不可侵のアガペー
 廊下で突然知らないひとに呼び止められたかと思えば告白された。それはもうシンプルに訪れた突然の出来事だ。いい子だねと言われることはあっても好きだと伝えてくる人は今まで居なかった。恐らく、恋愛系のそれでは今回が初めてだと記憶している。あまり見覚えのない人だったので所属を尋ねると、最近入ってきた隊員らしい。先日書類を出しに来たら一目惚れしてしまっただとか。全く覚えていないけれど、彼にとってしてみればこんなゴーグルをかけている人間は印象深いんだろう。(それ以外特徴らしいものは何もないんだけど……)
 好きだと真っ直ぐに告げられた声は嬉しいものではあった。自分のことを嫌いという人間よりは好ましいのは当たり前だ。それでも私は首を横に振った。すみません、知らない人と喋っちゃだめだと言われているので。

「あなた気持ちは嬉しいですが、あなたのこと何も知らないですし……好きじゃないので、ごめんなさい。」
「……わかった、今日のところは諦めよう、だが……最後にキスだけでもしてくれないかい?」
「キス」

 キス、キスかあ。挨拶で頬にもよくされるそれを真っ先に思い出す。あれは親しい人にしか基本的にしないんだけども。そうじゃない人も勿論いるんだろうけど。嫌だなあと思いつつ、すぐ戻るって言ったしさっさと戻りたいなあといつもの悪い癖が出た。マーモンの部下なので、嫌だなという感情よりもリップも塗っていない僅かにカサついたそれで物事が収束するなら安いことなのかもしれないと合理的な判断を優先してしまうのだ。
 いいですよ、と少し上ずった声を気づかれないように願いつつ視界を覆うゴーグルに手をかけた。


 ゆっくりと持ち上げたゴーグルのしたを目視した途端、男の物腰の柔らかい態度は一変した。なぜか肩に伸ばされていた両腕を突き放すのと同時に、
「近づくな! 気持ち悪い!」と言葉を吐き捨てていった。
 長い廊下を走り去っていく足音と、男の叫び声が耳に残る。突き飛ばされた衝撃によって尻もちをついた床が冷たかったけど、この冷たさはそれだけは無いと気づいていた。……びっくりしてちょっと泣いちゃったなんてスクアーロに言ったら基礎訓練からやり直しだろうか……。
「僕たちの前以外でゴーグルを外しちゃ駄目だけど……もしキスを求められたときはゴーグルは邪魔だから外すといい」というマーモンの言葉を実行した今になってその言葉の意味を知った気がした。マーモンやベルにおやすみの代わりに頬にキスをする時は今までだってゴーグルを外してきた。それは頬にキスするのに邪魔だったっていう簡単な理由。この傷を見てもなんとも言わない人たちだからこそ、成立していた。道具に多少傷があっても彼らは使えれば気にはしない。ただそれだけのことだった。

「ここにいたのアヴィド……なんでゴーグル……怪我でもしたのかい?」
 すぐに戻る予定だったのに部屋に帰るのが遅かったせいか、不満そうな面持ちのマーモンがふよふよと浮かんで廊下に現れた。しかしそれも一瞬で疑るような声に変わる。びっくりして腰が抜けたなんて言えるような雰囲気じゃなかったけど、マーモンにはお見通しみたいだった。

「男のひとに告白された……みたいで」
「は? あー……うん」
「断ったんだけどキスして欲しいって言われて、それで、ゴーグルとったらつきとばされちゃって」
「……ふぅん。怪我は?」
「ないです」
「そう、ならいいよ」

 近づいて目の前にまできたマーモンは、私のゴーグルをそっと下げる。これでやっと私はマーモンの補佐官のアヴィドに戻れた。この左目の醜い傷も、マーモンのくれたゴーグルが全部覆って隠してくれる。

「アヴィドにどんなに傷があったって、僕だけは君を否定しない。僕以外のもとにいこうとすれば君が傷つくだけなのさ。わかったかい?」
 私は今度こそ首を縦に振った。
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