白紙の入部届



白く霞んだ春の空。
今年は寒の戻りが幸いしたのか、四月にも関わらず満開の桜が見られるのだと今朝のニュースで言っていた。以前住んでいた地域では四月の桜が当たり前だったというのにやはり関西圏までいくと気候もそれなりに違うらしい。頬を撫でる風は故郷のものより暖かい気がした。

入学式という大きな看板の前では写真撮影に興じる真新しい制服を着た生徒が見られた。自分もその一人だというのに何故か客観視してしまう。地元のテレビ局とみられるカメラも数台来ており、希望に満ち溢れた彼らの表情を捉えていた。

夢も希望も憧れも、今の私には何もない。
でもここで何かを見つけられるだろうか。
不安と怖さと、過去の自分の不甲斐なさが心の中で見え隠れして私は思わず立ち止まった。

「ほら、早く行きましょ」

母親に背中を押され、たたらを踏み前へと進む。
すでに父親は私たちのことなどお構いなしにずんずんと体育館へと向かっていった。

兵庫県 稲荷崎高校———
ここから私の新しい人生が始まるのだ。





入学式から早一週間。
新しい土地にも通学にも慣れ、友達もできた。
悲壮感漂う暗い表情で校門を潜った私でも新しい生活の中に楽しみを見出していた。

そして今日の午後は部活紹介と称して一年生は体育館に集められた。
運動部から始まり文化部へ、さらに部まではいかないが同好会なるものも存在し軽く紹介がなされた。

「ねぇ、どの部活入るか決めた?」

体育館から教室へと戻る途中、早速できた友達から声がかけられる。彼女は今日のこの時間をとても楽しみにしていて興奮冷めやらぬようだった。

「まだ迷い中。そっちは?」
「もちろん吹奏楽部!」
「そう言ってたもんね」
「だってブラバン目当てで稲荷崎来たんやもん!今日の演奏も最高やったわ!」

夢がある子は輝いて見える。
別に疎ましいなんて思わないけれど、私が無くしてしまったその感情を持っている彼女を羨ましくは思う。

「そういや中学の時は何部やったん?」
「バレー部」
「へぇ〜!ほな高校でも続けるん?」
「いや、せっかくだし他の部活にしてみようかなって」

高校デビュー!なんてふざけて付け足せば彼女は屈託なく笑って「ええやん」と後押ししてくれた。

「まぁまだ時間もあるし、ゆっくり決めたらええよ」
「だよね。色々見てみる」

今まで人生の半分以上をバレーボールに費やした。それ以上に夢中になれるものを見つけられるだろうか。でも中学の時にはなかった弓道部やチアリーディング部、文化部だとかるた部やマンドリン部も面白そうだった。それに写真同好会やクイズ研究会などにも興味がある。

これも人生の仕切り直し。
夢なんて大層なものはないけれど、高校生活を棒に振るのは勿体ない。
これからの自分を想像しながら部活紹介のプリントに再び目を落した。





四月も三週目に入った。
気付けばクラスのほとんどが部活や同好会に所属していた。話を聞くとほとんどが皆中学の時と同じ部活に入ったようで、またそうでない子でもどこかしら仮入部はしていた。
クラスでただ一人未だに決められていなかった私は、昼休みに担任から呼び出されてしまった。

「まぁまだ時間はあるんやが早めに決めたほうが自分の為やで。高校からこっちに来たんやろ」

お説教というよりは先生なりの気遣いだったらしい。小、中学の友達なんて当然いるわけでもなく、まだ友達と呼べるのはクラスにいる数人程度。交友関係を広めるためにも部活動に入ることは必要なことだろう。

「はい…」
「高校の友達は一生もんやからな。中学んときは何部やったん?」
「バレー部でした。でも高校では続けるつもりはなくって」
「ほぉ」

先生は組んでいた足を地面につけて姿勢を正した。一体どうしたのだろうと小首をかしげているとブックスタンドから一冊のファイルを抜き出した。その拍子に机の上のプリントが雪崩れるように床に落ちる。「すまへん!」と言いつつ今度は隙間ができたブックスタンドが傾いてドミノ倒しのように本やファイルが倒れた。

