「俺は久瑠橋という選手に憧れていました。いつだって俺の前を歩く尊敬すべき兄でした。兄の専門は個人メドレー、俺の専門は1500。競技は違ってたけどライバルでもあった」
兄さんが1位を獲れば俺も負けじと1位を獲る。
練習の時も兄さんに負けないように必死だった。
「いつだって俺の前には兄さんがいた。どんなレースで1位を獲ったとしても俺の上には兄さんという手が届かない選手がいた。けど、不慮の事故で兄さんは亡くなりました」
震える手を気付かれないように缶を握りしめる。
「あのレースは、兄さんを亡くして初めてのレースでした。そのレースで1位になって、世界記録を叩きだして気づいてしまったんです」
「気づいたって、何に?」
「自分の目指すモノがないことに…。必死に追いつこうと伸ばす先がないことに…。だって世界記録って世界で1番っすよ?プロの選手よりも速くなってしまったんですよ?」
憧れ、負けたくないと思い、必死に追いかけ、戦ってきた兄さんがいなくなり、1番になってしまった。
「それがどうして泳がない理由になる?」
「上には上がある。けど、頂上には下しかないんすよ。ずっと上を見て、上に行こうと泳いでいた俺にとって上がなくなることほど怖いことはなかった」
「自分に追いつこうとする選手と戦おうとは思はなかったのか?」
「それで勝っても俺の位置は変わらない。負けても下に行くだけ…」
震えた手で握りしめていた缶がピキッと音を立てた。
「俺にはいつだって挑戦者でいたかった。兄さんに勝ちたい、ただそれだけの気持ちしかなかった。1位であり続ける覚悟は俺にはなかった」
「だから…1500を泳ぐのをやめたのか?いや…逃げたのか?」
「はい、逃げたんです。1番上から…こんなこと凛に言ったら殺されそうっすけどねー…」
苦笑しながら言えば御子柴さんは溜息をついて俺の頭を叩いた。
「え!?」
「そんなしょうもねぇことか」
「…すいません」
目を逸らして俯けば乱暴に撫でられた頭。
「覚悟なんていらないだろ。上に人がいなくたって上は目指せる。1秒でも速く、そう思い続けて泳いでいたら上がなくなることなんてない。誰よりも速く、過去の自分より速くなればいい。そう思わないか?」
「過去の自分より、速く…」
「いつか俺が追いついてやるから。それまで待っていろ!!」
胸を張って笑った御子柴さんにつられて俺も笑う。
「楽しみにしてます。…過去の俺に勝てるように1500ももう1度やってみます」
「その意気だ!!公式戦で戦えるかはわからんが、絶対に勝つからな」
「負けたくはないっすね」
過去の自分より速く、か…
考えたこともなかったな…
「遅くまで話し込んでたみたいだな」
時計を見て御子柴さんが呟く。
「そうみたいですね。明日もあるし、帰りますか?」
「あぁ、そうしそう。俺が追いつくまでは1番であり続けろ」
「…御子柴さんが追いついても1番であり続けますけど?」
結局、答えはこんなにも単純だったのか…
「頭が良い奴は考えることがわからんな」
「何でですか?」
「1位になったらただ純粋に喜ぶだろ?覚悟だなんだと難しいことは考えないよ」
「…そんなもんすかねー」
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