01
「かわいそうな子」
そう呼ばれるのが嫌いだった。父である男に見放されたことも、母らしき人物に置いていかれたことも私を形作る要素ではあっても本質なんかじゃないのに。
”かわいそうな子”。その言葉は錨のように私の存在をその場に止める重りであり、呟かれる度に本当にそうなってしまう呪いに違いなかった。
だからこそ、人一倍しあわせになってやろうと幼い私は決意した。
外の世界には怯えなくてもよく、お腹を空かさず、温かい寝床がある。いつか、いつかきっとしあわせになるんだ。外の世界を知っていた他の子たちはよくそんな望みを弱々しく口にしていた。そんな皆も、暫くするとなにも喋らなくなって、時々外へまとめて連れ出されていった。いま思えば捨てられたのだと思う。
このままあの子たちのように冷たくなるのは嫌だった。
「生き、たい。もっと生きたい」
私の世界をこんな小さな部屋のなかで終わらせるよりも、一度でもいいから外にでて、そしてーーもう目覚めて朝がくることに怯えなくてもよくなりたい。かわいそうな子なんて呼ばれることのない世界で生きてみたい。ただの小さな、それでいて純粋な願いだった。
「マーモンおはよう」
「おはよう、寝癖ヒドイよ。……顔色も良くないんじゃない?」
寝室から起きてきた私の顔をみるなりお小言が飛んでくる。私は視力確保のためにゴーグルをしているし、マーモンだってフードを深く被っているのだから顔なんてよく見えないはずだ。それでも私のことを心配してくれるのはそのフードを持ってしても隠しきれてなくて、気遣いが嬉しくて笑みが溢れ出る。
ふよふよと浮かぶ小さな体に腕を伸ばすと当たり前のようにその身を委ねてくれる。ベッドから起き上がったばかりの体はぬくい体温を求めているし、マーモンも無駄な体力を使って移動することがない。まさにWin-Winというわけだ。マーモンの私室とただの部下である私の寝室が扉一枚で繋がっているのはそういう理由があった。
「どうしても月末は仕事が多くてさ……」
「まあ、それは仕方ないと思うけど」
私、アヴィドの仕事は簡単にいえばヴァリアーの経理全般である。この男所帯で滞りがちな金回りの全てを担っている。現場主義な集団で唯一の事務といえばその過酷さは一部の人にはわかっていただけるだろう。ある時から守銭奴なマーモンの部下ならそのぐらいやれと押し付けがましく回ってきた仕事に忙殺される日々を過ごしている。元々はマーモンのみ補佐する役職だったはずなのにな、おかしいな。気付いた時には霧隊副隊長、経理部主任など仕事量に比例するように肩書きが勝手に増えていた。
活動らしい活動もしていないように見えて意外と月末の仕事は膨大で、こうして睡眠時間を削られることもしばしばだ。私だって寝たい。早く提出しろと毎度のように通達してもギリギリまで必要書類を出さない隊員の多さに疲弊している。経理の人権が著しく低いこの職場どうにかして欲しいが働き方改革など夢のまた夢だろう。
マホガニーの重厚な扉をくぐり抜けて食堂へ足を向ける。普段なら嬉しい朝食も今朝は寝不足のせいかなんだか気が向かない。マーモンに心配されたからたまには寝不足も悪くないけど、せっかくの朝食に対して失礼になるのは避けたいところだ。
「きっちり時間内に終わらせないと金額に対してのコストが見合わないっていつも言ってるよね僕」
「次は気をつけるね」
ああ、今日も私はしあわせだ。安心できる温かい寝床があって、美味しいご飯が食べられる。腕の中にはそれを与えてくれたマーモンがいて。考えれば考えるほど自分がしがみ付いているものの奇跡に感謝してしまう。
あの時、マーモンが私を見つけれくれなかったら。
私があの日逃げ出そうと思っていなかったら。
小さな偶然のピースが重なりあって出来上がっているのが今この瞬間なんだろう。そう理解はしている。十分にしあわせであることは分かっているのに人間というのは欲望に限りがないようだ。
装飾の施された扉を開くと、まだ誰も来ていないのかしんと静かな部屋が広がっていて、長机が置かれた構図により視線は自然とある場所へと導かれる。偶然ではなく必然で、そうあるように意図的に造られた場所は今日も空っぽだった。
「ねえマーモン」
「なんだい」
「XANXUSさん、いつ帰ってくるんだろうね」
唯一、食器が置かれない長机の一角を見て呟かれた言葉に返事はなかった。
仕方がないことは分かっているけど、安心が欲しいだけの欲張りな子供のまま大きくなってしまった私も、いつしか与えられなかったものことなんて記憶の隅に置いてってしまうのだろうか。