全部、熱のせい!

 その朝、リディアは気だるさで目を覚ました。
「ふぇっ……くしゅん!」
 布団に入っているにもかかわらず、寒気が体を這う。だが、顔は蒸発してしまいそうなほど火照っていた。どうやら熱を出してしまったようだ。
 チラリとカーテンの隙間を見ると、眩しい日光がさし込んでいた。外からはチチチ……と小鳥の鳴き声も聞こえてくる。
 やってしまった、とため息を吐いた。
 新作が完成したので、早速悪さをしてこようと決めていたのだ。天気予報もバッチリ確認して意気込んでいたというのに、風邪をひいてしまうとは思ってもいなかった。
 今回の発明品は局地的に天気を変えられる仕掛けを施している。晴れた空を突然雨雲が覆い、ゲリラ豪雨を発生させる。びしょ濡れになった人々に雨をどうにかしてください、とひれ伏せさせる手筈だった。
「うぅぅ〜……。頑張りますか……。風邪に負けるな!」
 のそのそと離れがたいベッドから抜け出して、支度を済ませる。
 リディアが住んでいる家は入り組んだ路地裏。日中でもめったに人が通らない。道があるのかさえわからないような、人が住んでいるのかさえわからないような、そんな辺鄙な場所にあるのでガラの悪い連中もいない。
 そして、これは悪党にとって重要なことだ。どこからともなく現れて、どこからともなく去っていく。姿を隠すには絶好の穴場だった。
「ふう……体、重い……」
 なんとか通い慣れた抜け道を抜けて、市場に近くに出た。そのリディアの右手は、今回の発明品であるカプセルボールが握られている。
 目標は人が多い市場。食材を覆うように天幕が張られているが、大勢の人が避難できるスペースはない。成功を確信したリディアは、込み上げてくる笑いに肩を震わせた。
「さすが、私ね。く、ふふふっ……あーっはっはっは」
「あれ? リディアちゃん?」
 リディアの耳に、聞きなれた声が届く。このゆるゆるとした独特な声の持ち主は、ひとりしか知らない。ギギギギ……とオイルをさしていない絡繰り人形のようにぎこちなく振り返った。
 ヒーローは何を考えてるかわからない胡散臭い笑顔でリディアに近づいていく。
「な、なんでアナタが、ここに……?」
「なんでって、買い物だよ?」
 それはそうだ。ここは市場なのだから。
 熱のせいでぼんやりしているせいか、当たり前のことを聞いてしまって恥ずかしくなった。羞恥を隠そうと、髪をパサリと振り払って虚勢を張る。
「ふん、アナタも買い物したりするのね。いつも神出鬼没だから、人間じゃないかと思ってたわ」
「神出鬼没ね、それはお互いさまじゃないかな。……それより、リディアちゃん。その右手に握っているモノは、なぁに?」
「ッこれは、あの……。あー、アレよ!」
意味を成さない言葉で誤魔化して、サッと後ろに隠そうと腕を動かしたその時だ。熱のせいで上手く握力のコントロールができずに、黒いグローブに包まれた手のひらからツルリとボールが飛び出していった。
「あ……っ!」
 しまった……ッ、と冷汗が背筋を流れる。
 パリンッとそれは砕け、もくもくと煙が上がっていく。無意識にそこへ手を伸ばした瞬間、その腕を強い力で引っ張られた。
「うきゅッ!?」
 突然、体を襲った衝撃と目の前に広がった真っ白な視界に、リディアの口から恥ずかしい奇声が零れる。
「リディア、アレは?」
 上から降ってきた声にリディアが顔を上げた。間近にヒーローの顔があり、呼吸をも忘れる。
「ん、え……?」
 サファイアブルーの瞳がこんなにも近くにある。そして腰に巻き付くような暖かい感触があり、下を向けばヒーローが着ている白いシャツが目に入る。
 抱きしめられていると認識した途端、ぶわりと噴火しそうなほど熱が上がった。その様に気づかないヒーローは、ほんの少し声を低くした。
「聞こえなかったのか? アレ、何?」
