白い記憶
どんよりとした曇り空。ふわりと舞い落ちる欠片のような雪を眺めていたフロイは、白い息を吐き出した。
なんとなしに手のひらを広げて雪を待てば、手のひらに舞い降りた雪は、彼の体温によって音も立てずに溶けていく。何度かそれを見届けた後、厚着していてもなお感じる肌寒さに、少しだけ身震いして両腕をさする。
そろそろ部屋に戻るべきだろうか、そう思いながらも再び鼠色の空を見上げた。
「風邪引くから」
その時、聞き慣れた声がして、身体が何か暖かいものに包まれた。振り返ったフロイは、まじまじと目の前の少女の姿を見つめる。積もった雪のおかげで足音が吸収されてしまい、気配に気付けなかった。
驚きを隠せていない彼の表情に、ロ元を緩めておかしそうに笑った月詠は、彼の肩にかけたチェック柄のブランケットから手を離す。
寒がりな月詠がフロイよりも薄着なのは、恐らく長居をするつもりがないという意思表示なのだろう。普段なら決して外には出ない、遊びに行こうと誘っても断られる、寒い冬の日だというのに、彼のこととなるとまたわけが違うのか。
何とも彼女らし行動にフロイは、ブランケットを片手で抑えると、もう片方の手で月詠の右頬に優しく触れた。寒空の下に立っていたためか、凍ってしまいそうな程に冷えた手は、彼女の体温によってゆっくりではあるがじわじわと温もりを帯び始める。
一方、月詠の頬はからは徐々に温もりが奪われていく。ぴくりと小さく肩を跳ねさせた月詠は、きゅっと固く目を瞑った。恐らく、彼の冷え切った手の冷たさに耐えているのだろう。いつものように振り払ってくれても構わないのに、とフロイもまた彼女の姿を見て微かに笑みを零した。
「寒くないの?」
「死ぬほど寒い」
何年も空白の時間があったとはいえど、彼女と過ごした約二年の時間を決して忘れたことはない。
フロイは彼女が極度の寒がりで冬という季節を一番苦手としていることを知っていた。だからこそ、彼女の答えは分かりきっていものだったが、相変わらず大袈裟に答える月詠に今度は苦笑が零れる。もちろん彼女からすると大袈裟ではないのだが。
薄着とはいえど、中には何枚か着込んでいるだろうに、彼女の身体は小刻みに震え続けている。風邪を引くと言ってブランケットをかけてくれた月詠だが、フロイからすると彼女の方が見るからに風邪を引いてしまいそうで、肩にかけられたブランケットを一瞬返そうかとも迷ったがやめておいた。
寒い中、わざわざ外に出てきてまで自分の心配をしてかけてくれたそれを簡単には返せない。それにきっと、彼女が許してくれないだろう。
「ユイの方が風邪引いちゃうよ」
「じゃあ私が風邪を引かないように大人しく中に入って」
確かにそうするべきだ、とフロイは納得する。
ここは彼女が風邪を引いてしまわないように大人しく中に入ろう。本当はもう少しだけこの景色を眺めていたい気持ちはあるけれど、それを抑え、家の中へと歩みを進める彼女の後ろを追いかける
ざく、ざく、と一定のリズムを刻みながら雪を踏み締める二人の小さいな足音が耳に届く。隣に立ち並んだフロイを横目に、月詠は「スビテンも用意してるから」と伝える。
冷えた身体を温めるにはピッタリな代物にフロイは、嬉しそうに笑いながら「ほんと?」と尋ね返すも、ふと何かに気づいたかのように質問を変えた。
「誰が用意したの?」
「私だけど………」
「使用人か誰かに任せればいいのに」
使用人とは、この屋敷で働くメイドや執事を指している。幼少期から身の回りの事ほとんどを家族からというよりも、使用人達によってお世話をされてきたフロイにとってはそれが当たり前だった。
しかし、生まれも育ちも一般的な月詠にとっては、そもそも使用人がいること自体が珍しい。そのうえ、生まれ育った環境も相まって誰かに世話を焼かれた記憶は、無いにも等しかった。そんな彼女が使用人に何かを頼めるはずもなく、使用人のいる生活に慣れないまま、相変わらず自分で出来る範囲のことは自分で片してしまっていた。
明らかに裕福でいい暮らしというものを体験しているのだろうが、どうやら彼女にはあまり合わないように見える。
「自分でやった方が楽」
「やっぱりユイって変わってるよね」
誰だって普通は憧れるものじゃないのか。幼少期から世話をされてきたフロイにこれといった憧れはないが、一般的に見ると自分の立っている状況は羨ましい、と呼ばれるものに値することを彼は理解していた。父の仕事柄、貧しい子供達の事を実際にとまではいかないが映像で見てきたフロイは、身に染みるほどにその事をよく分かっている。