「ちょおこれ見とってや」

投げるように渡されたファイルをキャッチし中をパラパラと見る。先生の机の上は些か残念ではあるが、元は几帳面な性格らしい。雑誌や新聞の切り抜き、学生の集合写真が丁寧にファイリングされていた。写真はこの高校の生徒達なのだろう。黒のユニフォームで高身長の男子部員が肩を組んで写っていた。

「先生はバレー部の顧問なんですか?」
「せやで」

落ちたプリントをかき集め、倒れた本を一先ず平積みにした先生は満足げに頷いた。大見先生の担当教科は英語だったのだと思うのだけれど運動部の顧問だったのか。

「そこで相談なんやけど、男バレのマネージャーやらへん?」
「ぅえっ?」

思わず変な声が出た。
何で私が…高校で続けるつもりがないと言ったばかりなのに。いや、マネージャーなら“バレーを続ける”ということには当たらないのだろうか。
……いや、私としてはそういう問題ではないのだ。

「それ見て分かるようにうちのバレー部強うてここ最近全国行っとるんや。で、そろそろマネージャー欲しなって募集掛けたんやけど集まってくる子があんまよくないらしゅうてな。自分バレー経験者やん、どうや?」

どうや?と聞かれてもそんなの答えは一択に決まっている。
父親の転勤により宮城から兵庫への引越しが決まった。高校一年生、見知らぬ土地には私のことを知る人間など一人もいない。これほど人生のリセットに最適なタイミングはないのだ。

「あの、」
「去年のインターハイと春高は三位。まぁ指導者は俺やのうて黒須監督なんやけど実力は申し分ないやろ? 」
「でも、」
「マネージャー言うてもやりがいはある思うねん。それに強豪校のマネージャ―といえば意外と受験や就職の時に有利になるんやで?去年三年生もっとった時、野球部のマネやっとった子が推薦で大学決まったんや。面接でいいネタになった言うてたで」
「そういう問題では、」
「バレー推薦で今年もええ子たちが入ってきてな。おかげで仕事も増える増える。自分、学業の成績も上位やったろ。入ってくれると助かるんやけどなぁ」
「………仮入部でいいならやります」
「おおきに。そんなら早速今日の放課後顔出してな」

はぁと大きなため息をつき職員室を後にする。
大見先生の爽やか笑顔と勢いに負けつい頷いてしまった。押しに弱い性格に加え、未だに関西圏特有の速いテンポの会話についていけない私からしたらある意味当然の結果であったのかもしれない。

しかし、結局は未だに部活動を決められていない私に原因があるのだ。
あれから色々な部活や同好会に顔を出し見学させてもらったがこれと言って惹かれるものはなかった。確かに面白そうなものはいくつかあったのだが、それを三年間続けられるのかと問われると途端に自信がなくなる。それゆえ、未だに入部届は白紙のままだった。
それにしても、ここにバレーボールという文字を書くことはないと思っていたのに…

しかし、まだ仮の状態である。
一先ずは部活へと顔を出し一週間はマネージャー(仮)の職務を果たす。そして期限が着たら断ろう。

正式な入部先はまた考えておくことにしよう。まぁどこも入部せずにバイトをしてもいいし。
これからの算段を考えながら、私は頭を抱え放課後まで過ごすことになった。



キュッキュッと小刻みに聞こえるシューズの音、天井に木霊する掛け声に、体育館の少し埃っぽい匂い。

懐かしいと思うのと同時にどこか切なくなる。それは、私がまだバレーボールに未練がある証拠なのだろうか。
しかし、ここに来たからにはそうも言っていられない。
私は覚悟を決め体育館に足を踏み入れた。既にアップをしている人もいるがまだ部活は始まっていないようだった。

