動き始めた歯車

「リディア、……何かあった?」
 親友であるマリーからのひと言で、リディアは頬張ろうとしていたステーキを寸前で止める。
 やっぱりマリーには敵わない。私のしていることを知っている彼女には黙っていられないな、と息を短く吐いた。おそらく唇はいびつな形に歪んでいるに違いない。
 カチャッと静かにフォークを置いて、黙って答えを待っている親友に目を向けた。


 若い世代に大人気だというステーキハウス。ふたりで会う日程を決めた直後、真っ先に予約しておいて正解だった。店内はとても混みあっていて、ガヤガヤと楽しそうなざわめきが絶えず流れていた。
 マリーとの食事と、おいしいステーキに気分は上々のはず。だが、その前にあった出来事によって、リディアの気持ちは沈んでしまっていた。
 それもこれも全部アイツのせいだ、と白い皿に乗ったステーキを切りきざむ。ポイッと口に放りこめば、柔らかい肉から染みでてくる肉汁に頬がほころんだ。あっという間に口腔から消えていった肉が恋しくて、次の塊を摂取しようとした時だった。マリーが核心をついてきたのは。
「少し、モヤモヤしてることがあって……。ね、聞いてくれる?」
「ふふ、何言ってるの。もちろんよ!」
 ニッと不敵に笑った彼女は本当に頼りになる親友だ。たまにしか会えなくても、私の変化に気づいてくれる。
 マリーという唯一無二の存在に感謝しながら、私は言葉をそっと紡いでいった。
「ありがとう。……さっき、私たちがお店に入る時、お会計をしていた男の人がふたりいたでしょう?」
「ん……ああ、いたね」
 マリーが彷徨うように宙を見上げ、それからコクリと頷いた。覚えていてくれたなら話は早い。リディアは汗をかいたグラスを取り、ほんの少しだけアイスティーを流し込んだ。喉がひやりと冷たくなって、声が出やすくなる。思いのほか、緊張で体温が上がっていたらしい。
 溜まっていた熱を散らすように深呼吸をした。


 マリーと入店した時、既にヒーローはそこにいた。食事を終え、帰るところなのだろう。彼の友人と思わしき人物と共に、財布を片手にカウンターに立っている。
 まずい、と焦ったリディアはそっとマリーの後ろへ立ち位置を変える。
 きっと、それがいけなかった。
「ん?」
 不自然な動きをしたリディアに、本職の血が騒いだのかもしれない。特徴的なグレーの髪をふわりと揺らしながら、こちらを振り返った。バチッと音がするのではないか、というほど目がぴったりと合ってしまう。
 リディアはすぐさま、下を向いて顔を隠した。視線が絡まっていたのは、ほんの一瞬だ。そのはずだったにもかかわらず、体感としては数十秒も経っていた気がした。心臓が早鐘を打つ。
「……っ」
 溜まっているわけでもないのに、ゴクリと唾液を飲みこむ。早く案内されたい、とマリーの服の端を掴んだ。
 やがて会計処理を終えたスタッフが詫びながら、リディアたちを席へと誘導を始めた。リディアは胸を撫でおろして、その後についていく。もちろん顔を隠しつつだ。狭い出入り口を互いに譲るようにして、出ていく者と入る者がすれ違った。
 大丈夫だ。あの時は仮面をつけているから、きっとわからないはずだ。
 そう自分に言い聞かせて、案内されるがままに歩みを進める。背中にジリジリとした視線を感じたのは気のせいだろう。
 何事もなく過ぎ去った難にひと安心。だが、それと同時に何かが引っかかった。心にちくりと棘が刺さったようだった。


 そこであったことを語ると、マリーは眉をひそめた。
「そっか、あの人が例の……」
 厄介な好敵手がいる、とはマリーには話してあった。彼女はヒーローの姿を見たことがなかったため、そういう反応になるのは仕方ない。
 リディアがうんうんと頷いていると、マリーは本題を突いてきた。
「で、何にモヤモヤしているのよ?」
「……っと、それは……」
「言葉が変でもいいから、話してみなさい」
 姉御肌なマリーはきつい言い方が玉に瑕だけれども、本当に優しい。胸がじんわりとしてきたリディアは、ぽつりぽつりと想いを言葉に乗せた。
「……たぶん、アイツは私に気づいている。すごく視線を感じたもの。……でもそうなると、なんで私を捕まえなかったの……。やっぱり気づかなかったのかもしれない……、そう思うと、なんだか……」
 そう。なんだか、寂しかった。
 その気持ちに気づくと、心にかかっていた霧がパッと散ったように晴れやかになった。同時に顔つきも変わったのだろう。マリーは優しげに微笑んでいた。
 どうやらマリーは話している途中で、リディアの気持ちがわかっていたらしい。
「……ったく、世話の焼ける親友だこと。ま、仕方ないか。初恋だもんね」
「は、はつこいッ!?」
 破壊力のある単語に声が裏返る。恋なんてものではない、と否定にかかるが、マリーはそれを軽くあしらった。
「ただ、ほんの少し、寂しかっただけなのに……」
「バカね、それが恋なのよ。……それにしても、難儀な人を好きになったわねぇ……」
 それでどうするの、と彼女は話の続きを催促した。