けれど、彼女はやはり違った。彼女の答えはフロイの想像する普通をいつも覆す。大きな家に住もうが、使用人がいようがどうでもいいのだろう。寧ろ、好ましい方ではないのかもしれない。彼女はただ普通にしていられれば他に頓着することは何も無いのだと、月詠の性格をよく知るフロイはそう思う。
もう少し欲を持ってもいいと思うが、それでもフロイは月詠のそういう性格に少なからず惹かれた部分はあった。だからこそ、口にはしない。
そうこうして、会話を交わしながら庭に面する廊下へ足を踏み入れる。そこで、フロイは突然足を止めると、なんの素振りもなく後ろを振り返った。
一面に広がる雪景色は、仲良くなった彼女と初めて見たロシアの景色。眺めることがほとんどで、雪の中へ出ては元気に遊ぶことなどなかったが、何年も経った今でも変わらない雪景色に不思議と魅入ってしまう。
一歩前に立つ月詠は、そんなフロイの様子に気付き「フロイ?」と彼の名前を怪訝そうに呼んだ。彼女の声にぴくっと反応を見せたフロイは、雪と彼女を見比べるよう交互に目をやると、やがて口元に綺麗な三日月を描いた。
「ねぇ、ユイ」
「なに?」
唐突に名前を呼ばれて何事かと首を傾げながら聞き返した途端、フロイは月詠の手首を掴んだ。
少し強めに彼女の身体を引き寄せる。ぐいっと身体が引っ張られる感覚がして、彼女の身体は簡単に揺れ動いた。
「ちょっ…!?」
珍しく、彼女にしては大きめの声が上がる。
驚いた様子で目を見開く月詠の身体は、重力に従って、フロイの立つ方へと倒れていく。衝撃に備えるように目を瞑ると、暗闇の中で額に硬い感触を感じた。
ぽすっと彼の胸の中に収まった月詠が温もりを感じていたのもつかの間、まるでドミノ倒しのように今度は彼女を受け止めたフロイの身体が後ろへと傾いた。
倒れる。フロイは月詠の身体を強く強く抱き込むと、背中から降り積もった雪の中にダイブした。音もなく二人を受け止めた雪は、衝撃を吸収して二人の身体を綺麗に象る。
二人して──と言うよりもほとんどフロイだけではあるが──雪の上へと寝そべれば、フロイは曇り空に向かっておかしそうに笑い始めた。先程、珍しく大きな声を上げた彼女と同様に、珍しく彼が大笑いする声が静かな情景に溶け込んでゆく。
やがて、冷たい空気と雪の感触を背中に感じながら、「大丈夫?」と胸元に倒れた月詠を見下ろせば、彼女は少し不機嫌そうな表情でじとりとフロイを見上げた。その様子さえもまたおかしく思え、彼の口元からくすりと笑みが零れる。
「どう?久しぶりのロシアの雪は」
「…答える前に早く部屋に戻りたい」
悪びれる様子もなく尋ねてくる彼だが、今はそれどころではない。
雪は溶ければ水になる。つまり、ほとんど水に浸かっていると言っても過言ではない状態で、二人の体温により溶けだす雪は、衣服に吸収されていく。雪の冷たさをほとんど直接的に素肌に感じたといっても間違いではなく、濡れた服の感触にぶわりと鳥肌が立ってしまう。
震えた声で早く戻りたい、と返した月詠の顔は僅かに青ざめていた。身体は変わらず小刻みにしえており、今すぐにでも走って暖かいはずの部屋へと戻ってしまいたいという気持ちは大いにあったが、あまりの寒さでうまく走れる気はしない。
反面でフロイは、多少なりとも慣れている部分があるのだろう。寒さに強いわけではないが、それでも産まれた時からずっとロシアの冬を味わってきていた。寒がった様子は一つも見せず、寒さで動けない月詠を前に、ただただ楽しそうに笑っている。
「フロイは寒くないの」
「うーん、そうだね……寒いけど、ユイといるから昔ほどは寒くないよ」
恨めしそうに尋ねれば、少し悩んだフロイからはそんな答えが返ってきた。
人が一人や二人増えた所で、寒暖差は変わらない。月詠は「どういう意味?」と彼の言葉の意味を理解できずに尋ねる。フロイは小首を傾げて疑問符ばかりを浮かべる彼女に「そのままの意味だよ」とだけ答えると、ゆっくり立ち上がった。
そのままの意味だと言われてもやはり分からないものは分からない。質問の回答とも呼べない回答を聞いた月詠は、更に頭上へ疑問符を浮かべた。
彼はその様子を見ているのにも関わらず、それ以上ヒントを与えるでもなく、結局答えは有耶無耶にされてしまったようだ。
月詠からの視線を受けながら、雪を振り払うようにパッパッと身体をはたくフロイは、未だに座り込んだままの月詠へと手を差し出した。
「やっぱり寒いし、早く戻ろっか」
にこりと笑う。まず初めに寒い中で彼女を引き止めたのは彼だと言うのに、なんともマイペースと言うべきか。差し出された手のひらを見つめた月詠は、彼のマイペースさに嫌な顔一つするどころか、眉尻を下げて呆れたように微笑んだ。
手のひらが重なる。握られたそこは、冬だというのに、雪さえすぐに溶かしてしまいそうなほどの温もりを孕んでいた。