
大人になった私たち
日本人はよく働くと言うけれど世界を見てみるとそれがよく分かる。
「あれ?今日は早めに帰るって言ってなかった?」
「はい。でもこれだけ採点してから帰ります」
「明日やったっていいのに。本当に日本人って真面目ね」
そんなことをフランス人の先生に言われ思わず苦笑い。彼女は決して嫌味で言っているわけではないのだ。現に二言目には「私のお気に入りをあげるわね」と言ってチョコレートの包みを二つ机の上に置いていった。実にマイペースである。
いただいたチョコは有難く頂戴し早速口の中へ。大粒のそれを舌の上で転がしながら答案用紙にペンを走らせた。
「今日はもう帰りますね。また明日」
「ええ、よい一日を」
それから三十分程で採点を終わらせ、他の先生方に挨拶をして席を立つ。
今でこそ慣れたが海外では仕事終わりに「お疲れ様」という言葉を使わないらしい。なんでも疲れを助長させるような表現は相手を不快に思わせるため日常で使うことを好まないのだとか。言葉や文化、そして習慣なんかは本当に複雑で面白い。
「あっ先生だ!」
「先生ー!先生も一緒に行こ!」
教員室を出て廊下を歩いていれば後ろから元気いっぱいに声を掛けられた。そのままこちらへと突進してくる二人の姿に、走ったら危ないよ!と注意しても私の目の前に到着してから「もう走ってないよ!」なんて屁理屈をこねてくる。懐いてくれるのは嬉しいが教師としては舐められている気がしなくもない。でもここは一つ先生らしく言わなければ。私は膝を折って彼らと目線を合わせるようにその場にしゃがんだ。
「二人とも、硬い床の上で転んじゃったら痛いでしょう?それに向こうから人が来てたらその人にもぶつかって怪我させちゃうよね、だから廊下は走らないって決まりがあるんだよ。わかった?」
一人は純日本人の男の子でもう一人はフランスと日本のハーフの女の子。言語の関係でフランスの一般的なスクールでは勉学が難しいためこの学校に通っている。私が勤めているこの学校は所謂、日本人学校と呼ばれる場所だ。
「分かった!次から気を付ける!」
「先生ごめんなさい」
やんちゃな男の子の方には未だ不安が残るが私の言葉の意味は理解してくれたと信じている。それにこちらがあまりしつこくしても逆効果になるだろう。だから教師としての振る舞いはここまでにして改めて二人に視線を向けた。
「ところで何かあったの?」
「そうだった!」
「あのね、今すごい人が来てるんだよ!」
「すごい人?」
「リンだよリン!ウチの学校に来てんだって!」
それは原子番号十五番のPで表される元素のことかな?彼らはまだ八歳だというのに中学部の内容を理解しているとは素晴らしいことである。私は子どもたちの未来を脳内で思い描きながら、うんうんと頷いた。
「えーっもっと喜ぼうよ!先生だってサッカー好きでしょう?」
「そうだよ!あのP・X・Gのリンが来てんだぜ?!」
違った。背番号十番の糸師凛の方だったわ。同じリンでも全くの別物だったか……いやでも発火点が低いところは同じかな。凛はすぐ頭に血が上るしリン(P)も空気中で自然に燃え出すほどの元素だし。これに気付けた私は山田くんから座布団十枚もらってもいいと思う。
「えっ本当に来てるの?」
「うん!」
「門の方にいるみたいだぜ!」
今日はオフだと聞いていたが用事があるから出掛けるとも言っていたはず。それでも夕方までには帰るとは言っていたが職場にまで来るとは聞いていない。バッグの中に入れてあったスマホを確認するも特に連絡はなかった。
「ほら先生も早く!」
「わかったよ、でも廊下は走らない!」
「これは早歩きだからセーフ!」
本当にああ言えばこう言う。どこかの誰かさんとそっくりだ。そしてその誰かさん≠フ正体を確認するためにも門へと急いだ。大丈夫、これはあくまで早歩きだ。
うわっマジでいるじゃん。
「スゲー本物!」
「サッカーしてるよ!」
数メートル先からでも分かるスタイルの良さに加え、何度も魅了されたボールを蹴る姿。門と校舎までを繋ぐ道の両側に敷かれた芝生の一角で凛は子供たちに囲まれていた。そしてその真ん中でリフティングを披露している。しかし近くにいた子どもにせがまれればパスを出したりドリブルを始めたりと忙しない。文字通りの引っ張りだこである。
「俺も混ぜてもらお!」
「私もー!」
そして彼らもまた凛の元へと駆けて行きその輪に加わった。ここはもう屋外であるため注意する必要もない。私は彼らを見送りつつも、どうしたものかとその場に立ち尽くすしかなかった。