 トン、トン、と腕を組んで指先を遊ばせる。リディアはずっとその動作を繰り返していた。
 まるで待ち合わせに来ない待ち人を待っているかのようだ。街のシンボルである、偉人の銅像の前に仁王立ちでいるのだから。しかし、そんな可愛らしいものではない、と黒い勝負服を纏ったリディアは鼻を鳴らした。
 コツコツとゆったりとした足取りで向かってくる男を、仮面の下から睨みつける。
「そんなに睨まないでよ、リディアちゃん。……ずっとここから動かないから何とかしてくれって要請されて来たんだけど……、今日は何を?」
「ふんっ……アナタを待っていたのよ! 私と一緒に来なさい!」
「うん? わかった」
 悪者らしくビシッと指をさして強要すると、穏やかな返事が返ってくる。あまりにものんびりとしていて、こちらの毒気が抜かれそうだ。引きずられるな、と漆黒のロンググローブにつつまれた手をきつく握った。
 街角を抜け、リディアのテリトリーである裏路地を進んでいく。ヒールを高らかに鳴らしながら、傲慢に見えるように。もちろん後ろを歩くヒーローには、十分警戒をしていた。背中を見せるのは不本意だけれども、これは逃げではないから、と妥協する。
「ねぇ、どこまで行くの?」
 ヒーローの声が薄暗い通路に反響した。コンクリートに囲まれたそこは少しの音量でも、大きく聞こえてしまう。
「そうね。……ここら辺でいいかしら」
 野良猫すらいないここなら声が響き渡っても、誰にも聞こえることはない。足を止めてヒーローへと向き直った。跳ね上がる心臓を抑えるように深呼吸して、キョトンとした彼に疑問を投げつける。
「あの時、……私だと、わからなかったの……?」
「え? なんのこと?」
 ああ、やっぱりそうか、とホッとした瞬間、また彼の唇が動く。妖しく弧を描いていくのが、薄い暗闇でもはっきりと見えた。
「なんて、ウソ。もしかして気にしてた?」
 ドクリ、とひときわ強く鼓動した。心臓は忙しなく動き続けているのに、全身から血の気がなくなっていく。頭の中は真っ白になり、唇からは掠れた息が零れ落ちるばかりだ。
 リディアの反応に気をよくしたヒーローが、口に手を当ててくすくすと笑っている。そして一歩足を踏み出した。その音が大きく響き、リディアの鼓膜を刺激した。
「……っ」
 弾かれるようにして、リディアは一歩下がる。だが空いた分の距離はすぐに詰められた。ジリジリとした攻防戦の中、ヒーローの楽しげな声がリディアを精神的に追いつめていった。
「ふふっ……知らないフリされて、傷ついた?」
「ッ違う!!」
「図星指されたからって、そんなに必死に否定しちゃって……。かわいいなぁ」
 どうして、この男はわかってしまうんだろう。
 どうして、この男には勝てないんだろう。
 悔しさに唇を噛みしめる。涙は流さない。泣くもんか、と俯いて目に力を入れていると、ふと頭上が濃い闇に覆われた。
 気がつけば、ヒーローが密着しそうな距離まで近づいていた。
「やだ……っ!」
 言いたいことがあるのに、言葉が上手くまとまらない。ゆっくりと伸びてくる手にも抵抗できず、クッと顎を掴まれた。男の親指が唇に当てられる。
「んぅっ!?」
 身を引こうにも、もう遅い。いつの間にか程よく筋肉のついた腕が、腰に回っていて身動きができなくなっている。
「おバカな君にも、わかるように説明してあげる」
 私はバカじゃない、と言い返そうにも、唇を開けば指が入ってきそうだ。ぐっと引き結んで、間近にあるアイスブルーの瞳を睨みつける。それをヒーローは鼻で笑った。
「……あの時、お互いに連れがいたよね。知り合いだとバレたら、少なくとも僕の連れには根ほり葉ほり聞かれるよ。……表情も言葉も素直な君のこのお口は、堂々と嘘がつけると本気で思ってる?」
「んんっ!」
 ふにふにとした感触を味わうかのように、唇をつつかれる。きっと、こうしてなじっていけば、陥落すると思っているのだろう。それが無性に腹が立って仕方ない。
 リディアは口を大きく開け、無粋な親指に噛みついた。
「つッ……!」
 痛みを堪えた小さなうめき声と、僅かに歪んだ表情に少し心がスッとする。
 けれども、すぐに彼の薄い唇は緩やかなカーブを描いた。それを見た瞬間、ゾクゾクした何かが背筋を這う。
「ふっ……。ホント、負けん気だけは強いよなぁ」
 緩まない歯を強行突破するように、親指が奥に食いこんだ。予想もしなかった展開に心が追いつかない。
「俺に噛みつくなんて……ナマイキ」
「ふっ!?」
 やや伸びた爪に、カリッと舌を引っ掻かれた。それは不思議な感覚をリディアに伝えてくる。不快ではない。どこか気持ちいいような、背徳的な感覚。
 初めてのことに呆然としてるリディアを尻目にあっさりと口から引き抜き、唾液で濡れた指をペロリと舐めた。
「……今日は何もしなさそうだし、帰るね」
 ゆっくりと屈んだヒーローは、もっと俺でいっぱいになるといいよ、と耳に直接低い声を吹きかけてきた。声の振動がビリビリと脳へと伝わり、またあの不思議な感覚に襲われる。なぜか顔に血液が溜まっていそうで、仮面をつけていてよかった、と頭の片隅で安堵した。
 こんな真っ赤になった顔は見られたくはない。
「またね、リディアちゃん……」
 ヒーローがゆったりとした歩調で通ってきた道を戻っていく。
 リディアは彼の足音が消えるまで、そこに立ち竦むことしかできなかった。


「何あれ。……反則でしょ」
 裏路地から出た無気力ヒーローは赤くなった顔をしかめながら、人に見られないように細い道を選んで帰っていった。


 果たして、この攻防戦はいったいいつまで続くのだろうか――。