You're insane.


アジア予選第二試合が無事に幕を下ろしたその翌朝。

「おはようございます」

まるで何事もなかったかのように笑顔で挨拶をかわしてくる少女に、選手達は警戒の色を強めた。
昨日の一件から一星と月詠は、当然も当然だが完全に孤立していた。朝食の時間も練習の時間も、常に一人で行動し、そこへ周囲の視線が向けられる。遠巻きにも注目を浴びる一方で、二人はまるで何も無かったかのようにいつも通り各々の時間を過ごした。

そうして練習を終えた選手達が、思い思いの自由時間を過ごす中、一星は宿舎近くの湖畔に足を運んでいた。その寂しげな背中を遠くの看板に隠れて見ていた大谷は眉尻を下げながらぼやいた。

「何だか寂しそう……」
「同情してどうする!スパイかもしれないんだぞ!」

共に一星を監視していた剛陣からの厳しい言葉が飛んできてもなお、大谷は釈然としない様子で再び一星の背中へ目線をやった。
そんな二人の反対側で、一星を覗き見ていた稲森の脳裏に更衣室での出来事が蘇り、何も言えないまま看板の後ろへ姿を隠した。

「ねえ、あれって……」

ふと、何かに気付いた大谷の声に稲森が反応する。
再び看板の裏から顔を覗かせれば、そこには一星に近付く二人の影。灰崎と吉良だ。
ただならぬ雰囲気を纏う二人の後ろ姿に、稲森は慌てて声を上げた。

「ダメだ!止めないと!」
「私、円堂くんを呼んできます!」

稲森の言葉に頷いた大谷は、急いで来た道を戻るように後ろを振り返ると駆け出した。残された剛陣と稲森は不安な表情で顔を見合わせた。



大谷は急げ急げと辺りをきょろきょろ見渡しながら足を早める。
宿舎まで戻り円堂を探す中で、反対側からゆっくりとした足取りで歩いてくる少女に気がついた。その少女と目が合えば、彼女はにこりと笑いかけてくる。

「お疲れ様です、大谷さん」
「月詠ちゃん…!」

あまりにも変わらない彼女の様子に、大谷は慌てていたせいか否か、彼女が敵であることもすっかり忘れたかの様に月詠へと縋りついた。

「円堂くん知らない!?」
「……ええと、何かあったんですか?」

がしりと肩を掴まれて、以前と変わらぬ姿で話しかけられたせいか、少し目を丸くした月詠は一泊置いて戸惑いながらも尋ね返す。
しかし、大谷はそれに気付かないまま、助けを求めるようにわっ、と声を上げた。

「このままじゃ一星くんが大変なの!」
「みつる、が………?」

ぴくり、月詠の眉尻が小さく跳ねた。
何かを考え込むように黙り込んだ彼女の脳裏には、灰崎と吉良の姿が過ぎる。恐らく、二人は一星が完全に一人になる瞬間を待っていたのだろう。
しかし何故、彼が───。そこまで考えて、意識を目の前の彼女へ戻す。未だ不安そうな表情で、敵に縋る大谷の姿に、月詠は安心させるような微笑みを浮かべた。

「円堂さんなら先程 部屋に戻るところを見ましたよ」
「ホント!?ありがとう、月詠ちゃん!」

これは嘘じゃない、ホント。
円堂の居場所を聞いた大谷の瞳が輝きを取り戻すと、月詠にお礼だけ告げ、忙しなく去っていく。そんな彼女の後ろ姿を見送りながら、月詠は昨日の一件を思い返す。
やはり、あれだけじゃ足りなかったのか。きゅっ、と眉間にシワを作ると月詠は、勢いよく駆け出した。

一方、一星と対峙した灰崎と吉良の目的は案の定、彼の排除だった。もちろんそこには月詠も含まれており、本当であれば彼女の排除を優先するつもりだった。しかし、彼女は何かと隙がなくほとんど自室にこもっている。
そこへ、一星が一人で行動する姿をみかけ、チャンスだと思ったのだった。

「灰崎、やっちまえ!」

灰崎の拳を軽くいなすように避けていた最中、吉良に後ろを取られ羽交い締めにされた一星は動きを封じられてしまう。
頷いた灰崎は、吉良の言葉を合図に力いっぱい拳を振り上げた。向かい来る拳を前に、不敵に口角を釣り上げた一星にも気付かずに。