入口でどうしようか困っていれば一人の生徒がこちらまで駆けてきた。話したことはないが同じクラスの男子生徒だ。身長が高いから運動部だろうとは思っていたがバレー部だったのか。名前は確か、理石平介君。

「大見先生から聞いとるで。さっそくこっち来てもろうてええか?」
「はいっ」

運動部特有の癖なのか、少なからず新入部員という自覚が芽生えた私は同級生だと言うのに背筋を伸ばして返事をした。
今日ここに来たのなら私が一番の下っ端だ。郷に入っては郷に従えという。仮入部と言えども道理を守るのが筋ってものだ。

「キャプテン、ちょっとええですか?」

理石君の後ろを小走りで着いていくと一人の人物の前で足を止めた。
手元のノートを見ていたその人は呼びかけに気付き顔を上げると、理石君と私の顔を交互に見て「この子か」と一言呟いた。

「はい。一先ず仮入部いう形になりますがマネージャー候補として来てくれました」
「よろしくお願いします」
「バレー経験者やったんて?」

私よりも背は高いがバレー選手といえば小柄の部類に入るのに、その人には貫禄があるように感じられた。百戦錬磨の王のような、将棋で言う名人のような、人外でいうとシシガミ様のような…そんな感じの人。それと付け加えるなら、この手タイプは怒るとめちゃくちゃ怖いのだろう。十数年生きてきた私の勘がそう言っている。

という感想を〇.五六秒の間で脳内処理し改めて目の前の人を見た。
感情が読み取れない顔で見られてビビらないはずがない。でも失礼に当たらないよう、私は背筋だけはピンと伸ばしてはっきりと声を出した。

「はい。中学ではバレー部でした」
「ならネット準備とかスコアの付け方は分かるな?」
「はい」
「ほな理石、一通りの仕事教えたって。他の子らは別の一年に頼んどるから」
「分かりました!」
「よろしゅう」

ジャージを羽織って体育館を出て行く先輩に、理石君と一緒に一礼する。
遠くなる先輩の背中を見てほっと一息つく。そしたら彼も同じ状態だったので少しだけ笑ってしまった。たった一つ二つしか変わらなくとも、先輩というのは偉大であり恐ろしくもあるのだ。

「今の人がバレー部主将?」
「せや、三年の北信介さん」
「貫禄ある人だね」
「まぁな。怒鳴ったり殴ったりはせえへんけど威圧感あんねん」

圧か、なるほど。さすがは強豪校の主将だと感心する。
もう少し他の部員のことも知りたかったが、ここでいつまでも駄弁っているわけにはいかない。理石君の後ろを着いていきながら早速仕事を教えてもらうことになった。

一日の練習の流れ、備品の置き場所、部室棟のことなど。ここに来る前に急いで購買部で買ってきたメモ帳に箇条書きにしながらまとめていく。
今のところ、マネージャーの仕事は新マネの他に一年生の中で分担して行っているらしい。

「私以外にマネさんって何人いるの?」
「一応四人入ってきてんけど……」

一通り話しを聞き終わった後にそう尋ねれば、理石君は微妙な表情を浮かべた。
マネージャーが四人いるとなれば十分な数である。それなのにわざわざ私に声を掛けた意味はあったのだろうか。あのときの先生のセリフも気になるところではあるが、バレー経験者の方がよかったのかな?

