風邪を引いたときは大体弱気


寮の一階にはキッチンの他にもテレビやソファがあり、所謂談話スペースになっている。ここでは寮生同士の交流があり週末ともなれば皆好き好きにお酒を飲んだりして語り合う。強制参加でもないから出入りも自由で私も何度かお邪魔したことがあった。

「遅いな……」

しかし休日の朝の時間帯は誰もいなかった。今日はこの寮で仲良くなった子と一緒に朝早くに街に出て朝食を取ろうと約束していたのだ。そしてその足でショッピングにも行こうと。だが待ち合わせの十五分を過ぎても彼女は姿を現さない。

まぁ時間に正確に動くのは日本人くらいなものでこれに関してはお国柄って感じだ。加えて彼女は身支度に時間を費やすタイプ。韓国美女の納得がいくまで身だしなみチェックは終わらない。
同じ建屋に暮らしているのだから部屋の戸を叩きに行ってもいいのだが別に急いでいるわけでもない。だから共用スペースの棚からインスタントコーヒーを取り出してこのまま彼女を待つことにした。



「ごめん!遅くなった!」

そして待つこと一時間、ようやく彼女が姿を現した。私は共用スペースから拝借した雑誌を戸棚に戻し彼女にジト目を向ける。待つ間にコーヒー二杯は消費した。

「ソユン、さすがに遅すぎ!」
「ごめん〜!」

艶のある黒髪を外巻きにし、細く長い脚が際立つようなスキニーパンツ姿で現れた美女は眉を八の字にして笑っている。でも申し訳ない気持ちはちゃんとあるようで「ごめんなさい!」と両手を合わせて頭を下げた。こういう憎めない可愛さがあるからこちらもつい許してしまう。

「分かったからもういいよ」
「ありがと!じゃあさっそく行こ!」

お腹空いた〜!とマイペースにそう言って私の腕を掴んではぐいぐいと引っ張っていく。ソユンは私と同じ時期にこの寮に来た韓国人の女の子で通っている大学も同じ。それに留学期間も同じだった。そんな私たちが仲良くなったきっかけは母国との食文化の違い。

「フランスにいながらお米を、しかもセウチュッ(エビ粥)を食べられるのは嬉しいわ!」

フランスの食事が口に合わないってわけじゃないけどやはり故郷の食事が懐かしくなるもの。ある日、キッチンで親から送ってもらったインスタントラーメンを作っていたときに声を掛けてきたのが彼女だった。

「ソユンはいいお店見つけるの上手いよね」

同じアジア圏だからか味覚や好みがよくあった。それから一緒に食事をする機会も増え、今では休みの日に一緒に出掛けるくらい仲良くなった。

「まぁこれも将来に繋がることだからね」

ソユンの夢は自分のアパレルブランドを立ち上げること。ファッション関係のことを学ぶために留学したらしい。だから新しい事には敏感だし常にアンテナを張っている。そして美に対してもストイックで自分に厳しい。それにしても……

「楽しみ〜!」
「今日は随分と機嫌がいいね」

朝は弱く、いつもはスイッチが入るまでに時間が掛かるというのに今は飛び跳ねるほどに元気だ。髪の巻き方が上手くいったからか、それとも新色のリップでも塗ったからか。

「ふふっ実はね、彼氏から電話が来たの!」

彼女には韓国に大好きな彼氏がいる。よく惚気や愚痴を聞かされているのでその関係はよく知っていた。だから下りて来るのに時間が掛かったんだなと思いつつその時間帯に驚く。フランスの今の時間から計算すれば韓国は真夜中のはずだ。

「そんなに嬉しい電話だったの?」
「韓国で初雪が降ったから電話をくれたの!これ以上特別なことはないわ!」

そういえば韓流オタクの母親から聞いたことがある。韓国の恋人たちは初雪が降ると電話をするらしい。初雪には様々なジンクスがありそれは恋愛に関することも多い。

「それで彼ったら、この雪がキミに届くよう今から歌に乗せてフランスに届けるよって言って私のために歌ってくれてね、それで——」
「へーよかったねぇ」

この話は長くなると判断しすぐさま思考をシャットアウトする。その後、彼女の話は店に着くまで続いた。





——とまぁ、そんな惚気話を散々聞かされてしまえば私も人恋しくなるというわけで。
凛が家に帰ってきているであろう夜の時間帯に電話をしてしまった。しかしそれなりにコール音を鳴らし続けたが出る気配がない。いつもなら折り返しもくれるのにそれもなかった。

朝起きて、スマホを確認する。寝る前に送ったメッセージには既読も付いていない。確か今日は休みと言っていた気がする。でも休みの日とはいえ凛は自分のルーティーンを崩さない。それからお昼にもう一度かけてみたが電話は繋がらなかった。なんか、嫌な予感がする。



