咎人、ふたり


鬼道が消えて行った扉を前に、呆然と佇む選手達。
言葉も出てこない状況に重い空気が広がる中、入れ替わる形で再び扉が開かれた。

「あーあー。鬼道さん、失格になっちゃいましたねえ?」

しかし、そこからひょっこりと顔を覗かせたのは、恐らく事の発端であろう少年だった。
ニヤニヤと笑いながら煽るような態度で現れた一星に灰崎は拳を作り、怒りにわなわなと腕を震わせる。

「テメェが鬼道をはめたんだな!?」

キッと鋭い眼光を受けながらも、一星は平然とした様子で「なんのことかな〜?」ととぼけてみせる。

「だけどよく無いよね、ドーピングなんて。鬼道さんがそんな卑怯な事をする人だったなんて、幻滅だなあ」

一つ一つの単語を強調しながらわざとらしい演技を続ける一星に、灰崎は我慢もできず飛びかかった。

「テメエェェエエッ!!」

掴みあげた胸倉をそのまま、扉に一星の体を押し付けると、ガンッと鈍い音が響く。左手を振り上げて、今にも殴りかからんとするその姿に一星はニヤリと笑った。

「いいのかなあ、灰崎くん?君も鬼道さんみたいに選手生命を失いたくなければ、大人しくしておいた方が身のためだと思うよ?それに​────」
「んなの知ったことかよ!」

それ以上は聞くに耐えないと言わんばかりに一星の言葉を遮ると、周りの制止の声を無視して、振り上げた拳に力を込めた。
そして今、正にそれを振り下ろそうとした時​。「やめろ、灰崎!」と灰崎の腕を円堂が掴んで制止した。

「邪魔すんじゃねえよ!!」
「今 問題を起こしたら、お前まで試合に出られなくなるぞ!そんなことになったら、鬼道が一番辛く思うはずだ」

苛立ちが抑えきれず、灰崎はキャプテンである円堂にまで声を荒らげるが、円堂の言葉はもっともで、灰崎はハッとする。
我に返った灰崎の腕から力が抜けていくのを感じ、円堂はゆっくりと彼から離れる。
灰崎は悔しそうに眉根を寄せつつも、一星を突き放すように手を離して背を向けた。

「灰崎くんはせっかちだなあ。人の話は最後まで聞かないと」

しかし、苦しかったと言わんばかりの被害者面で首元をさする一星が、背を向けた灰崎に再び声を投げかける。
せっかく収まった火種が再び燃え上がるのではないかとそれぞれが警戒する中で、灰崎は肩越しに一星を睨みつけた。

「これ以上テメェと話す事なんざねえ!」
「へぇ、本当にそれで良いの?せっかく真犯人を教えてあげようと思ったのにな」

人差し指を立てて目を細める一星の言葉に、どうせこれも嘘だろうと灰崎は舌打ちを零した。

「くだらねえ嘘なんかつきやがって。真犯人はテメェしかいねえだろ」
「まだ信じてない様子だから忠告を一つ。もっと周りを見る事をお勧めするよ。一番怪しい人はもっと身近にいるんだからね」

一星の瞳がすっと動いた。
青い髪を揺らしながら、選手達の中に紛れ込んだ狼を見つけ出した一星は、口を開いた。

「そうだよな、優衣」

彼の口から告げられた名前に、全ての視線が一人の少女に集まった。しかし注目の中心にいる彼女は、顔を俯けたまま何も言わず、静かに佇むだけ。
表情は確認できない。何を考えているのか全く分からない月詠に、我慢ならず灰崎が問いかける。

「おい、本当なのかよ」
「………」
「黙ってねえで答えろ!」

次第に乱暴な口調になっていくのを感じながらも、灰崎は月詠を問い質す。
何となく予想はしていた。鬼道が彼女に向ける目は、一星に対する物と同じだった。だが、本当に彼女も裏切り者の一員だったとはとてもじゃないが信じられない。そんな動きだって一度もみられなかった。
どうか否定してくれ。期待のような願望を胸に、それぞれが月詠の言葉を待つ。

「……ふふっ」
「あ?何笑ってんだ?」

凄む灰崎に、相も変わらず月詠は顔を俯けたまま喋らない。
このまま黙り込んで逃れるつもりか、そう思った時、くすくすと肩を揺らして僅かばかりの笑い声を零した月詠に灰崎は眉根を寄せる。