「理石!練習始めるって!」
「おー今行く!すまんが後は任せた」
「色々教えてくれてありがとう」

疑問は残るものの、他の一年生に呼ばれた彼を練習に送り出した。
さっそく教えてもらった場所からボトルを引っ張り出し水場に移動してスポドリ作りを始める。自分も中学時代にこの仕事をやっていたから要領は分かっている。

「遅くなってごめんね〜って貴方だぁれ?」
「先生がゆうてた新しい子やない?はじめまして〜」

ふわりとした甘い香りに、風に靡く巻かれた髪の毛が視界に入る。
顔を上げると二人の女の子が人懐っこい笑みを浮かべて立っていた。

「今日から仮入部で入って来たの。よろしくね」
「そうやったんか。よろしくねぇ」
「仲良くしてね〜」

私だけ二人とは違うクラスだったので、初対面ということで名前を教えてもらった。互いに軽く自己紹介を済ませる。さて、後二人はいつ来るのだろうか。

「マネさんは四人いるって聞いたんだけど他の人は?」
「昨日までいた二人は辞めた言うてたよ」
「なんか思たより大変やったんやって〜」

それは残念だ。
しかし今はそれよりも目の前の二人が気になってしょうがなかった。ふわふわと話す女の子達は些か運動部のマネージャーには見えない。ナチュラルメイクのように見せて目元のアイプチはまだ慣れていないのか雑に目立っていたし、しっかりと巻かれた髪は動くたびに甘ったるい香りが辺りに広がる。
中学時代、もしその髪型で体育館へと踏み入ろうとすれば先輩からの叱咤は間違いなくあっただろう。でももう高校生だし、マネージャーとしてならその辺は緩いのだろうか。

「でさ、貴方は誰目当てで入部したん?」
「え?」
「とぼけへんでもええんやって。やってマネージャーなんて彼氏探す為にやるようなもんやろ?」

先程の理石君の歯切れの悪い言葉と先生の言った意味が分かった気がした。
彼女達の言葉にはさすがに少しムッとしたが、入部する気もない私がとやかく言う資格はない。それに他クラスとはいえ高校生活しょっぱなから目え付けられたくもないし…

「えっと、私はまだやりたい事見つけられてなくて…担任が大見先生だったのもあって一先ず仮入部した感じかな」
「ほんま〜?まぁいっか。うちは侑先輩目当てやからそこんとこよろしくね」
「うちは先輩達の中から良さそうな人探し中なんよ。あ、そのドリンク出来てんの?うち持ってく!」
「ずっるい!うちも!」

既に出来ていたスポドリを取り合うようにして彼女達は体育館の中へと消えていった。
触らぬ神に祟りなしだ。彼女と、彼女達のお気に入りの人達には関わらない方がいいだろう。

昨日辞めた二人に続いて、私も早いところ辞めよう。
そう胸に誓って残りのスポドリ作りに励んだ。





さて、あっという間に仮入部から五日が経った。
今日は土曜で授業はないがもちろん部活はある。

休日は何時に行ったらいいか分からなかったので平日の朝練と同じ時間に行ったら逆に早く来すぎてしまったらしい。すでに体育館には何人か練習している人はいたが今のところマネージャーの仕事はなかった。
何もせずにいるのも無駄なので、掃除ロッカーから雑巾を引っ張り出して倉庫内のボールを磨いておくことにした。

早速十個ほど磨いてみたがそこまで汚れてはいないようだ。誰かが定期的にやっているのだろうか。あの女の子達がやっているとは思えないから一年生部員の誰かかな?

「おはようさん。ボール綺麗にしてくれてんの?」
「え?あっ北先輩!?おはようございます」

私しかいなかった倉庫に声が響き、ボールを放り出して慌てて立ち上がる。
主将である北先輩と会話をするのは初日以来である。この人のことは正直少しだけ怖い。確かに先輩は怒鳴ったりはしないが、他の先輩方を含めた部員一同がみな一目を置いているのがこの短期間でよく分かった。確かに先輩には[[rb: 圧 > 、]]がある。

「朝早くからありがとう」
「いえ、マネージャーですし……先輩もしかして掃除されてました?私、代わりにやります」
「これは俺が好きでやっとるから気にせんでええよ」

先輩は手に持っていた箒とちりとりを倉庫内にあるロッカーへと片付けた。
いやいや、掃除とか一番主将にやらせてはいけない仕事なのではないだろうか。明日の部活はボール磨きではなく掃除から始めることにしよう。

