真昼間の街中に、自称大悪党の愛らしい高笑いが反響する。
「ふふふふふ……っ! あーはっはっはっ! ついに……ついに、やって来た……。この私が、世界を支配する時が……!」
いつものことか、と道行く人々は生あたたかい眼差しで微笑み、通り過ぎていく。そう、真っ黒な衣装に覆われた異質な女の姿も、アスファルトにこだまする悪役じみた笑い声も、この街にとっては常日頃のことだ。
周りの反応を一切気にしないその女は、顔の上半分だけを隠すハーフマスクの隙間から、ルビーのような深紅の瞳を歓喜に輝かせている。
ロンググローブにつつまれた手で、くせのある艶やかな黒髪をゆったりと払って言いはなった。
「皆の者、私にひれ伏しなさいな!」
隠し持っていた自作の香水を自身へと振りまき、香りを周りへ散らすためにクルクルと回った。それはまるで一輪の黒い花が、優雅にダンスをしているようだった。
漂ってきた香りを嗅いだ人々は、顔から表情を消して地面へと伏せ始める。
「ふふふ……、さすが私ね!」
自称大悪党は、発明家でもある。
今回開発した香水は、香りを嗅ぐとそれを身にまとった人物の言うことを聞いてしまう、という効能を持っていた。
地面に這いつくばっている人々を満足げに見下ろしていると、気だるそうな男の声が耳に届いた。
「あー……なに、この人たち。邪魔だな……」
人間という障害物を避けつつ、女の元へと向かってくる優男。それは自称大悪党の天敵である、この街の平和を守るヒーローであった。
「出たわね、ヒーロー! 今日こそ年貢の納め時よ! 私に服従するがいいわ!」
ビシッと人差し指を突きつけ、ポーズを決める。そして膝丈まであるロングマントを優雅に指で摘み、ひらひらと揺らし始めた。格好つかない仕草だとしてもヒーローに近づかず、香りを届けるにはこれしか思いつかなかった。
だが、肝心のヒーローはキョトンとした顔で突っ立っている。
「何してるの?」
「えっ!? どうして効かないのよぉ……!」
予想外の出来事に、慌てふためいた。その間にも、ヒーローはコツコツと足音を鳴らして、着実に近づいてくる。
「どうしてって……そりゃあ、口呼吸してるからね」
「な……口呼吸ですって!?」
思いもしなかった対処法だ。
衝撃だった。仮面の大きく空いた目出しのところまで目を見開いて、呆然と立ち尽くす。その悪党らしからぬ素直な反応を見て、ヒーローは微かに笑った。
「ふふ……、それよりさぁ、止めてよね。気持ちよく昼寝してたのに……。いきなり呼び出される僕の身にもなってよ、リディアちゃん」
なれなれしくも女の本名を呼ぶヒーローは、確かによれっとしたシャツにチノパンといったくつろぎモードであった。
「くぅ…! この、無気力ヒーローが……! あなたの都合なんて知らないわよ!」
吠えながらも、迫ってくるヒーローとの距離を取るために後ずさる。
天敵に背中を見せることは、プライドが許さない。かといって、所詮は男と女だ。接近戦に入れば、勝ち目はないとわかっていた。
じりじりと距離を詰めたり空けたりといった攻防戦に終止符を打ったのは、ヒーローの間の抜けた声だった。
「あ……」
「え? なに……ひゃあッ!?」
ドタッと派手に尻餅をつく。後ろを見ていなかったので、ダンゴムシのように地面に丸まっている人間に足を取られてしまったのだ。
「うぅ〜っ……イタタタ……」
「大丈夫?」
痛みを散らすように尻を擦るリディアに、ヒーローは手を差し伸べた。
「ごめんね? もうちょっと早く声かけてあげれば良かった」
失態を見られた上に、情けをかけられる。この上ない屈辱に首から上を真っ赤に染めたリディアは、その手をバシッと払いのけて立ち上がる。
「結構よっ!」
痛そうに手を摩っているヒーローに、フンと鼻を鳴らしてお決まりのポーズを取った。
「き、今日のところは見逃してあげる! 覚えておきなさい!」
猛ダッシュでヒーローから遠ざかる。結局、背中を向けてしまっていた。その背中に、ヒーローの楽しそうな笑い声が届く。
もう今日のことは忘れてしまいたいと、悔しさに唇を噛みしめたその時。
「……あっ! 痛……! もうっ、どいてよぉ!」
やはり、足元の人々につまずく。今度は転ばなかったが、このままでは危険だ。
道を開けるように命令すると、ゆっくりと人々は退いていくが、もたもたした動作に苛立ちを隠せない。
「うぅ……、こんなことなら、発明するんじゃなかったわ……」
香水トリックにかかってしまった人々を解放するために、元に戻れと叫びながら走り去っていった。
「ふふっ……。本当におバカさんだなぁ。操った人たちで、俺を倒すことだってできたのに。……また遊んでね。リディアちゃん」
彼女が触れた手を赤い舌でペロリと舐め上げ、無気力ヒーローはアジトに帰っていった。