「お邪魔しまーす……」

結局既読は着かずに電話も出ない。だから以前に「いつでも来ていいから」と言われて渡された合鍵に感謝して凛の家に行った。

「凛、いる?」

返事はなく家の中は静まり返っている。しかし入口には凛がいつも出掛ける時にはいている靴が並んで置かれていて、代わりに室内履きにしているクロックスがなくなっている。おそらく中にいるはずだ。

自分も靴を履き替えて中に入る。リビングの扉を開けてもそこに凛の姿はない。ともなれば私の悪い予感はきっと的中していることだろう。一度、荷物をダイニングテーブルに置いてから寝室へと向かった。

「凛?」

一応、寝室の扉はノックしてみたが返事がなかったため静かに戸を開け声を掛ける。
ベッドの上には膨らみがあった。扉は開けたままにしてゆっくりと近づいていく。

「はぁ……っ、ケホッケホッ」

布団の中では凛が横になったまま咳き込んでいた。そして息遣いも荒い。
ベッドの横で音を立てずにしゃがみ、凛の額へと手を伸ばす。そしたら焼けるように熱くて驚いた。外は寒く、私の手が冷えていたことを差し引いても熱すぎる。

「……ぁ」
「りん?」

まつ毛を震わせ持ち上げられた瞼。そこから向けられた瞳は確かにこちらを見ていたが焦点が合っていないようでブレている。今は寝かせておいた方がいいだろう。そう判断し、頭を撫でて頬を擦ってやる。凛は寒そうに布団にくるまっていたが手の冷たい感触が心地よかったのか、私の手に頬を乗せるようにして再び眠った。

これは思っていた以上に重傷だったかもしれない。昨日連絡がつかなかった時点で気付いてあげていればよかった。でも色々と見込んで買い物はして来たのでそれがせめてもの救いである。

リビングに戻り買い物袋の中から冷却シートを取り出す。日本にいる両親がもしものためにとこういったものも送ってくれていたのだ。
寝室に戻り凛のおでこにシートを張る。それとサイドテーブルに置かれたペットボトルの中身が空になっていたので新しいものと交換しておいた。

さて、と改めてリビングを見れば凛の上着やら荷物が置きっぱなしになっていた。コートはクローゼットに仕舞いバッグの中から出て来たスポーツウェアは溜まっていた洗濯物と一緒に洗った。
それから寝室付近は避けて掃除機を掛けたりマンション内のダストルームにゴミを捨てに出たりした。そしてキッチンはすでに我が城と化しているので鍋を取り出して消化にいいものを作ることにした。

「ん?」

鍋の中で野菜を煮詰めていれば廊下の方で物音が聞こえた。凛が起きたのだろうか。一度コンロの火を止め廊下に出ると寝室の扉は開けっぱなしになっていた。次いで流れる水の音が聞こえる。どうやらトイレのために起きたらしい。

「凛」
「なん……ッけほっげほ」

フラフラと戻ってきた凛に声を掛ける。そこでようやく私の存在を認知できたのか大きく目を見開いた。しかし何か言いかけようとした瞬間に大きく咳き込む。だから慌てて駆け寄って体を支えるようにして背中を擦った。

「ゆっくりでいいからね」

一度咳き込むと止まらないのか、しばらくは呼吸も息遣いも荒かったが次第に落ち着いてくる。凛の体は相変わらず熱かったけれど本人は寒いのか体は震えていた。

「おまえ……なんで」
「連絡つかないから心配してきちゃった」
「幻覚か?」
「違うよ。ちゃんとここにいるでしょ」
「幽霊?」
「生霊でもないからね」

これは割と重症だ。ぬるくなった冷却シートを剥がし、再び凛の額に手を当ててみる。が、生憎私は看護師さんでもないので熱があるかないかくらいしか分からない。でもこの様子を見るにさっきよりも上がってそう。

「ポトフ作ったんだけど食べられそう?」
「……ン」
「じゃあできたら持ってくからベッドに……お、おぉ?」

凛の体が倒れてきたので全身を使って抱き留める。そうすれば背中に腕が回されてぎゅっと抱きしめられた。試合中は殺意高めで孤高を貫き例えプレーでメディアに叩かれようとも一切動じない凛ではあるが、体が衰弱し精神の方も大分参っているようである。

「だいじょうぶだよ、よくなるまでいるからね」
「…………」
「ご飯食べて薬飲も?」
「…………」
「バニラアイスもね、買ってきたんだ」

トントン背中を叩きながらゆっくり話しかける。私はここにいるよって凛に分かってほしかったから。でもずっとこうしているわけにはいかないし廊下も冷える。だから見切りをつけて、布団に戻ろと言って引き剥がし、手を引いてベッドに強制送還した。
そうして凛が深い眠りにつく前にポトフをよそって寝室に向かった。