「水臭いですね、彼が来るなら来ると教えてくださいよ」
「っ?! 校長先生!」
中肉中背、黒髪の日本人男性がにこやかな笑みを浮かべてこちらに軽く手を振った。いつも忙しくされているのに学校内にいるのは珍しい。そして今日はとても機嫌がよさそうだった。
「すみません、私も知らなかったもので……」
「あははっ本当に怒っているわけではありませんよ。ただ、私が熱烈なサッカーファンだということはご存知でしょう」
二年ほど前にここへの就職が決まり、そして校長先生と面談した際に彼と付き合っていることは報告しておいた。私たちは結婚しているわけでもなければ婚約関係でも事実婚というわけでもない。でも、もし何かあったときに迷惑をかけることになるかもしれないと思い話しておいたのだ。
「もちろん。先シーズンのP・X・Gの試合も全日程スタジアムで見られたことは存じております」
「私の唯一の趣味だからね。そして凛選手の大ファンさ。チャンピオンズリーグでの活躍も楽しみにしているよ、もちろん皆勤賞で応援に行くさ」
「本人も喜ぶ……と思います」
「気を使わなくていいよ。私は彼のエゴい≠ニころも含めて好きなんだから」
思わず本音が出てしまったがさすがはファンと名乗るだけあるのかそのあたりもよく分かっていらっしゃる。まぁそれも最近では目に見えて結果を残しているからかもしれない。先シーズンではCLのベストイレブンへの呼び声も高かったが受賞ならず。そのためファンは今シーズンでの受賞、またP・X・G初のCL優勝を期待している。
「仕事は終わったのか?」
そして噂の人物のご登場。私が出て来たことにも気付いていたらしい。子どもたちを巻いて私の元までやってきていた。
「うん。凛こそ用事は終わったの?」
「おう、だから迎え来た」
「それは嬉しいんだけど連絡がほしかったのと、ここは校内だから部外の人が無断で入るのはちょっと……」
「あの人がいいって」
子どものような言い訳をしだした凛の視線の先を見ればそこには一人の女性の姿が。先ほどまで凛を囲んでいた子どもたちに声を掛けている女性は教頭先生だ。そして彼女もまたP・X・Gを応援するサッカーファンの一人である。彼女も私と凛の関係を知っているから凛の姿を見て校内に招き入れたのだろう。
「……どうも」
そして凛はというと私の後ろにいた校長先生に軽く頭を下げた。相変わらずの不愛想ではあるが私の職場の人や知り合いには挨拶してくれるようになったのは素直に嬉しい。
そして凛に校長先生を紹介し、校長先生にも凛を紹介すれば先生にものすごく喜ばれた。凛は普通に引いていた。
「今後のP・X・Gでの活躍に期待してるよ!」
「ありがとうございます」
選手でも何でもないただの一般人に上から目線で言われている凛の姿にはこちらがハラハラしっぱなしであったが無難に受け答えしてくれて安心した。正直、舌打ちの一つでも残すかと思っていたので。
「では私たちは失礼させて頂きますね」
「あぁ、呼び止めてすまないね。二人ともよい一日を」
「校長先生も」
ようやく解放された私たちは二人揃って歩き出す。聞けば車を近くのパーキングに止めて来たらしい。凛もこの数年で免許を取っており車も購入していた。私も書類手続きはしているのでフランスの公道を走れないこともないが左ハンドルと右走行が怖すぎてこちらでの運転はほぼ凛に任せていたりする。
「先生、リン選手!」
さすがに正面から出ると目立つので裏門の方から出ようとすれば元気な声に呼び止められてしまった。私と一緒に外まで来た先ほどの二人がこちらに駆けて来る。どうやら教頭先生の隙をついてここまでやってきたらしい。
「二人ともまだいたの?」
「だってもっとリン選手とサッカーしたいもん!」
「私はリン選手に聞きたいことがあるの!」
興味津々の二人ではあるが女の子の方が若干押しが強かった。だからサッカーボールを持った男の子も、そして私すらも押しのけて凛に詰め寄った。あまりに強いその気迫に凛もたじろぐ。そして女の子に手招きされるままその場にしゃがんだ。
「先生とはどういう関係なの?!」
すっかり蚊帳の外になってしまった私たちは二人の背中を見守ることしかできない。小声で話しているのか内容も全く聞こえてこなかった。
「アイツらなに話してんの?」
「それは先生が聞きたいかな」
そして男の子の方は早々に諦めたのか「先生サッカーしようぜ!」とこちらにボールを転がしてきた。それは二十代半ばになった私に対する挑戦状かな?
