冷ややかな温もり


目を覚ましたのは昼過ぎの事だった。
電気が消された薄暗い部屋。カーテンの隙間から差し込む光がほんの少し眩くて。避けるように寝返りをうった月詠は、誰かの気配を感じ取って薄らと瞼を開けた。
耳にはぱたんと扉を閉める小さな音。ぼんやりと霞がかった視界の端に映った人影はゆらりと動き、ゆっくりと彼女の傍へ近付く。何度かぱちぱちと瞬きをして、ようやくクリアになった目前には、見慣れたグレーのパーカー。
働かない思考のまま、その人影を辿ってゆっくりと視線を上げていけば、ここにいるはずのない少年の顔が映り込む。彼女の瞳の中の自分を見て、柔らかい笑みを浮かべた少年は、いつもより少し抑えた優しい声音でベッド上の彼女に語りかける。

「起こしちゃった?具合はどう?」
「フロイ?何でここに…」

彼の表情を暫く見つめているうちに段々と意識がハッキリしてきた月詠は、大きな瞳を丸めたあと、眉根を寄せて怪訝な面持ちを浮べる。
熱い息を零しながら状態を起こそうとする彼女に「いいからいいから」と軽く笑い飛ばしたフロイは、起き上がりかけた月詠の体を抑え、再びベッドの上に寝かせる。抵抗しようとはしたものの、力の入らない体は彼の意志に従うようにして、自然とベッドへ身を沈めてしまう。
少々苦しそうにしながらもこちらを見上げる月詠の姿に、眉尻を下げながら物憂げな笑みを零したフロイは、彼女の頬にそっと手を伸ばす。
ぴたり、と片頬に添えられた彼の手は氷のように冷たくひんやりとしていて、思わず声が漏れる。

「つめた、い」
「さっきまで外にいたからかな。寒くない?」
「ん………」

その冷たさがじわじわと身体にこもった熱を吸収して逃がしていく。
少しの心地良さを感じながら、月詠は気持ちよさそうに目を細めた。まるで頭を撫でられた動物のような愛くるしい仕草に、見開いた目をすぐに和らげたフロイは、そのまま頬を撫でながら、手のひらをするっと額へ移す。
熱を持ったそこは数十分も前、彼女が熱を発症した時よりかは少しだけ良くはなっていたが、それでもまだ熱く。
ゆっくりとベッドの端に腰掛ければ、ほんの少しだけ揺れた彼女の身体。額に添えた手を、今度は頭に移し、そのまま何度も優しい手付きで撫でつける。行き来を繰り返す度、指先に絡まるくすんだピンク色の髪にさえ、愛しさを覚えながらフロイはその手を頬へと戻した。

「いつもなら寒いからって僕の手も払い除けちゃうのにね」

にこにこと嬉しそうに笑みを称えるフロイにそう言われ、そこで月詠はハッと気付いた。こんな至近距離で触れていては熱が移ってしまう。
彼も、幼い頃は今の自分の様に身体が弱かった。今でこそサッカーをやることによって丈夫になっているとはいえ、熱が移らないとは限らない。それを知っていた月詠は、気怠さの残る身体を動かし、彼の手から逃げるように寝返りを打つ。
触れられていた頬が温もりを取り戻すと同時に、彼の手の冷たさを追いやり少しの寂しさを覚えつつも、そのまま毛布を鼻下まで引っ張りあげて隠れるようにすれば、フロイは目をぱちくりと瞬かせる。
もちろん、月詠からはそんな彼の様子など見えるはずもなく、背を向けたままくぐもった声を上げた。

「フロイ、もう大丈夫だから。外に出て。熱が移る」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないでしょ」

少しキツく言ってしまっただろうか。
いやしかし、彼はこれくらい言わないと引きはしない。それは普段の経験からでもよく分かっていた。
彼だってさほど身体が強いわけでは無いはず。今はそれも分からないほど元気ではあるが、だからといって本質は変わっているわけではなく油断はできない。