「起きられる?」
「……あぁ」

凛は布団から出て上半身だけを起こし楽な姿勢を取った。トレーを一度サイドテーブルに置き、近くにあった折り畳みイスを広げて腰掛ける。
少しでも食べてもらえたらいいんだけど……しかしポトフの入った器を渡そうとしたところで凛の手が震えていることに気付く。しかも頭も働いていないのか布団の一点を見つめてぼぅっとしていた。今このまま渡しても絶対に溢すだろう。そうなれば食べさせるしかない。

「凛、口開けて」

スプーンの上に小さめに切ったじゃがいもを乗せて口元にまで持っていく。凛は二度ほど瞬きをして薄い唇を僅かに開いた。そこにスプーンの先端を入れて流し込むようにして食べさせる。ひと口目を食べさせるとまた薄く唇を開く。お腹が空いているというよりは治すために食べてるといった様子が窺える。それが弱肉強食の世界で生きている凛らしくて不謹慎にも少し面白かった。

「もうこのくらいにしとく?」
「ン、」

さすがに全部は無理だったが半分ほどは食べてくれた。それから薬を飲ませて新しい冷却シートを張る。その間に熱を測ってもらったのだが、なんと三十九度もあった。これでは意識も朦朧としているはずだ。

「寒い?」
「気がする……」

ベッドの下の収納スペースから毛布を取り出す。それを広げて掛布団の上に掛けた。それから暖房の温度も一度上げておく。
隙間ができないよう首元までしっかりと布団を掛けた。おそらくここからまた熱が上がるだろう。

本当は病院に連れていきたいけれどもう夜だし、私が一人で連れて行くのも難しい。ましてや一般人でもないのだから尚のこと容易ではない。こういう場合は皆クラブのメディカルトレーナーに頼るのだろうか。しかし当然私が連絡先を知ることはない。それならまずリシャールさんに連絡するべきか。この様子だと凛は風邪を引いたことを誰にも言っていないようだし。

「……ん?」

そっとイスから立ち上がろうとすれば指先に何かが引っ掛かる。視線を落せばそこには凛の指が絡みついていた。

「い……く、な」
「大丈夫だよ、家にいるよ。少し電話をかけて来るだけだから」
「やだ……」

手をしっかりと握られて、そこからじわじわと熱が伝わってくる。意識だって朦朧としているだろうに握る強さは痛いほどだった。そして体勢を変えたためか凛が再び激しく咳き込む。だからイスに座り直し、握られた手はそのままにもう片方の手で横たわった体を擦った。

「ゲホゲホッ……はぁ」
「お水飲む?」
「いくな」
「どこにも行かないよ」
「どこにも……」
「うん。傍にいるから大丈夫だよ」

こうなってしまえばもう電話どころではない。握られた手は自分の腕ごと布団の中に入れる。そしてもう片方の手は頭に伸ばしやさしく撫でた。リモコンで部屋の照明を落とし、おやすみなさいと声を掛ける——しばらくすると小さな寝息が聞こえて来た。



「……ぅあ、」

そしてそのまま自分も寝落ちしてしまったらしい。ガクンと頭が落ちかけたところで目が覚めた。その反動で起こしてしまったかとヒヤリとしたが凛は静かに眠っている。だから握られたままの手をそっと離し、布団を整え部屋を出た。

夜は更け時刻は二十二時を過ぎている。こんな時間に失礼かとも思ったけれど取り返しのつかないことになる前にリシャールさんに電話を掛けた。

『やぁ、こんな時間にどうしたんだい?』
「突然すみません。実は凛が風邪を引いたみたいで……」

幸いにも数コールで電話に出てくれたリシャールさんに、私が家に来てからの様子と病状を簡単に伝える。ひと通りの話を聞いたリシャールさんは『分かった』と短く返事をした後『まったく凛ちゃんは人に弱いところを見せないね』と笑った。

『朝一でクラブドクターを向かわせるよ』
「ありがとうございます」
『それと薬は飲ませたのかな?』
「はい。市販の風邪薬を食後に一度」

そう告げると薬の箱を取っておくことともう薬を飲ませないように指示を貰った。市販薬の中にはドーピング検査に引っ掛かる成分が使われていることもあるらしい。それについては考えてもみなかった。

「すみません!プロのスポーツ選手に勝手に薬を飲ませてしまって」
『知らなかったんだから仕方ないさ。じゃあ一晩、凛ちゃんのことをお願いね』
「はい。おやすみなさい」
『おやすみ』

通話を切って一息つく。それから食器を片付けてシャワーを浴びた。
再び凛の様子を見に行けばやはり熱が上がっているのか寝苦しそうだった。それからリビングで休みつつ何度か様子を見に行く。

