「…?


ドアノブを押すと暖かな家庭の香りがふと鼻腔を掠めて、もう一度すん、と空気を取り込めばどちらかといえば無機質な彼の家に似つかわしくないだしの香りが漂ってくる。


「名前、おかえり」
「あ、お、お邪魔します…」


そのまま扉を限界まで開いたら目に入ってきたのは見慣れない光景で呆然と見つめてしまう。
エプロンをつけた焦凍くんはキッチンに立っていて、なにやらお鍋をかきまぜている。
初めて見るその姿を目にぼーっと立ち尽くしていると、私の存在に気がついた焦凍くんから声をかけられて思わず声が吃った。
だって彼の姿を見るのはあの日以来だ。
おかえりと言って薄く笑みを浮かべた彼の綺麗な笑顔に見とれそうになるけれど、ふるふると首を横に振って今日私がここに来た目的を今一度思い返す。


「しょ、焦凍くん、あのねっ…」


まだ言わなくてはならないことを言い出してすらいないのに、喉がキュッと苦しくて熱い。
このまま言葉を絞り出したら、一緒に涙もこぼれ落ちてしまいそうだ。
大好きな彼の名前を口にしたら目にじわりと水分の膜がはる。


「名前、あとちょっとだから座っててくれ」
「え、えっと、」


続きの言葉がなかなか言い出せなくて、キッチンに立つ彼の方を向いて扉の前で立ち尽くしていたら座るように促される。
どちらにせよ伝えたい言葉はまだ喉を通ってくれそうにないため一度促されるままに二人掛けのダイニングテーブルの椅子を引いて腰掛けた。


「悪ぃ、本当は名前が来る前に完成させときたかったんだが」
「いや、私は全然、お構いなく…」
「ふ、お構いなくってなんだよ」


よそよそしいなと笑う焦凍くんは何の気なしにそう言っているのだろうけれど、つい先日この部屋に別の女性が訪れていたと知っているのに寛げるわけもない。


「待たせてごめんな」
「…あ、ありがとう」
「量は普通でいいか?」
「え?」


慣れ親しんだ定位置でそわそわと彼を待っていると、キッチンで何やら格闘していた焦凍くんが2つ湯呑を持ってリビングに出てくる。
湯呑を目の前に差し出されてお礼を言えば、問われた質問にいったい何のことだと問い返す。


「飯つくった、いつも名前に作ってもらうばかりだから」


そう言った彼の湯呑を持つ手は何か所も絆創膏が巻き付けられている。
それを目にした瞬間、ここ数日1人で戦ってきた気持ちが破裂して涙が溢れた。


「…っぅう、」
「ど、どうした?名前」
「な、んで…?」
「…悪ぃ、やっぱりもっと外食とか行きたかったか?」
「ちがうよ…」


椅子に掛ける私に目線を合わせるように屈んだ焦凍くんの大きくて優しい手に宥められるように頭を撫でられる。
いつもなら嬉しいはずのその行為が、今は胸が痛くて苦しくて張り裂けそうだ。


「なんで優しくするの…っ」


一度こぼれた涙は堰を切ったようにとめどなく溢れ出て、最近買ったばかりのお気に入れの淡いピンクのワンピースに点々と濃い水玉模様が描かれる。


「名前?」
「…さわらないで」
「どうした?名前」


私の顔を覗き込むように髪を掬って耳にかける彼の手を取って引き離すと、いつもと様子の違う私に違和感を感じたのか、焦凍くんの手を払った私の手ごと頬に押し当てられてうつむく頭を無理やり正面に向けられる。


「見ないでっ、」
「名前、」
「ほっといて」
「さっきからあれしちゃだめこれしちゃだめって、目の前でいきなり彼女が泣きだしたら心配するのが普通だろ」
「…〜っ」


彼を困らせたいわけじゃない。
でも心に決めてきたはずなのに優しくされると揺らぐ自分がみっともなくて。
まだ好きな彼に涙でぐちゃぐちゃな顔を見られたくなくて。
自分でも子供みたいだと思う駄々を繰り返しても埒が明かないことはわかっている。
乱れた呼吸を整えるようにすうと一つ息を吸って、決めてきたたった数文字の言葉を告げた。


「焦凍くん、もう別れよう…っ」