ガッ、と鈍い音が響いた。
伸ばされた灰崎の拳が一星に届くことはなく、二人の少年の手によって防がれていた。思いもよらぬ状況に、一星の目がじわりと開く。

「灰崎、こんなの俺は納得できない!」
「そうだぞ!つか、昨日お前から食らった一発、まだ痛むんだからな!」

力強い灰崎の拳を二人がかりで抑えながら、稲森と剛陣は彼の行いに抗議する。
しかし、邪魔をされた灰崎の苛立ちは収まらない。二人の手を振り払った灰崎は、目付きを鋭くさせて声を荒らげる。

「テメェはすっこんでろ!コイツらは暴力以上のことをしてんだろうがよォ!」
「灰崎!そんなアマちゃんどもほっといてさっさとやれよ!」

未だ一星を羽交い締めにしたまま、その状況を眺めていた吉良が灰崎を援護するように、二人の背後から言葉を投げかける。
慌てて稲森が振り返り、静止しようと口を開いた時だった。澄んだ声が喧騒の最中に落とされた。

「そんなに殴りたいのなら、私を殴るのはどうですか?」

その場にいた全員の視線が、一気に声のした方向へと向けられる。そこには、柔らかく微笑む月詠が佇んでいた。
いつの間に現れたのか、彼女はゆったりとした様子で灰崎に近付くと、先程振り上げていた彼の手を優しく掴み自身の頬まで誘導した。ひたり、手のひらに冷たくも柔軟な頬の感触が伝わる。突然の出来事に固まる灰崎を前に、月詠は目を細める。

「ほら、殴りたいんですよね?どうぞ、早く」

相も変わらず口角は上がったままで、彼女は催促する。
怖がる様子もなく、喜んで受け入れるという様子の彼女の異様さに周囲は言葉も忘れたかのように黙り込んでしまった。だが、月詠は固まってしまった灰崎を前に更に続ける。

「気が済むまでかまいません。遠慮しないで、顔の形が分からなくなるくない入念に、執拗に、殴ってください」
「な、なに言ってんだ、月詠!ちょっと待───ッ!」

目を伏せながら優しい口調で生々しく語る彼女は、得体の知れない、気持ちの悪い何か。
ハッと我に返ってか咄嗟に彼女を静止するよう声を上げた剛陣だったが、細めた瞼の奥に潜む狂気に捉えられれば、それ以上は何も言えずに再び黙り込んでしまう。背筋を這う彼女の冷たさは、人が生み出せるものじゃない。
あまりの異質さに底知れぬ不快感が込み上げてくるのを感じながら、明らかに戦意を喪失した様子の灰崎は異端な者を見るような目で呟くように言い放つ。

「お前、どっかおかしいんじゃねえか……」

完全にドン引いた様子の灰崎を静かに見つめ、月詠は彼の手からパッと手を離す。力なく彼の元へ戻された手をつまらなそうに見下ろして、今度は一星を羽交い締めにする吉良に目を向けた。

「吉良さんはいいんですか?」
「は?」
「殴らなくてもいいんですか?ほら、灰崎くんの代わりに───……?」

じり、じり。ゆっくりした足取りで距離を縮めてくる月詠に、吉良は警戒心を剥き出しにして身構える。
きっと彼女に実力行使は通用しない。恐らく仕掛けたところで月詠は、泣きも叫びもせず、いつも通りどうとでもないように笑うのだろう。対抗できる術は、ない。その現状を悟った吉良は、迫り来る狂気を前に何もできず息を飲んだ。
しかし、彼女の歩みを止めるように、稲森が彼女の細い腕を掴んだ。

「駄目だ、月詠。それは絶対に駄目だ」

真剣な表情で真っ直ぐと見つめてくる稲森に、足を止めた月詠は、一瞬だけ驚いた表情を見せると、すぐに小首を傾げた。

「なぜ駄目なんですか?」
「なぜって、そんなの​────」
「私は仲間じゃありませんよ、稲森さん」

間違いを正すかのように、優しく言い聞かせる声が、言葉の続きを遮った。
穏やかな表情で突きつけられた言葉は、拒絶。きっと覆ることが無いのだろうと、稲森はなんとなく理解した。瞼の奥の繊月があまりにも危うくて、それでも何とか声を上げようと再び口を開いた稲森だったが、パタパタと駆けてくる足音によって不発に終わった。