「二人の話が終わるまでならいいよ」
「あ、やっぱいいや。先生運動できないもんね」
「なっ…苦手なだけでできますー」
子ども相手にムキになっていたら不意に凛がこちらを見た。え、もしかして今の会話聞こえてた?生徒に舐められてると思われたかな。まぁ事実そうだったりもするけど。
「My bae」
いつもはこうじゃないんだよー、と凛に念を送っていればその唇がかすかに動く。相変わらず何を言ったかまでは聞き取れなかったが「バカ」とだけ言われていないことを祈る。
「えっほんと?!」
「意味分かんのか?」
「Before anyone elseって意味でしょ?」
「……よく知ってんな」
「パパがママに言ってるの聞くんだ。ママはちっとも意味わかってないけどね」
結局、二人が話している間は男の子と球蹴りをしていた。サッカーではなく球蹴り。三メートルの距離を開けてボールを蹴り合うという図はとてもシュールだったと思う。終いには自分よりもはるか下の年齢の彼に「上手いよ先生!」とフォローされるくらいには私の運動能力は地に落ちていた。
「遊んでねぇでもう帰んぞ」
「いや、凛が話し終えるのを待ってたんだけど」
「リン選手、サッカーやろうぜ!」
「二人の邪魔しちゃダメだよ!」
私の相手をしてくれていた男の子は待ってましたとばかりに凛に飛びつこうとする。しかしそれを制したのは先ほどまで凛と話していた女の子だった。その子は男の子の腕を掴んで校舎に連れ戻そうとする。
「えー!なんだよお前ばっかズリィ!」
「しつこい男は嫌われるわよ!」
「ワガママな女も嫌われんぞ!」
「二人とも落ち着いて、喧嘩しないの!」
「おい、お前ペン持ってるか?」
「ペン?」
二人の仲裁に入ろうとしたところで凛にそう催促される。こんな時に……と思いつつも何か考えがありそうだったのでバッグの中からペンケースを取り出した。そのファスナーを開けて凛へと差し出せばサインペンを抜き取ってその場にしゃがみ込む。そうすれば自然と二人の喧嘩も止まり、視線は凛へと注がれた。
「そのボールはお前のか?」
「うん、自分の」
「貸せ」
そして凛は流れるような手つきでサッカーボールにサインをした。しかも彼に名前を聞き、その名もサインペンでしっかりと書き残していた。
「うわぁサインだ!しかも俺の名前まで!」
「今日はもう帰るからこれで我慢しろ」
「ありがとう!一生大事にする!」
「おう、じゃあな」
二人はそれ以上追ってくることもなく手を振って私たちのことを送り出してくれた。
そして止めておいた車に乗り込み自宅に向かって走り出したところでようやく一息つくことができた。
「凛が二人の機嫌とってくれて助かったよ。ありがとう」
バックミラー越しに凛の表情を窺えばちょうど左折のタイミングだったため視線は反対側へと向けられていた。前髪の長さは昔よりも若干短くなったけれど相変わらず目にかかるほどには長い。襟足の長さと髪色は変わらずに、ただ横顔を見るとその輪郭は以前よりもはっきりとしていることが分かる。
「別に大したコトはしてねーよ」
「いやいやサインまで書いてくれたんだから大したことだよ。それに他の生徒ともサッカーしてくれてたみたいだし」
「あれは入った瞬間にサッカーやってたアイツらに身バレして囲まれたから仕方なくだ」
やや日焼けした首は太く、胸板は厚くなった。その鍛えられた体に、ここ最近では抱き着いたときに背中に腕が届かなくなるのではないかと心配になるほどだ。肉体を鍛えプロ選手としての経験も積み、アスリートとして最盛期といっても過言ではない今の凛はどこを切り取ってもかっこよかった。
「みんなにとっても貴重な経験といい思い出になったと思う。次は校長先生通して正式に仕事としてお願いするかもしれないなぁ」
そして選手としてもその結果を残している。前回のワールドカップで日本は欧州の国にあと一歩のところで惜敗したが、それでも凛は全試合を通して二アシスト五ゴールという成績を残しリーグ・アンでの活躍も目覚ましい。また世界的に見ても優秀なFWとして評価されるようになっていた。
「あの校長ならやりそうだな」
「でしょ。そしたら来てくれる?」