 ピリッとした空気をようやく感じ取ったリディアが慌てて再び見上げると、ヒーローは若干目を細めて不機嫌そうにしていた。
 こんな顔をするなんて知らなかった。これが、あの無気力ヒーローなのか。
 恐怖を振り切るように、おずおずと口を開いた。
「あのねっ! アレは雨を……」
 言い終わる前に突如強い雨が、ザアアァァァッとふたりを襲う。
 激しい雨音に混じって市場にいた人々の悲鳴が聞こえてきた。急いで建物や天幕の小さなスペースに向かう足音もする。
「ああ……、わかった」
 状況が理解できたヒーローは、 腰に回した腕の力を少し緩める。 突然の豪雨によって張り付く髪が鬱陶しくなったのか、腰から片手を外して色の濃くなったグレーの前髪を掻き上げた。
 色を纏った仕草に、リディアの喉の奥がひゅっと鳴った。いやいや、顔がとても整っているから様になってるだけだ、とリディアは落ち着くために深呼吸をする。
 その行為を無駄にするように、ヒーローはリディアの耳に唇を近づけた。
「有害なモノじゃないよね?」
 鋭利な刃物のような声に、ぞくっと肌を粟立たせる。本当に刃物でシュッと切られているみたいだ。
「あのっ、えっと……普通の雨よ!」
「そっかぁ……。ビックリさせないでよ。慌てて距離を取っちゃったじゃん」
 さっきまで細められていた目が元に戻り、ヒーローはホッとした表情を浮かべた。
 それは、つまり……。
「私を、守ってくれたの……?」
「……あれ、なんか体熱いね?」
 微笑んだヒーローは問いには答えない。
 先ほどとは打って変わって、甘さを含んだ気だるげな声色がリディアの耳を侵食する。いくら雨音が激しいとはいえ、この距離でのそれは、リディアにとっては毒のようだった。
「ひっ……」
 それに気を取られていたリディアがハッとした瞬間には、額同士が触れ合っていた。目を丸くさせた自分が、サファイアブルーの瞳に映りこむ。
「この、おバカ! 熱あるじゃないか!」
 口をパクパクとさせていたリディアは、怒鳴られて肩をすぼめた。
「だって……」
「だってじゃない! っはぁ……」
 重いため息を吐いたヒーローは徐にジャケットを脱いで、唇を尖らせているリディアにそれを被せた。思いがけないヒーローの行動に目を見張っていると視界がぐらりと揺らぐ。
「え、あ……ッ!?」
「首に腕回して」
 突然足元を掬われてバランスを崩す。とっさに言われた通り、首の根元にしがみついた。
 これは俗にいう、お姫様抱っこだ。
「ちょっと! やだ、なに!? 降ろしなさいよッ!」
「煩いなぁ、叫ばないで。ちゅーするよ?」
「ひ……ッ」
 悲鳴を飲み込んだリディアを確認して、満足そうに微笑む。そして、リディアを抱えたまま走り出した。
「ねぇ! どこに向かってるの?」
「君の家」
 どうして知っているのだろうか。その疑問の答えは知らない方がいいのかもしれない。
 そして、ついにリディアの家に辿り着く。
「リディアちゃん、着いたよ。すぐにお風呂入って、暖かくして休むこと。いい?」
 リディアを降ろしたヒーローは、まるで世話好きのママのようだ。風邪をひいていることもあってか、少し切なくて恋しくて寂しくなる。
「……ありがとう。その、お礼にお湯貸すわよ?」
「ふっ。大胆だねぇ。それって一緒にお風呂ってこと?」
「〜〜〜っ!」
 そういうつもりではない。ただ、もう少し、ほんの少し一緒にいて欲しかっただけだ。
「最っ低ー! ばか、もう知らない! 勝手に風邪ひけばいいわッ!!」
 デコルテまで赤く染め上げたリディアはバタンッと勢い良く家に入る。そのままの勢いで、お風呂に直行していった。
 全部だ。全部、熱のせいだ。見惚れてしまったのも、声をかけてしまったのも、熱のせい。そうに違いない。


「……横乳、柔らかかったなぁ」
 外に残された無気力ヒーローは彼女の横乳を触った手をワキワキさせながら、濡れた服を着替えるために一度帰路に着くのだった。