「はぁ…」
膝に乗せた名前はすっかり脱力しきって俺に全体重を預けて静かに寝息を立てて眠っている。
その寝息を聞きながら、くるんと巻かれた名前の柔らかい髪を指に巻きつけて遊ぶ。
「俺はいい、だなんて言ったもののねぇ…」
何度目かわからない大きなため息がまた口をつく。
すっかりもやもやと腹の底で沸き立つ熱から気を散らすように、ぼーっと天井を見ながら思考を巡らせた。
*****
名前ちゃんがここで働くようになってかれこれ1年半ほどになる。
始めて出会ったのはそう、ここ社長室だった。
ヒーロー業とは無縁な一般教育を受けてきたという彼女は短大を卒業して20歳の時に、俺の経営するこの事務所に事務員としてやってきた。
18歳でデビューして以降不本意ながらも年々ビルボードでの順位を順調に上げていたおかげか、日増しに増える仕事の依頼に比例する事務雑務をこなすにも人員が追いつかず、公安の職員から派遣会社と契約して事務員を補充することを勧められて、まずは試しにと1名手配してみたところ派遣されてきたのが彼女だった。
気候のいい春の日に、顔合わせと称した面談で営業スマイルを顔に貼り付けた派遣会社の営業マンの後ろに、真新しいスーツに身を包んだ彼女は控えめに佇んでいた。
(うさちゃん、ね)
第一印象は彼女の容姿から連想される個性についての関心。
うさぎ、と言われて真っ先に頭に浮かんだのはラビットヒーローこと勝気な某人気ヒーロであったが、目の前にいる彼女はあのうさぎさんと同じ生き物には見受けられず、安心してほっと胸を撫で下ろした。
サイドキックと違って直接現場業務に関わるわけではない事務員の彼女に何か特別個性のことで求めるつもりはなかったし、その場ではアイスブレイク程度の軽い談笑をしてから依頼したい業務内容の共通認識と無事働いてもらえるという確認だけをとって、その日の顔合わせは終了となった。
それから数ヶ月後、当初では正式に社員を見つけるまでの埋め合わせと思って派遣会社から人材を補填したつもりだったが、愛想も良く真面目に仕事を頑張る名前はサイドキックや業務で携わる他社の担当職員からも大変評判が良く、周囲の勧めもあり正社員として迎え入れることにした。
この部屋で彼女と初めて2人きりになったのはその話を打診した時だ。
正社員としてあらためて頑張って欲しい、と伝えると、満足な学歴や個性にも恵まれているわけではないので本当に自分でいいのだろうか、と驚いた様子の彼女は、花のような笑顔を浮かべて「あらためて頑張ります」といつもの彼女らしい真面目な答えを返してくれた。
(かわいいかも)
その時あらためて2人で会話をする中で、俺は名前ちゃんに興味を持った。
初対面の時にはスーツ姿で緊張した様子だったし特に女の子として意識をするようなこともなかったし、それ以降業務を依頼するときはいつもチャットツールを使って最低限に用件を伝えるばかりで直接言葉を交わす機会もそうなかったから当然なのだけれど。
応接セットの下座に座る彼女をあらためて見ると、小柄で華奢な女の子らしい体に、つぶらな黒目がちの瞳とふわふわの髪をしていて、それでいて控えめで愛想のいい性格ときたら気にならないわけがなかった。
とはいえ興味は持ったものの、社長と社員という関係である以上俺から何か積極的に行動を起こしては、今巷で騒がれているなんとかハラスメントだとか言われてしまっても立場もない。
ということで、一応多数のサイドキックを抱える一社長として自分の男としての気持ちは心の奥底にしまっておいた。
まぁあの日以来、以前より彼女にコーヒーを入れてもらったり書類を社長室まで持ってくるように頼んだりだとか、そういう類のことは多少したのは否めないのだが。
速すぎる男だなんて言われているが、断じて彼女に手を出すというようなことはしないでいたのだ。
けれど。
名前ちゃんが正社員として働いてくれるようになってからしばらく経った頃。
その日はいつもどおりパトロールを終えて事務所に戻って、名前ちゃんに淹れてもらった甘いコーヒーを飲みながら溜まった書類たちの処理をしようと彼女のデスクめがけて事務所の中を最短距離で向かったのに、そこに彼女はいなかった。
壁にかかっている時計を確認するも時計の針は夕方16時を示していて、定時まではまだ時間がある。
真面目な彼女に限ってどうしたのだろう、と名前ちゃんの席の隣の席でおぼつかない手つきでキーボードを叩く新人の事務員に名前ちゃんはどこにいるかと尋ねると、顔色が悪く体調もすぐれなそうなため早退した、との返事だった。
その時期は俺がビルボードで3位になった頃でますます仕事が増えていたから無理をさせてしまったのだろうかと危惧したが、その場ではその事務員にお礼を告げて、しぶしぶ自分でインスタントのカフェラテをウォーターサーバーの湯に溶いたものを持って社長室に戻り、また明日名前ちゃんの淹れてくれたコーヒーを飲もう、そう思ってマグカップに口をつけながら山のようにデスクに積まれた書類を上から1枚手に取った。
しかし翌日、名前ちゃんは会社に来なかった。
その翌日も、翌々日も来なかった。
名前ちゃんがやっと会社に出社したのは、週末の定休日があけて月曜日のこと。
入社以来ずっと真面目に頑張ってきてくれた彼女に限ってサボるなんてことは考えられなかったし、よほど体調が悪かったのだろうか。
それならまだ無理をしてるのではないだろうか。
業界でもホワイト企業としてそこそこ評価の高いうちの事務所は法令以上に有給休暇も付与しているし、しっかり体調が戻るまで療養してもらった方がいいのではないか。
一人で思考を巡らせても拉致があくことはなく、まずは本人に容態の確認をしてから必要あれば本人の意思を尊重しつつ諸々の提案をしよう、そう思い内線電話で彼女を社長室に呼び出した。
その時、俺は彼女の口から1つの悩みを打ち明けられた。
そしてそれまで積み上げてきた俺の理性たちはあっけなくがらがらと音を立てて崩れ去る。
結局、ヒーローだなんだといったところで、所詮俺だって22歳の健全な男の子だった、というわけだ。
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