ただもちろんそれで満足している凛ではない。そもそも凛の目標は世界一のストライカーになることではないのだから。相変わらず潔くんへの敵対心は熱く彼の試合は毎回おっかない顔をして見ている。そして糸師冴に対しても相変わらずと言ったところ。しかしプライベートの面に関しては以前よりも交流はあるらしい……というのは凛のお母さんを通して聞いた話だ。全く連絡を寄こさない息子に代わり凛の近況報告をしてたりするのでお母さんとは割と交流があったりする。
「気が向いたらな」
「えっ本気?」
「あ?お前が聞いてきたんだろーが」
ただ、比較的周囲とコミュニケーションを取れるようになったとはいえ根本は変わっていない。だからこの手の仕事は余程のことがないと断ってしまうのにその返しは意外だった。
「だって子ども相手だしめんどくさいかなって……」
正直に思ったままを伝えれば「まぁな」と返される。それじゃあ矛盾してるよね。ならば一体どういうことかと再びバックミラー越しに窺えばちょうど目が合ってしまった。というか凛の方が先にこちらを見ていた。思わぬ不意打ちに驚いていれば凛は視線を前に戻してハンドルを切りながら答えた。
「お前が『先生』してるとこ見んのも悪かねぇと思ったんだよ」
「そう?」
「そうゆう機会でもねぇと見れねーからな」
そんな授業参観的な感じで言われても……嬉しいやら恥ずかしいやらの気持ちでいっぱいだ。でもやはり恥ずかしい気持ちが勝ったので曖昧に頷くことしかできなかった。
「今の仕事、楽しいか?」
しかし凛はまだこの話を終わらせる気はないらしい。その上、そんなことを今まで聞かれたこともなかったから少し驚いた。私がフランスで日本人学校の教師になりたいと言ったときもそのまま受け入れて背中を押してくれたから。
「うん。でもまさか自分が先生になるとは思わなかったけどね」
何故その道を選んだのか。それは自分が日本とフランスとで生活してみて体験したことを他の人に伝えたいと思ったから。そして何より、留学時代にお世話になった大学の先生のような存在に烏滸がましくも自分もなりたいと思ったからだった。
「俺は合ってると思うぞ」
「そうかな?」
「誰にでも等しく対等でいられるのはお前の長所だろ」
思わず運転席を二度見する。車はちょうどマンションの駐車場に入りレバーをパーキングに入れたところだった。凛の視線はサイドミラーに向けられていたけれど私はそれを覗き込むようシートベルトもお構いなしに前かがみになる。
「今日はすごく褒めてくれますね?」
頬はとっくにだらしなく緩んでいた。しかし凛がこちらを見ないことをいいことに、そのままにやついてしまった。凛は眉一つ動かさないが珍しくバックを二回も切っていたので私の様子には気づいているようだ。
「教え子にまで気ぃ使われてたらさすがに同情くらいするわ」
「一言余計だわ」
しかし喜べたのも一瞬ですぐに一蹴されてしまった。相変わらず照れ隠しの口が悪い。あっそうだ。私ももう一言だけ凛に言っておきたいことがあるんだった。
「確かに今の仕事は楽しいし充実してるけどこだわりはないからね」
「?」
車は駐車スペースに収まりエンジンは切られた。そこでようやくこちらを見てくれた凛の頭にはクエスチョンマークが浮かんでいる。それに応えるようにして再び私は口を開いた。
「フランスは良い国だし気に入ってるしもう第二の故郷だと思ってる。でもだからこそ他の国のことも知りたいって思ってるんだ」
別のクラブチームからもオファーが来ていることは知っている。でも凛はそれを断り続け長いことP・X・Gのストライカーとしてプレーをしていた。本人は自分の意志だと言っているが、もしかしたら私のせいで凛をこの地に繋ぎとめてしまっているのかも……と思うこともある。
「だから凛が他の国に行くって言うなら私も連れて行って欲しい」
決して自分の人生を犠牲にしているわけじゃない。糸師凛の一番のファンとしての私がそうしたいのだ。新しい土地に行くことに不安がないと言えば嘘になる。でもそれ以上に期待の方が大きい。
「凛?」
終始黙っていた凛は自分のシートベルトを外し車を降りた。私も慌てて自身のベルトを外していると、凛はフロント側からぐるりと回り込んで助手席側のドアを開けた。そして目の前に左手が差し出される。
「なに当たり前のコト言ってんだ」
「え?」
「逃がすつもりねぇから」
という割にそれ以上、手を伸ばしてこないあたり凛も分かってるんじゃないかな。
「じゃあ最後まで離さないでよね」
私が自分からその手を取りに行くということを。
大丈夫だよ。もう何があってもこの手は離さないから。