「どこ掃除されてたんですか?」
「体育館前の渡り廊下。君はやらんでええよ」
「そうですか……」

またもやんわりと断られ、先輩は倉庫を後にする。
さすがに二度断られてしまえばそれ以上は聞けず引き下がるしかなかった。しかし、それでも思い返してみると本当によかったのだろうか?というモヤモヤ感が拭えない。

「あの、やっぱ——うわっ!?」
「おっと……」

先輩を追いかけようと倉庫から顔を出すとちょうど入ってきた人にぶつかってしまった。というか壁というくらい硬かった。ぶつかったというよりは私が頭突きをした感じである。おでこが痛い。

「びっくりした。大丈夫か?」
「私は大丈夫です……っすみませんでした」

首を痛くなるほど傾けると一九〇以上もの長身の人物がそこにはいた。大耳練先輩である。まだ二、三年生の名前は全員覚えていないが先輩は部内きっての長身でもあるのですぐに覚えられた。

「本当にすみません。前見てませんでした……」
「ええんやで。そんなに慌ててどうしたんや?」

大耳先輩は顔が怖い。背の高さも相まって北先輩とは違う意味で圧がある。
しかし先輩は思いのほか優しく声を掛けてくれたので、面を食らってしまった。人は見た目で判断するものではない。

「北先輩が掃除をされていて、明日は私がやった方がいいかと思って声を掛けようとしてました」
「あー…あれは気にせんでええよ」

大耳先輩曰く、掃除は北先輩の“儀式”らしい。掃除だけじゃない、日常のことを反復、継続、丁寧に行う。その一つ一つが北先輩を形作る行為なのだそうだ。
それを理解するまでにはいかなかったけれど、私が手伝うべきではないことは分かった。
試合の前には円陣を組むとか、いいレシーブには「ナイスレシーブ」と声を掛けるとか。たぶんそれと同じことが北先輩の掃除にあたることで彼のバレーボールを形成するひとつなのだと思った。

「そうなんですね」
「だから気い使う必要あらへんで。それに、自分が一番真面目にマネージャーの仕事やっとるしな」

その時、大耳先輩が笑ったのだと理解するのに三秒ほど時間がかかってしまったのは後に気付いたことである。

「そっちのボール籠も外出してもろうてええか?」
「はい、やっておきます!」

マネージャーとして評価してもらったのは嬉しいが、週明けにはやめようと思っていたので複雑な気持ちである。
しかし、何となくバレー部での居場所ができたようで少し嬉しかった。



「スパイク練始めるから、マネージャーはボール出しな」

部員達が外周の走り込みを終え戻ってきた頃、黒須監督が体育館に顔を出した。
週末ともなれば監督とコーチが体育館に訪れ付きっきりで指導をするのだそう。

スパイク練習は三グループに分けて行うらしい。これに関してはレギュラー関係なしにバランスよく人数を割るため学年ごとに分かれて行う。

「じゃあ私は一年生の方行くね」

二人のマネージャーはきっと先輩方のグループに参加したがる。藪を突いてヘビを出す勇気はないので自ら身を引いた。それに私は彼女達が躍起になっていることに興味はないのだ。

「ボール出し私やるよ」
「助かるわ。これボールな、よろしゅう」

それに一年生の方が話しやすいし気楽だった。
理石君は本当に気が利く子で、私が馴染める様にと一年生部員の子達を紹介してくれた。おかげで今では顔と名前を一致して呼ぶことができるし、みんなが試合でどのポジションを志望しているかも知っている。

ボールの入った籠を受け取りネット際まで移動させる。準備が整ったようだったので、セッターとタイミングを合わせボールを空中へと放っていく。

それにしても稲荷崎は練習環境に恵まれていると思う。一年生の四月の時点でここまでボールに触れることはまずないだろう。とはいえ、推薦でここへ来た子も多いのだから強豪校ゆえの対応なのかもしれない。