深夜二時を過ぎた頃になると寝返りを打った凛が毛布を退かそうとしていた。退かすといってもそこまでの意識も体力もないので身動ぎをしたと言った方が正しいか。とりあえず掛けてあった毛布を回収し布団を掛け直してやれば首筋にはじんわりと汗をかいていた。どうやら熱のピークは越えたらしい。きっとここからは下がるだろう。

タオルで軽く汗を拭いてやり、凛から回収した毛布に包まりイスに座る。まだ気は抜けないが私も少しは眠っておこう。そう思いながら瞳を閉じた。





「……んん」

目の下の辺りがくすぐったくて反射的に首を振る。しかしそれは落ちることなくしつこく顔に纏わりついてくる。何かと思い薄ら目を開ければ顔を触られていることに気付く。もちろん犯人は昨日、私を幽霊呼ばわりしてきた病人である。

「おはよ、体調はどう?」
「昨日よりはマシんなった」

確かに受け答えがちゃんとできている。これでまずは一安心なのだがなぜか私の顔を触る手は止まらない。寝起きの顔をそんなにペタペタ触らないで欲しいんだけど。涎の痕があるかもしれないし目ヤニだって付いてるかも。

「もう触らないでよ」
「本物かどうか確かめてた」
「本物だよ。傍にいるって約束したでしょ」

体に巻き付けていた毛布の中から腕を出し、頬に添えられた手に重ねてやる。ほらね、と言って手を握れば安堵した様に凛の目元が柔らかくなる。その顏は凛の家で見た幼少期のあどけない表情に似ていた。

「お腹空いてる?昨日のポトフならまだ残ってるけど」
「あぁ、でもとりあえずシャワー浴びてくる」

凛は自力で起き上がり着替えを持ってバスルームへと向かった。その間にリビングに向かい置きっぱなしにしていたスマホを確認する。リシャールさんから着ていたメッセージを確認すれば九時過ぎにはクラブドクターが来てくれるとのこと。それに返信をしてキッチンに向かった。

「あ、おかえり」

ポトフを温めつつ果物もむくかと、水道水で林檎を洗っていれば凛が戻ってきた。汗も流しさっぱりしたようでバスタオルで髪を拭いている。ちょっと待っててね、と声をかけまな板の上に林檎を置いたところで背後に何かが乗っかる。それは退くこともせずに体重をこちらに掛けてきて、腕を回して体まで拘束してきた。

「凛、危ない!」

包丁は持っていないけれどキッチンには刃物も火も揃っているのだ。でも向こうは全くのお構いなし。ついでに濡れた髪が首筋に当たって冷たい。

「もー……」

怒っても動かないのでこの際、好きにさせておく。林檎をむくことは諦め、凛を背負ったまま食器を用意した。こんな大きな子どもを産んだ覚えはないが今日のところはしょうがない。

「冷たいもの」
「なに?」
「冷たいものが食べたい」

そうご所望されたのでスープをよそうのをやめた。それなら林檎をむかせてくれよとも思ったが相変わらず引っ付いたまま。そこでバニラアイスの存在を思い出す。だから冷凍庫から取り出してアイスを渡せばようやく離れてくれた。

「それだけいい?」
「ン」

キッチンを軽く片付けリビングに行けばソファに座り大人しくアイスを食べていた。薬も飲ませられないので無理に食べさす必要もないだろう。それにしても未だに髪が濡れたままだ。

「凛、髪乾かすよ」

アイスを食べ終わったタイミングで声を掛け、ドライヤーの熱風を髪に吹きかける。凛はされるがままに大人しく座っていた。

「これでよし」

そこまで長くもないのですぐに髪は乾いた。私がドライヤーの片づけをしようとすれば凛がこちらを振り返る。そして小さく手招きをした。せめてドライヤーのコンセントは抜いておきたかったのだが、今の凛は五歳児だと思っているので癇癪を起される前に要求は聞いておくことにした。

「どうしたの?」

凛がソファを叩いたので、隣に座れということだろうか。大人しく横に座れば、こてんと肩に頭が乗っかった。やっと背中から下りてくれたと思ったら今度は肩を貸すことになるとは。でも凛がここまで素直に甘えてくるのは珍しい。まぁ本人は意識してないのかも知れないけれど。

「後でクラブチームのお医者さんが来てくれるけど眠いならベッドに行く?」
「いや、ここがいい」

そう言って静かに目を閉じてしまったものだからこちらも動くことを諦めた。放り出されていた凛の手を両手で握る。そうすれば安心したように一つ深呼吸をして隣からは小さな寝息が聞こえてきた。

このことをソユンに話したら惚気話って呆れられるかな。でもいつもは私が付き合ってるんだから偶にはこっちの話も聞いて欲しい。
そんな事を考えていたら見事に寝落ちし、鬼のようなチャイム音で起こされるのは三十分後の話である。

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