「お前達!何やってるんだ!」

大谷から話をききつけ、慌てて出てきたのだろう円堂は、羽交い締めにされた一星に目をやると「大丈夫か?」と声をかける。その隣で大谷も「馬鹿なことしないでください!」と灰崎と吉良に注意を促す。
分が悪くなったのか、注意を受けた二人は顔を見合わせると小さく舌打ちを零した。吉良が渋々一星を突き飛ばすようにして解放すれば、一星は右肩をさすりながら吉良を睨みつけた。

「豪炎寺と鬼道がいない今、みんなの心を一つにする時だろ?」
「その二人をそうしたのはコイツらだろうが!」

落ち着いた声色で灰崎を諭す円堂だが、灰崎は立ち並んだ一星と月詠を指さしながら「コイツらが汚ねえ手を使って……!」と苛立たしげに吐き捨てる。その言葉に月詠は、きょとんとした表情を浮かべる。

「私達は豪炎寺さんには何もしていませんよ?それに鬼道さんの件は、自業自得ですよね?」
「そうですよ。鬼道さんがドーピングに手を染める汚い選手だったからって、僕達に当たらないでくださいよ」

首を傾げて聞き返す月詠に倣ってか、一星も心外だと頷きながら言い返す。
自業自得、汚い選手。強調して告げられた言葉に、灰崎の瞳孔がカッと見開かれる。

「テメェ……!!」
「やめろって!」

今すぐにでも飛びかからんとばかりに身を乗り出した灰崎だったが、傍らに立っていた剛陣が瞬時に彼を羽交い締めにして動きを止める。しかし、当たり前だが灰崎の怒りがおさまったわけではなく、剛陣の腕の中でもがく彼を横目に、月詠はチラリと一星の顔を見上げる。
彼は怒りに震える灰崎には目もくれず、どこか遠くを見つめていた。先程までの事など何も無かったかのように、あまりにも平然とする一星。月詠が彼の横顔に何か言葉を投げかけようと、薄い唇を開いたその時。

「お、おい なんだあれ!?」

何を見たのか、剛陣が一点を見つめながら戸惑いがちに声を上げた。彼の腕から力が抜けた瞬間を見計らい、荒々しく振りほどいた灰崎は「何だよ!」と剛陣を睨みつける。

「あそこでなにか光ったんだ」
「えっ……?どこですか?」

ゆっくりと視線の先へ指をさすと、立派な一眼レフのレンズを選手達に向ける男が茂みの隙間から姿を覗かせていた。男は選手達の視線に気が付くと、慌てた様子で茂みの奥に姿を消してゆく。
恐らく、剛陣が見たという光はカメラのフラッシュだろう。

「そういやコイツら、お前をわざと煽ってたよな」
「テメェら、どこまでゲスな野郎なんだよ…!」

そこで初めて一星の思惑に気付いた灰崎は、眼光を鋭く光らせ歯噛みする。けれど、一星は依然として素知らぬ顔で茂みの奥を見つめていた。

「(……あぁ、だから)」

そんな一星の横顔を一瞥し、月詠は心の内で呟いた。
わざわざ一人で人気のない場所を選び行動していたのは、自らを餌に彼等を誘き寄せるため。わざと挑発し、暴力事件を起こすよう仕向けていた。彼の思惑を今、初めて彼女は理解した。
知らずに間へ入った自らの行動は、結果的に彼へ協力する形となったが、彼の企みを知った今ではいらない世話だったようだ。そう思いながらも月詠は、一星の腫れのない頬に心臓の音が落ち着いていくような、そんな気がしていた。

「はーい、みなさーん!もうすぐ夕食の時間ですよ〜!」

その時、手を叩く音と共に陽気な声が響いた。
どこから現れたのか、一同の視線を集めた趙金雲がなんとも呑気に呼びかければ、「ちょうどいい所に来てくれたぜ」と灰崎が大股で詰め寄る。

「アンタがアイツらを野放しにするって言うんなら、俺達が鬼道に変わって排除するぜ!」
「排除とはまた物騒な事を言いますねぇ」

ずい、と顔を寄せて迫れば、趙金雲は眉尻を下げながら自らの両頬に手を添え「いいですか、灰崎きゅん」と逆に顔を寄せる。

「日本にはこういう言葉があります。疑わしきは罰せず、と!」

人差し指を立てて判決を下した趙金雲に、当たり前だが納得のいかない吉良と灰崎は「はぁ!?」と声を揃えた。

「お二人がまだ悪い人と決まったわけではありませんから、手出しすることも許しませ〜ん」

間延びする声は緊迫感が漂うこの場には、とてもじゃないけれど似つかわしくない。
理由を告げた趙金雲の言葉を最後まで聞くも、やはり釈然とせず。灰崎は、更に抗議を続ける。