「ラストー!」

一人十本ずつとのことだったので先頭の子が十巡目に入ったタイミングで声をかける。
スパイクは各々の強打が決まり、滞りなく終わった。

「ボールの片付け手伝うで」
「私やるから大丈夫だよ。休んでて」

一年生部員の申し出を断り、ボールを片付けるためネットを潜り反対側の壁際まで向かう。
その際、横目で隣のコートを窺うとまだ両コートともスパイク練習をしていた。自分がこちらのボール拾いを終えたら向こうのボール拾いも手伝った方がいいだろうか。それならおそらく彼女たちの邪魔にはならないだろうし。

「あんたちょっとええか?」
「うわっ!?」

一度に四個ほどのボールを抱え籠へと往復を繰り返していたらいきなり肩を掴まれた。驚いて手元が緩めばボールは足元で二、三回バウンドをし様々な方向へと転がっていく。

「一年の方は終わったやんな。ほな、こっちのボール出し頼むわ」

ドスの利いた、決して穏やかではない声が頭上から降り注ぐ。
恐る恐る見上げればレギュラーメンバーであり、高校ナンバーワンセッターと呼ばれる宮侑先輩が不機嫌そうな顔で立っていた。

「え、あの、私はボールの片づけが……」
「そんなん、あの役立たずの女共にやらせとけばええねん。あんたはこっち」
「アッ ハイ」

めっちゃ怖いやん。
この人のことは知っている。月バリで取り上げられていたこともあるし、中学時代の友達が「この人めっちゃかっこいいんだけど!」と騒いでいたことも覚えている。その子伝手に宮侑の情報と動画は飽きるほど教えられた。

「あのアホ共いい加減にしろや」

さて、例の宮侑が目の前にいるわけだが私が彼女から教えてもらった情報の印象とだいぶ違う。容姿端麗でセッターらしく冷静沈着などと聞かされていたがそんな様子はかけらもない。彼女の乙女フィルターにかかった情報は全く役に立たなかった。

悪態をつく先輩の後ろを黙ってついていく。何故か私が悪いことをしてしまった気さえ思える。これも全てあの女の子たちのせいなのだろうか。あんなに張り切っていたのに、一体何をしたのだろう。
二年生のいるコートまで連れていかれた。…先輩方の視線がめちゃくちゃ痛い。なんで私がこんな目に合わないといけないのだ。やる気なら彼女たちの方があったというのに。

「このボールを俺に向かって上げる。それだけの作業やねん。できるよな?」
「ハイ デキマス」
「ほな、頼んだで」

その上げたボールをダイレクトで私の顔面に打ってこないですよね?とまでは流石に聞けなかった。
ボールを空中へと放るだけ、ボールを空中へと放るだけ、と呪文のように頭の中で唱える。さっきまでは何も考えずとも出来ていたのに今めちゃくちゃ緊張している。

先輩方の準備も整ったようだったのでボール出しを行う。一年生よりローテのスピードが速い。でも、できるだけ丁寧にボールを放った。一巡目を終えたあたりで、ボールの高さが低いようだったので少し高めに上げるよう意識する。侑先輩は何も言ってこないがこれでよかったのだろうか。

「お疲れ様でした。ボール拾ってきます」

最後の人のスパイクを終え、すぐさまボールを集めるために反対側のコートへ移動しようと体の向きを変える。結局どうして先輩がお怒りモードで私の元へと来たかは分からないが、これ以上関わりたくないので逃げた。
しかし、ネットを潜ろうとしたらまたも肩を掴まれた。

「だから、それはあいつらにやらせとけばええねん。あんたはコーチんとこ行きや」
「アッ ハイ」

先ほどよりも機嫌はマシになったようだが、まだ怖い。女の子の一人が侑先輩狙いだった気がするが、どこに惹かれたのだろうか。顔はかっこよくてバレーは上手いが、今のところ怖い人という印象しかないのだが。

