
お義兄さんと私 1
家に帰ったら室内履きに変えてはいるがやはり砂は溜まりやすい。部屋の隅とか家具のちょっとした隙間とか。潔癖症と言うわけではないのだがやはり日本人のサガとも言うべきかどうしたって気になってしまう。だからこそ久しぶりにできた予定のない週末の今日、私は家の掃除に精を出していた。
まずは玄関から始めてそのまま動線に沿って廊下、リビングと掃除機をかける。角や掃除機の届かない棚の下などは箒や掃除機の先端を付け替えることで対応。ついでに棚も整理しようと思い立ち読まなくなった本の整理や凛が今までにもらったトロフィーや賞状の入った額縁を柔らかい布で磨いていった。
凛は「んなモンに価値なんてねぇんだから捨てとけ」なんて言うけれど私からしたらお金に換えられないほどに価値あるものだ。本人の意思はさておき、それらは世界が凛の努力と才能を認めた証なのだから。だからその功績を称えるように綺麗に飾っている。
今のところ凛もそれ以上なにも言ってこないので私の好きにさせてもらっていた。
「はぁ〜疲れたー……」
午前中から活動を開始し、そして昼を回ったところでようやくひと段落ついた。確かに疲れたがおかげで部屋の風通しもよくなったように感じられ、心地よい疲労に包まれている。頑張ったな、私。
「なんかあったかなぁ……おっツナ缶発見!」
お腹が空いたのでパスタを茹でながら具材になりそうなものを探す。すると戸棚の中から困ったときの救世主、ツナ缶が姿を現した。以前、実家から荷物が届いたときに親が一緒に入れてくれていたものだ。すっかり存在を忘れていたが賞味期限は余裕で切れていなかった。さすがは救世主サマだ。
「いただきます」
茹であがったパスタをツナとオリーブオイルで和え塩コショウで味付け。そこにフランスに来てから常備するようになったバジルとコンテチーズを削って乗せたものが本日の昼食。栄養バランス的に見ればたんぱく質も野菜も足りないけれど私一人ならこれで十分だ。
『先日行われたレ・アールVSマンシャイン・Cの試合は三対二でレ・アールの勝利という結果に…——』
なんとなしにテレビを点けたが特に面白そうな番組がなかったのでサブスク登録しているチャンネルへと切り替える。そこでちょうど先日行われたサッカーの試合解説の番組を見つけたので迷わず選択した。
『後半アディショナルタイムは実に熱かった!』
『あぁ、どちらが勝ってもおかしくない試合だった。ただラストのゲームメイクにおいてはスペインが上手だったな』
『サエのDF突破からのパスでレ・アールの追加点が決まったからね、あのパスは実に美しかった!』
映像が切り替わり現世界最高峰のMFと謳われる糸師冴が画面に映る。敵からのボール奪取からのDF三枚抜き。そして力強い鋭いパスがフィールドを切り裂きレ・アールFWのダイレクトシュートが決まった。瞬きすら惜しいほどの約十秒、そこには彼の技術と経験がすべて詰まっていた。
『FWなら誰もがサエからのパスをもらいたいと思うだろうね。仮にキミなら誰と組ませたい?』
『そうなるとやはり彼と血を分けた実の弟である——』
どうやらこれは解説番組などではなくバラエティに近い内容だったらしい。すっかり興味がなくなったので自分のスマホでチャンネル登録をしている動画を流し見た。
「ごちそうさまでしたっと」
パスタを食べ終えたのでスマホを切って立ち上がる。さて、食器を片付けたら何をしようか。天気もいいため午後は遊びに出てもいいのだがここまできたらお掃除デーと割り切って他のところもやっていいかもしれない。
「ん?……はーい!」
浴室掃除とエアコンのフィルター掃除をやろうか。そんなことを考えていれば唐突に玄関の呼び鈴が鳴る。配達員さんだろうか。洗い終えた食器を籠に立てかけ急いでインターホンの下へと向かった。
「はい……えっなんで、どうしたんですか?!」
しかし画面に映った人物を見て絶句した。なんとそこには例のマンシャイン・C戦で素晴らしいプレーを披露していた糸師冴がいたからだ。もちろん今に至っては私服だが。
『こっちに来たからついでに寄った』
「そうなんですね、すぐ開けます…!」
インターホンのマイクを切り小走りで玄関へと向かう。彼は淡々と、いつもそうであるかのように「ついでに寄った」と言ったがこんなことは初めてだった。そして付け加えるならば顔を合わすのはこれが五度目だ。