「どう見ても裏切り者で確定だろうが!」

荒々しく意義を唱える灰崎の姿を傍観する選手達に紛れて横目に見ていた一星は、小さくほくそ笑むと「監督の話聞いてた?」とそこでようやく口を開いた。

「疑わしきは罰せずだよ、灰崎くん」

弾むような声音で嫌味たらしく再確認させるように伝えられた二度目の言葉に灰崎は、一星を睨みつけながら歯噛みする。
ふとそこで、一星の隣に立つ月詠の姿が視界に入ると、趙金雲へ顔を戻した灰崎は彼女を指差しながらニヤリと笑った。

「じゃあ、あの女はどうなんだよ!アイツは自分がやったって認めてたじゃねえか!」

その言葉に選手達は、ハッとした表情を浮かべて彼女へ振り返る。
そういえばそうだった。彼女は自らの行いを認めて、肯定したのだった。忘れられない衝撃的なカミングアウトは、未だ記憶に新しい。

​───だがその記憶の中に趙金雲はいなかった。
彼はそれが起きるよりも先に、久遠と共に更衣室を後にしていた。だからこそ、彼は知らない。

「そうなんですか、月詠さん?」

ううん、と難しい表情でひと唸りあと、月詠の方へ向き直った趙金雲は問いかける。
向けられた視線に今まで動じた様子を一度も見せなかった月詠の身体がびくりと跳ねる。趙金雲の目を真っ直ぐ見つめ返しながらも、その表情は悲しそうに歪められている。
趙金雲の問いかけを否定するように、緩く首を横へ振った月詠は、恐る恐る小さな唇を開いた。

「いいえ。何かの間違いだと思います」
「はぁ!?嘘こいてんじゃねえよ!」
「嘘じゃありません!監督は信じてくれますよね?」

不安な気持ちを逃がすよう、胸元で掲げられた拳が小さく震えている。
まるで人が変わったかのような態度に気付くのは、最初からその場にいた選手達と大谷のみ。きゅるりと潤んだ瞳を向けられた趙金雲はというと、すぐにいつも通りの変わった笑い声を上げた。

「もちろんですよ〜!大事な選手を信じるのも監督の務めですからね〜!」

彼の答えを聞いて、安心したのか月詠はほっと肩の荷を下ろして「よかった」と微笑んだ。
全くもって話にならない。二人の様子を傍から見ていた灰崎は、これ以上はもう諦めるべきなのだろうと理解したのか悔しげに奥歯を噛み締めると、喉奥から込み上げる言葉を飲み込んだ。

そうして趙金雲の口から解散が告げられると、近付きつつある夕食の時間に向け、ぞろぞろと宿舎へきびすを返し始めた。
しかし月詠は、その歩みを止めるように「吉良さん、灰崎さん」と二人の背中へ呼びかける。他の選手達には気付かれないくらい、それでも確かに聞こえるように呼ばれた名前に二人は同時に足を止める。

「…まだ何かあんのかよ?」
「つか、この状況でよく声かけれんな。マジでイカれてるわ」

くるりと顔だけをこちらに向けた二人は、鋭い眼で彼女を射る。それは正に、敵を見る目。
傍らに立っていた一星は、眉根を寄せて何してるんだ、とでも言いたげな表情で月詠を見下ろす。二人の冷ややかな視線と一星の奇怪なものを見る目をものともせず、二人の元へ歩み寄ると彼女は目を細めて怪しく微笑む。

「次 私達に何か用がある場合は、遠慮せず私の元に来てくださいね」

いきなり詰められた距離に警戒し、思わず身構えたのも束の間。二人の肩に手を添えて、背伸びをした月詠は、二人の耳元で囁くように告げる。

「もちろん、足の一本でも捧げる覚悟を持って、ですが」

言葉の恐ろしさとは裏腹に、彼女の声音はどこか楽しそうで。
本気だ。そう理解した二人が彼女の手を勢いよく振り払えば、それを分かっていたかのように月詠は数歩後ろへ下がり距離をとる。

「私はほとんど部屋にいますから、楽しみに待っていますね」

そうしていつも通り柔らかく笑うと、一星に向き直った月詠は「もういいよ」と声をかけて二人の横を通り過ぎて行った。