急いでコーチのところに向かう。その途中、元々二年生のボール出しを担当していた女の子が体育館を出ていくのが見えた。気になったが、先輩に言われたことが最優先なので追いかけるのはやめた。

北先輩とコーチ、それと監督が話している輪に加えてもらい、今日の練習の流れを頭に入れる。
他の二人はあまり頼りにならなそうなので、頼れるもの自分自身だけだと思いメモを取りながらやるべきことを記していった。



部活動の時間が終わり、黒須監督に呼び出された。
少し緊張しながらも体育館近くにあるコーチや先生たちが使う教官室へと向かう。一体私が何をしたのかとビクビクしていれば、意外にも監督は好意的に出迎えてくれた。

「一週間も経ってへんけど、えらい頑張ってくれとるな」
「手探りな状態ですが、みんなが教えてくれるので何とかやれてます」
「他の子達はいかんせん部員目当てでまともに仕事せえへんさかい困っとってん。そんな中、一人真面目にやってくれて感謝してんで」

問、なぜスパイク練で侑先輩がお怒りモードで私の元へと来たか。
解、マネージャーが仕事をしなかったから。

一体あの女の子たちが何をしでかしたのかと思っていたが、何もしていなかったことが答えだったとは…。
「ボール出しも『私力ないんでぇ』言うて使い物にならんかったみたいやで」という監督の一言が決定打だ。因みにここでの女生徒の声マネは少し面白かった。

例の女の子たちは、侑先輩の怒りを買った一人が辞めもう一人もそれなら辞めたいということで退部届を出したらしい。確かに午後練の時にはすでに彼女たちの姿がなかったように思える。といっても今まで先輩を追いかけていてまともに仕事をしていなかったので、私としてはいないことがデフォルト状態だった。

「それでな」という声で再び思考を現実へと戻す。
監督は改まって一枚の紙を私の目の前に差し出した。

「正式にマネージャーになってくれへんか?」

真っ白な入部届。私のバックの中でぐしゃぐしゃに潰れたものとは違う新しいものだ。わざわざ印刷し直してくれたのだろう。

私は目の前のそれを受取ろうとして、躊躇った。

マネージャーの仕事というのは思いのほか充実していた。
スポドリ作りにビブスの洗濯、備品の管理に、ネット張やボールの空気入れ。試合時のスコアノートの記録も、先日見せてもらった部誌も読むのが楽しかった。
床を鳴らすシューズの音、天井に木霊する掛け声、体育館の少し埃っぽい匂い———それも自分の日常として再び馴染みつつあった。

当分は関わりたくないと思っていたバレーボール。でもそう簡単に割り切ることもできなくて、放課後体育館へ足を向けることに抵抗はなかった。渡り鳥が春に巣へと戻ってくるような、そんな安心感さえ芽生えてきている。

でも、いつか後悔する日が来るかもしれない。
バレーをする彼等を見て、自分がひどく惨めに思える日が来るかもしれない。
その時、自分が傷つくことがとても怖い。

「あの、もう少しだけ考えてもいいですか?」
「分かった。もしマネージャーになってくれるんなら俺たちは君の入部を歓迎するさかい」

白紙の入部届を受け取り部屋を後にする。
この紙切れ一枚に高校生活のすべてが掛かっているように思えた。しかし、事実そうである。だからこそ決めかねて、クラスでただ一人というまでに私は所属先が決められていない。

「先生んとこ行ってきたか?」

荷物を取りに体育館へと戻ると北先輩に声を掛けられた。先輩の視線が私から手元の入部届へと移る。私はそれを隠すことはせず、視線を下へと落とした。

「監督に正式にマネージャーにならないかって言われました。だけど少し待ってもらってます」
「そうか」

北先輩は多くは語らない。多分、私の気持ちを汲んでくれているのだと思う。
先輩は壁に背を向けて体育館全体を見た。それにつられて私も同じ方向を見る。
部活後も居残り練習をする部員は多い。特にレギュラーともなればそれは当たり前の光景とも言える。