「こんにちは」
「おう。お前だけか?」
「はい、凛は出掛けていて留守にしてます」
大学生の時に凛の家の前で初めて顔を合わせ、二度目は留学中に偶然再会しそのまま飲みに行った。その後、帰国した際にお義母さんの計らいで会わせてもらい、飲みに行った時の醜態について謝らせてもらった。
「そうか。これ土産」
そして私もこちらに住み始めてから程なくし、凛宛に試合のペアチケットが届いたので観戦しに行ったのが最後だ。と言っても試合後に挨拶に行こうとしたところ、それを凛が断固拒否したため私だけがチケットのお礼を言いに数分顔を合わせただけ。
「ありがとうございます!あっお時間大丈夫そうなら上がっていきませんか?」
だからこそ一度ちゃんと話してみたいという気持ちはあった。もちろんシラフのときに。それについでに寄っただけであってもスペインから足を運んでくれた客人をこのまま返すのは失礼だ。
「この前うちから日本茶と漬物が届いたのでよかったら」
せめて最低限のおもてなしをさせてもらえないかと声をかければ向こうからすると意外だったらしい。わずかに目を見開かれた。
「……あぁ」
「どうぞ」
部屋の掃除をしておいてよかったと安堵し中へと招く。そしてリビングへと通し私はキッチンへ。流しやコンロは壁に面して設置されているがリビングとの間に仕切りはないので声は届く。だからお茶を用意する傍らで席を勧めた。
「お湯沸かすので好きなところ座っててください」
「おう」
「そういえばお昼は食べましたか?」
「あぁ、来る前に食ってきた」
やかんにミネラルウォーターを注ぎ込みコンロにかける。その間に戸棚にしまっておいた真空パックの漬物を引っ張り出した。日本ならスーパーでも簡単に手に入るものだがフランスでお目にかかることはまずない。
「もしかしてすぐ近くの看板のないレストランですか?」
「よく分かったな」
「有名人がいけるお店はどうしても限られますから」
「まぁな。マネージャーに教えてもらって初めて行ったが鴨のコンフィが美味かった」
「私も好きです!それとオニオンスープとクリームブリュレも美味しいですよ」
「スープは飲んだな。デザートは頼まなかったがそれなら今度食うか」
そして手に入りにくいからこそ無性に食べたくなったりもする。事実、日本にいるときよりも漬物や梅干し、お茶漬けなんかは実家から送ってもらいよく食べるようになった。
「冴さん苦手なものってありましたっけ?」
「別に。クセのないモンなら基本的に食える」
「じゃあいくつか種類出しますね」
ゆず白菜、茄子、昆布きゅうりのパックを開けそれぞれ小皿に移し替える。そして残ったものはタッパーへ。一気に三つも開けてしまったが三日もあれば二人で食べきってしまうだろう。
タッパーを冷蔵庫へとしまい込んだところでお湯も沸く。あらかじめ準備しておいた急須に熱湯を注ぎこめばその場にふわりと新緑の香りが広がった。漬物然り、緑茶も精々寒いときに飲むくらいの頻度でしか口にしなかったのにこちらに来てからやたらと飲むようになった。口にするよりも先に香りで故郷を思い出させてくれるのも理由の一つだ。
「お待たせしました」
トレーに用意したものを乗せてリビングへと向かう。すると冴さんは椅子に座っているわけでもなく棚に飾られたトロフィーを見ていた。それは言わずもがな、P・X・Gの糸師凛が残した功績を称える品々だ。
「いや、悪いな」
私が来たことに気づけばそれらから視線を外した。
キッチンから運んできたものをローテーブルへと並べれば冴さんはすぐ近くのソファへと座る。高さ的にダイニングテーブルのほうが食事しやすいと思ったがこちらの方がトロフィーがよく見えるので敢えて誘導した。
「お茶はまだ熱いので気を付けてくださいね」
「あぁ」
「凛、こっちに来てからあれだけ表彰されたんですよ」
ひとり分のスペースを開けて隣に座り、湯呑に手を掛けた冴さんに話しかける。彼は再び棚に飾られたトロフィーへと目を向けて、そしてため息交じりに湯呑に息を吹きかけた。
「あんなモンただのガラクタだろ」
「あははっ凛にも似たようなこと言われました。でも私が大事にしたいので勝手に飾らせてもらってるんです」