次第にその声は大きくなってゆくと、やがて「あははっ!」と、もはや我慢することをやめた彼女の大きな笑い声が静かな更衣室に響き渡った。

「うん、そうです。私が全部やりました」

暫くして落ち着いたのか、面白かった!とでも言うように一通り笑い終えた月詠は、穏やかな笑みを称えながら彼の問いかけに小さく頷いて肯定した。
冗談なのではないかと疑いたくなるほど悪びれる様子もなく、あまりにすんなりと答えた彼女に、周囲は声も出せず唖然とする。

「円堂さんに怪我を負わせようとしたのも、鬼道さんのドーピング疑惑も、全て私が用意して仕組みました」

数を数えるように指折りをしながらにこやかに説明する月詠の姿は正しく、異常。

「うそ…っ」
「本当ですよ」

あまりのショックに口元を両手で覆った大谷から漏れた、悲鳴にも似た言葉も聞き逃さず、月詠は笑顔で答える。

「今まで俺達の事を騙してたってわけかよ!」
「うーん……騙してたんじゃなくて、どちらかというと貴方達が騙されてた、ですよね?」

こてんと首を傾げる月詠が剛陣の言葉を訂正すると、どこからかガタンと大きな音が聞こえた。

「クソッ、ふざけんな!」
「灰崎!」

今度は月詠へ襲いかからんとする灰崎の腰に腕を回し、抱きつくようにして灰崎の動きを止めに入った円堂は落ち着くように声をかける。

「どーりでヘンなわけだわ、お前。ずーっとニコニコへつらって気持ち悪りいったらありゃしねえ」
「酷いですね。にこにこしてるのは元からですよ」

動けない灰崎の代わりに吉良が彼女を皮肉るが、それさえも気にとめず、笑顔を崩さない。

「月詠!何でこんな事……!」
「こんなことって、私 何かしましたか?」

ようやく捻り出した声で稲森が問いかけると、すみません身に覚えがなくて、とお茶目に笑う月詠。その姿に、灰崎の中でブチッと何かの切れる音がした。頭に昇った熱が、ぐつぐつと彼の怒りを煮立たせる。

「とぼけんじゃねえ!」
「とぼけてないですよ。私はあくまでも用意して指示を出していただけですし、それに……あんたも似たようなことしたじゃないですか」

円堂に取り押さえられながらも、物凄い形相で詰め寄ろうとする灰崎を嘲笑うかのように、スッと目を細める。無機質で冷たい目に今までの彼女の面影はなく、灰崎の眉間のシワはより深く刻まれる。
月詠はそんな彼を前にしながらも、眉尻を下げながら顎に人差し指を添え、何かを思い出すように天井を仰いだ。

「私達にやられたからやり返した。それなら私達が指揮をとっていた鬼道さんにやり返しても、問題はありませんよね?」
「先に仕掛けてきたのはテメェらだろうが!」
「その証拠はあるんですか?まさか証拠もなしに、あんな行動にでたわけじゃないですよね?」

証拠という言葉に、灰崎は思わず口を噤んだ。
彼女の指摘する通り、二人を糾弾しようとする彼等は、ただその光景を目の当たりにしただけで証拠はない。
もしこの場に誰よりも早く勘づいていた鬼道がいたのなら、証拠がなくともうまく証明していたのだろうが、それを証明する前に彼は狼によって食われてしまった。

「証拠がない以上、あんた達がやったことは自己防衛でもなんでもない。ただの一方的な暴行です」

当然ながらも反省する様子は一切見せない月詠に、灰崎の額には血管が浮きでている。
何も言い返せないまま拳を震わせるその様子すらも可笑しそうに笑った月詠は、ふと顔を逸らして今度は稲森を琥珀の瞳に映し出した。
突然こちらを向いた彼女にびくりと稲森の肩が跳ねれば、それを合図に彼女は稲森との距離を詰める。

「貴方もそう思いませんか、稲森さん。……頬がこんなに腫れてしまって、可哀想」

わざとらしく心配そうな表情を浮かべながら、稲森の顔を覗き込むようにして自らの顔を寄せれば、少しでも動けば鼻と鼻が触れそうなくらいの距離感にドキリと稲森の心臓が跳ねる。急いで距離を取ろうと背を反らすが、それを逃がさないと言わんばかりに今度は、彼の腫れた頬に手を添えて優しく撫で付けた。
まるで死人のように冷たい彼女の手に、稲森は目を反らせないまま戸惑いがちに見つめ返す。

