「…はぁ」


口を開けば溜息を溢すようになって早5日が経つ金曜日の夜。
華の金曜日なんて世間は浮かれているけれど、私はもう泣く準備なら出来ている。
少し残業をしてから会社を出て自宅に帰るのとは反対方面の電車に乗って、焦凍くんの自宅に向かう。
あと数時間、日付が変われば明日は私の誕生日だ。


先日の日曜日、目の前を歩く2人は案の定彼の住むマンションに消えていって、その際に見た横顔は残念ながら焦凍くん自身で間違いがなかった。
その時の衝撃はショックなんていう言葉で言い表せるほど生易しいものではなくて、悲しいはずなのに涙すら出てこなくて、私はその場に数分間呆然と立ち尽くした。
それから自分がどうやって自宅に帰ったのかぽっかり記憶がぬけ落ちているけれど、彼のためにと作った食事は落とした際に袋の中でぐちゃぐちゃにこぼれて、悲しきかな誰の口にも入ることがなく自宅マンションのゴミ捨て場行きとなった。


帰宅してからは感情が一気に溢れ出して枕に伏せて泣きじゃくるうちに気が付けば眠ってしまっていて、朝なんて来なければいいと思ったけれどそんな思いも虚しくまたいつものように1週間が始まって。正直仕事なんて行きたくない気分だったけれど、それ以上に1人でいたくない気持ちが強くて、泣き腫らした目が目立たないようにいつもならしない眼鏡をかけて出社した。
気持ちが浮かないなりに仕事に打ち込めば幸いにも新しいプロジェクトが順調で、ぼろぼろになった心がいくらか晴れるような気がした。


しかし当日の夜こそ泣きじゃくったものの、何日かたつ毎に冷静になる自分がいて驚いた。
そもそもしがないOLの自分が今をときめく若手人気ヒーローである彼と交際をしているということ自体が夢のような話だったのだ。
数ヶ月もお付き合いをすれば彼が私みたいな取り柄のない女に飽き飽きしてしまうのもきっと仕方がないことだろう。
それに、もしかしたら“お付き合い”自体聞こえのいい言い訳で、普段接することのない一般人へのほんの少しの興味だったのかもしれない。


…なんて、あんな光景を見た今ですら彼がそんな人だなんて思えないのだけれど。
でも、私がどんな風に思おうと、あの時見たあの光景は紛れもない事実だろう。
私はそれを笑って許せるほどできた女ではない。


日曜日の夜泣きながら眠りについて、朝目が覚めると夜中に彼から今日の約束を取り付けるためのメールが一通届いていて。
それは金曜日の夜に彼の家に来るようにという内容だったけれど、あんな光景を目にした後彼の家に行く気はなかなか起きず水曜日までその連絡への返事は保留した。
私の誕生日と知ってか知らずかその日時を指定してくるのは彼なりのせめてもの優しさだろうか。
でも今はかえってその気持ちがつらくて、本当は断ってしまおうかと思ったのが正直なところだ。
しかし忙しい彼がせっかく時間を作ってくれるというのだから、最後くらいせめて直接顔を見て今までの楽しかった時間へのお礼を伝えてお別れをしよう。そう決めたのが昨日のことである。


口数が少なくてポーカーフェイスな彼の、たまに優しく微笑む顔が好きだった。
不器用なりに一生懸命気持ちを伝えてくれるところが大好きだった。
短い期間だったけれど、この数ヶ月彼と過ごした時間は本当に幸せだった。


この間辿った道をまた1人で歩いて、この数ヶ月で何度足を運んだかわからない彼の住むマンションのエントランスをくぐる。
彼に返却するためにキーケースから外した彼の部屋の鍵でオートロックを抜けて、エレベーターに乗り込んで彼の住む階のボタンを押した。


「…ふぅ、よし」


高級感のある絨毯張りの内廊下を歩いて彼の住む部屋の前についたら呼吸を整える。
彼はもう帰宅しているのだろうか。
それとも、いつもみたいに仕事で遅くなっているのだろうか。


「おじゃまします…」


手にしたカギを鍵穴に差し込んで、重厚な玄関の扉を開けるといつも彼のはいている靴がきれいに並べられている。
廊下の奥、リビングに続く扉の擦りガラスからは明かりが漏れて、そこに彼がいることを知らされた。


付き合い始めたころに私のためにと彼が買っておいてくれた淡い色のスリッパがご丁寧に用意されていたけれど、あの時の女性もこのスリッパに足を通したのだろうかといらぬ考えが頭をよぎってしまって、パンプスを脱いでストッキングのまま見慣れた廊下を歩く。
リビングに続く中扉は軽いはずなのに今日はなんだか玄関の扉以上に重厚に感じて、両手でゆっくりドアノブを回してリビングへ足を延ばした。