クラブチームとしてもらったもの以外にも個人として表彰されたものもある。最近だとCLベストイレブンとして選出されたものか。日本人選手の名が挙がったことで当時はそれはもう大きなニュースになった。
「フン、お前はそうゆうの好きそうだな」
「物は大切にするタイプです」
「ならアイツと付き合うの大変だろ。目に付いたモンすぐ壊したがる」
冴さんはお茶を一口飲んで箸を持ち小皿へと手を付ける。昆布の絡んだきゅうりをつまみ上げて口へと運び、音を立てて咀嚼する。どうやら歯ごたえがあるタイプの漬物らしい。
「あー……前に気が立って帰ってきたときはやばかったですね」
それこそ今シーズンのチャンピオンズリーグでのとある試合後の出来事だ。その日は帰ってこないと聞いていたから一人でベッドに入ったのだが、夜中にひどい物音で起こされた。
「食器籠に入れていたお皿とマグカップが軒並み割られました」
「マジか」
冴さんは茄子の漬物を食べながら温度のない声で相槌を打った。この話を聞いても驚かないのはさすがは実の兄といったところか。そしてそれがかえって有り難かった。私はただ、『こういう出来事があった』という話を聞いてほしいだけでそこに同情も共感もいらなかったから。
「てっきり強盗にでも押し入られたのかと思ってスタンドライト片手にキッチンに行ったら凛がいたんです。そしたら手はガラスで切って血が流れてるし足元には割れた食器の破片が散らばっているわで……あそこまでくると、派手にやったなぁって寧ろ感心しちゃいましたよ」
今でこそ笑い話だが暗闇の中で荒い呼吸をする凛はかなり怖かった。私にホラー耐性がなければその場で泡吹いて倒れていたに違いない。凛に付き合ってホラー映画見ていてよかったなと思う。ただ一周回ってこのような形で恩恵を受けるとは思わなかったけど。
「ヤベーな」
「ですよね。とりあえず傷の手当てしてベッドに押し込んだら寝てくれたんで何とかなりました。ただ怪我だけはしてほしくないので代わりにサンドバッグ買おうか本気で悩んでるんですよね」
「いや、ヤベーのはお前だ」
「えっ私ですか?」
気づけば漬物をすべて平らげており〆とばかりに残りの緑茶も飲み切った。そして湯呑を置き改めて私を見る。目の前のターコイズブルーは凛と同じ色をしていた。
「ガキの頃ならまだしもデカくなってからも癇癪起こすような奴だぜ?よく付き合ってられんな」
「まぁ今までも殺すとか死ねとか言われてきましたし」
十年ほど前の青い春の日々を思い返してみるが散々な言われようだったな。それからは本っっ当に色々とあって今に至るわけだが高校生の私が知ったら驚きのあまり腰を抜かすであろう。彼氏どころか未来の伴侶になるなんて誰が想像できたか。
「お前イカれてんな」
「それ、私の中だと最高位の誉め言葉です」
すると冴さんは何とも言えないような顔をしていた。確かに凛と目や顔のパーツは似ているが冴さんの方がまだ表情が豊かなように感じられる。まぁそれもあくまでこの兄弟の中での話だが。
「ごちそうさん」
「お粗末様でした」
そういえば思いのほか引き留めてしまったが時間は大丈夫なのだろうか。こちらに何の用で来たのかは分からないが今日中にフランスを発つとしたらそうのんびりもしていられないだろう。しかし冴さんは立ち上がる気配を見せなかった。
「お前このあと用事あるか?」
そしてどういうわけか私の予定を聞いてきた。
「特にこれと言ってはないですね」
「なら付き合え」
「は……」
冴さんはポケットからスマホを取り出したかと思うとどこかに電話を掛け始めた。数コールののち繋がったのか脚を組み直しながら会話をしている。しかしその言葉はスペイン語で内容は一切理解できない。そしてこちらが目を白黒させている内に通話を終えてスマホをしまった。
「三十分で迎えが来る。支度しろ」
「えーっと……」
「その格好で出掛けたいなら別だがな」
その一言にハッとして改めて服を見る。今日は掃除をすると決め込んでいたからパーカーに履き古したスキニーパンツというラフな格好であった。近所のスーパーまでなら及第点だがこれで長時間外を歩くのは憚られる。ましてや糸師冴と並んで歩くなど向こうの品位を下げかねない。
「着替えて化粧直してきます…!」
客人をリビングに残し猛ダッシュで自室へと駆け込んだ。