「誰も部屋に入れないでって言ったのに…」
「そんな事言わないでよ。僕も兄さんもすごく心配してるんだから、少しくらいユイの姿を見て安心してもいいだろう?」

ちらりと横目でフロイの顔色を伺う月詠。
彼の目線は相も変わらず、彼女を捉えて離れない。一度逃げられてしまったが、再度手を伸ばしたフロイは、彼女の額に触れる。
少し汗ばんだそこは熱を保ったままで、体温が下がる気配はない。正確にどれほどの熱を出しているのかは彼も詳しくは知らないが、見ているだけで苦しいのだろうなということだけは理解ができた。
最近の彼女は頑張っていた。寧ろ、頑張りすぎていたくらいだった。久し振りだといっても慣れない環境で学校に勉強にサッカーに、と励む彼女を見ていたフロイは思った。これが無理が祟ったというやつだろう、と。彼がそれを止めなかったのは、そんな彼女の顔がどこか活き活きとしているように見えたからだ。
その様を思い出しながら彼女へと顔を向ければ、月詠は少しばかり不機嫌そうな様子で、額に添えた手もすぐに払われてしまった。触るなということなのだろう。フロイは大人しく手を引くと困ったように微笑んだ。

「…ていうのは違うか。もちろん今言ったことは全部本心だけれど、兄さんには入っちゃ駄目だって止められてる」

ナイショね、と弧を描いた唇に人差し指を立てるフロイ。彼の言うことが本当なのであれば、彼は今、叱られるのを覚悟の上でこの部屋にいるということだ。
だったら尚更、早く追い出さなくては。そう思い開きかけた唇はすぐに閉じられる。何かを言ったところで今の彼が大人しく頷くとは到底思えない。バレなければ平気だと安心させるように笑うのだろう。
どうしたものかと考えあぐねていると、いつもよりワントーン低いフロイの声が静かな空間に落とされる。

「僕ね、熱を出した日に一人になるの嫌だったんだ」

遠くを見つめるフロイの瞳には、幼い日の光景が映る。身体が小さく弱かった、まだ父が生きていた頃の記憶。

「何でだろうね。いつもよりずっと不安で、寂しくて、 恐くて…もしユイが今、そう感じていたら嫌だから」

月詠はまるで心を見透かされていたかのような、そんな気分に陥る。
幼き日の彼だって何度もこうして熱を出し、床に伏していた。しかし、父も兄も多忙で頻繁に家を空けていた。そして母も─────。
彼の元を訪れるのは、彼の看病を任された使用人だけ。父も兄も心配してくれている、忙しくて来れないだけ。そう頭では理解していたけれど、熱のせいだからなのだろうか。その感情が上手く制御できなくて、一人の時間がいつもよりも怖く思えた。苦しくて、涙が滲むほど辛くて、不安だった。
それでも、大好きな人達はずっと傍にいてくれない。
フロイは誰よりもそれを感じてきた。そして、彼女もまた同じだった。

「……ありがとう」

震える声で告げられた言葉に目を瞠ったフロイだったが、すぐに「どういたしまして」と微笑みかける。
再び伸びてきた手を今度は払わずに受け入れれば、彼の大きな右手が頬に添えられる。彼女の目尻にうっすらと溜まった雫を親指で拭い去ると、そっと顔を近づけた。
反射的にきゅっと目を瞑った月詠は、こつんと額に何かが当たるのを感じる。やがてゆっくり目を開けば、視界いっぱいに広がった端正な顔立ち。
思わず動揺してしまいそうになり、声を上げようにも言葉が喉奥に詰まったかのように舌に乗ることは無く、そのままこくりと飲み込んでしまった。
数秒して、ようやく取り込まれた空気と同時に口を開く。

「フロイ、ちか───」

近い、そう言おうとしたところで、その声は段々と萎んでいくように小さくなっていった。
伏せられた瞼の奥にゆらめくアイスブルーは、冷たい色の中に確かな温もりを孕んでいる。雪を被ったかのような白く長い睫毛が影を落とし、酷く綺麗で、気を抜けば意識を持っていかれてしまいそうだとぼんやり思う。

「兄さんがたまにね、僕にやってくれたんだ。こうして、早く治りますようにってお願いするんだよ」

低く囁かれるような優しい声に月詠は目を細める。何故だかとても落ち着くのは気のせいではないのだろう。
頭を優しく撫でられて段々と微睡んでいくのが分かった月詠だったが、寝てしまっては駄目だと心の中で必死に言い聞かせる。
そんな彼女の思いとは裏腹に、月詠の頭を優しく撫でるフロイの手付きはまるで幼子をあやすかのようで、眠気を誘ってくる。

「治ったらまたみんなでサッカーしようね」

朧気な意識の中、その言葉に小さく頷いた月詠は、襲い来る睡魔に逆らうことなく再びそっと瞼をおろした。