「あいつらな、めっちゃ手が掛かんねん」

そう言った北先輩の視線の先には二年生の先輩方がいた。侑先輩に、もう片方の双子である治先輩、MBの角名先輩、WSの銀島先輩——今日の部活中の練習でも特に目立っていた人たちだ。

「試合の時な、侑は好戦的が裏目に出ることもあるし、大人しそうな治やて侑とDNAは一緒で負けず嫌いが悪いほうへ作用することがある。銀は決め急ぎがちで角名はサボり癖もあんねん。ほんま手の掛かるやつらや」

言葉とは裏腹に、北先輩は優しい目をしていた。
後輩のことが、この部のみんなのことが好きなんだなって思った。

「俺だけが面倒みるのも大変やねん。せやから君みたいな子がマネージャーに居ったら安心するわ」

入部してくれとは言われなかった。でも北先輩の言葉とその表情がやけに記憶に残った。
はい、とは言えなかった。でも喉元までその言葉がせり上がったのは分かった。

北先輩に挨拶をして体育館を後にする。
真っ白な入部届を見て、どうしようかと考える。あとは私次第だ。どちらにしろ月曜までに提出しなければ大見先生にもまた同じことを言われるだろう。

「マネージャー!」

後ろからの呼び声に、足を止め振り返る。
今日何度、呼び止められたかわからない侑先輩が駆け足でこちらまでやってきた。

侑先輩の機嫌が悪かった理由は十分に分かった。先輩は何も悪くなく、寧ろ同情もする。しかし、いかんせんあのドスの利いた声と怖い顔しか印象に残っていないので正直怖かった。

「どうかしましたか?」
「今日、スパイク練のとき八つ当たりしてすまへんかった!」
「え…?」

意外な言葉に驚いて目を丸くする。八つ当たりだったことはもう知っているとして、わざわざ追いかけてまで謝ってくれるだなんて思いもよらなかった。
ぽかんと口を半開きにしたままの私に、さらに侑先輩は言葉を続ける。

「あいつらがボール出しもまともにせんと絡んでくるのが本当にウザくてついあんたに…それに自分も同じような奴か疑ってしもうたわ」

侑先輩は正直に話す。包み隠さずに言ってくれることで私はすんなりと今までの警戒心を解くことができた。先輩の気持ちはよく分かる。それに私が思っていたことを言葉にしてくれたことですっきりとした気持ちにさえなれた。

「全然大丈夫ですよ。私は気にしません」
「おおきに。せやったらこれからも頼むで、マネージャー」
「えっ、あ、はい…!」

侑先輩は最高の笑顔を残し、再び体育館へと戻っていった。

白紙の入部届。
しかしこの瞬間、記入する部活名が決まった気がした。

正直、今のは勢いだけで返事をした。
でもこの短期間であっても仕事をさせてもらって、練習を手伝って、先輩方の背中を見て、私はこの人たちの未来を見たいと思ってしまった。
試合に出て、全国に行って、センターコートに立つ皆の姿を。

迷いは少なからずまだ心の中にある。
でもほんの少しだけ“やってみたい”の気持ちが勝ったのだ。

“マネージャー”と呼ばれて私はすぐに反応をした。その時に、すでに答えは出ていたかもしれない。

侑先輩を追いかけるように引き返し、私は数分前に訪れた部屋のドアをノックした。


数日後、臙脂色のジャージが私にも渡された。
まごうことなき稲荷崎高校男子バレーボール部の部活ジャージである。それに腕を通せばマネージャーとしての自覚がふつふつと湧いてきた。

「スパイク練始めるで」
「「「はい!」」」

部員たちの背中を見る。
彼等の未来のために私ができることをこれからやっていこう。

桜並木が葉桜となった今日、私は再びバレーボールと向き合うことになった。







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