「仲間なのに謝りもしないなんて、酷いですよね。大丈夫ですか?」
「月詠………」
「安心してください。今ここで貴方に手を出すつもりはありませんから。私は自分の手を汚したくないんです」

腫れた頬をまじまじと見つめながら、指先を伝わせる。いつ、何をされるかも分からないこの状況に、稲森の背筋へ冷や汗が伝う。
だが、その心配も杞憂に終わり、稲森からパッと手を離した月詠は一星へ向き直った。

「それじゃあそろそろ行こっか、充」

無邪気に笑った月詠の表情に悪意は見られない。だからこそ、恐ろしい。
一星に声をかけながらも彼の返事を待つことなく、扉を開けた月詠は「また後で」とひと笑いを残して更衣室を去っていった。





バタンと音を立てて更衣室から出てきた一星は、すぐ側で壁に背を預けて佇む月詠に気が付いた。

「………」

彼が出てくるのを待っていたのだろうか。
彼女は横目で一星の存在を認識すると、何も言わずに壁から離れ、薄暗い廊下を進み始める。そんな彼女の一歩後ろに続きながら、一星は小さな背中に向かって声をかけた。

「…本当に、良かったのかよ」
「なんのこと?」

尋ね返しながらも、こちらを振り向きはしない。
止まらない二人の足音と静かな月詠の声だけがかすかに響く中で一星は続ける。

「分かってるだろ。今後、自分がどんなに扱いを受けるか」

彼が今まで行ってきた企ての全てを被るようにして、一星の口から自らの立場を公にさせたのは、他でもない月詠の指示だった。
ことの元凶を彼女にすることによって、結果的に一星に向くはずだった敵意の多くがうまく月詠に分散され、少なくとも一星の動向を邪魔するような存在は減ることになるだろう。つまり、彼女は一星が動きやすいように、被れる範囲の罪を全て被ったのだ。

一星はそんな彼女の考えを分かっていながら、理解ができなかった。
自分達はただのビジネスパートナー、お互いを利用するだけの存在。彼女自身がそう言ったのだから、自分なんて放っておけばよかったのに、月詠はそうしなかった。
試合最中のこともあり、今後彼等がどんな行動に出るかも分からないというのに、自らの身をまるで犠牲にするかのような彼女の行動は、一星へ困惑とただならぬ違和感を覚えさせた。

やがて、一星から投げかけられた言葉に反応してピタリと足を止めた月詠は、小さな溜息をこぼす。

「私がどんな扱いを受けようがどうでもいい。それは、あんたもそうでしょ」
「………」
「それよりも、私に勝手な行動をされるのが嫌なら、私を盾にしてでもさっさと日本代表を敗退させたら」

底冷えするような冷たい声音に、一星は思い出す。
そうだ。彼女がどうなろうがどうでもいい、彼女を気にかける必要は無い。自分には何物にも代えがたいほど、大切な存在がいる。それを守るためにここまでやってきたのだ。そのためなら、何だってする。
まるで自らに言い聞かせるようにして、欠片のようになってしまった良心を心の隅へ追いやると、キッと力強い眼差しで月詠を睨みつける。
再び決意を固めた彼の表情に気づいたのか否か、月詠は横目に向けていた視線を元に戻し再び歩き始めた。



薄暗い廊下を抜けた先の観客席は、試合も終わりがらんとしていた。そんな中、一人の男性が通路に即した席に座っている。

「鬼道は予定通り、チームから脱落させました」

両手をポケットに突っ込んだまま、男性の背後を過りつつ、一星が報告する。少し離れたところでピタリと立ち止まった一星の足音を聞きながら、すかさず男は口を開いた。

「心が痛むか?」
「……いえ」

男性の問いかけに、一泊置いて一星は否定する。反面で月詠は、無言のまま一星の背を眺めていた。
しかし彼の心の機微を汲み取ったのか、男は諭すように続ける。

「ギリカナン理事長の命令だ。我々の目指す理想はパーフェクトワールド、完全に掌握された世界だ」
「その実現のためなら、手段は選ばない」
「そういうことだ」

まるで何を考えているのか分からない男は、それだけ言うと席から立ち上がり、コツコツと革靴の踵を鳴らして去っていった。
取り残された二人の間にざわりと風が沸き立ち、煽られる青の隙間から神妙な面持ちが垣間見えた。