリンスも言っていた。自分の理想を語ることで理想≠ニ一致しない自分を自分が許せなくなると。やろうとしていることから逆算して物事を思考することでその理想≠現実にする。

「ちゃんと見とけよ」
「じゃあ試合見に行っていい?」
「それは……考えとくから待ってろ」

凛のコネでチケットを用意してほしいわけじゃないんだけどな。でもせっかく一年はこっちにいるわけだし少なくとも一回くらいは見に行きたい。しかし私の軽はずみな発言のせいで大分凛を困らせてしまったらしい。頭を抱えたまま無言になってしまった。

「凛もこれ飲んでみる?」

気分を変えるためにもパスティスの入ったグラスを渡す。度数が強いから気を付けてね、と伝えて渡せば凛も少しだけ口に含んだ。しかし独特の味にやられたのかその顔は険しい。

「ちょっと私たちには早すぎたね」

包み紙を開き、口直しのチョコレートを口の中に放り込む。そうすれば口に残った薬っぽさも幾分か和らいだ。凛も食べる?と目の前にチョコの包みを差し出す。そしたら手が伸びてきて包みをを掴み…——と思ったら手が握られてそのままソファの背に押し付けられた。

「んっ……、ふ」

チョコレートが残った舌が舐めとられて身震いする。その後も角度を変えて、それこそ食べるように唇が甘噛みされたり舌を吸われたりする。そして混ざった唾液を飲み込めば咽そうになった。うぅ、苦い。

「りん、もうよったの?」
「口直しだタコ」
「わたしはにがいよ……」
「よかったな、これで眠気も吹き飛んだろ」

もしや私が寝落ちしそうになったことに気付いてたな。なんかこういう場面で察しが良かったり流れがスムーズだったりするとすでに百人くらいの女と経験があるんじゃないかと思えてくる。しかしそんなこともなく……となると

「むっつりか……」
「あ?テメー殺すぞ」
「殺されるならベッドの上がいいかな」

あ、動揺した。その目の動きが面白くて笑ったら案の定ブチ切れられた。互いにそれなりに成長したというのにふとした時に高校時代のあの日に戻る。それが懐かしくて面白くて。そしてやっぱり凛のことが好きなんだなぁと再確認する瞬間でもあるのだ。

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