
呪詛を咎めるような音響
殺せ。殺せ。殺せ。私はそんな呪詛を心の中で吐きながら何処かも分からない山の中を歩いていた。今更、何の役にも立たねえだろう紙束とすっかり冷えきった硬いパンを両手に下げながら。服装はいつも通りのぶかぶかのシャツにボロボロの靴。さっきから靴の隙間から泥やら木の枝やらが入り込み、私の頼りない足を傷付けている……痛えなくそめ。
山登りをするにはあまりに簡素すぎる装備だって事ぐらい分っている。それでも私がこの山の中を歩いているのは、目的が山登りなんかではないからだ。
殺せよ、殺せ。殺してくれ。誰でもいいんだ、誰でもいい。もうこの際、人じゃなくていい。自然災害とか、腹を空かせた野生動物に遭遇するとか、その他の避けようがない不幸とかそんなのでいいから。頼むから。
……誰か私を殺してくれ。
*
「待ってくれ!紗凪なら今朝売っただろ!?」
いつものあのパン屋へ挨拶に行った帰りのこと。自宅の扉に手をかけた瞬間、家の中から感じ取った明らかに一人や二人なんて数じゃない人の気配。私は何かがおかしいと思い、裏手に回って聞き耳を立てれば慌てたようなあのクズの声。大まかな事情はボロアパートのうっすい壁越しから丸聞こえだった。
紗凪、紗凪、さなぎ。それは途方もなく馬鹿な、私の母親の名前。「ああ、その通りだ」と怪しげな男の声が、私の母親は売り飛ばされたという事実を肯定した。
今朝、家から出て行った母は出稼ぎに行ったのではなかった。あのカス男の下らない娯楽のために百万ぽっちで残りの人生の全てを売られたのだと。どこかの金持ちに、身体をまるで物のように改造されてビスクドール代わりにされるのだと。「坊ちゃんも何を考えてるのか」と呆れた様子で男は言っていたが、私にとってそんな男の苦労なぞどうでも良かった。
……嘘だ、嘘つき、嘘つきめ。すぐ帰ってくるって言ったくせにふざけるな。帰るって、私を置いていかないって。なのに裏切りやがって。私がその言葉をどれだけの心の拠り所にしていたと思ってんだあの女は!
しかも、よりにもよってあのゴミカスに売られやがった。どこまでも救いようのないゴミクズめ。こんなことになるくらいだったら、母が願う私の清廉さなど全てかなぐり捨て、あの男を惨たらしく殺してやればよかった。私の身も心もとっくに傷だらけの垢まみれで汚れているのだから、犯罪に手を染めてないくらいのことなんて大して変わらないじゃないか!
母は知らなかっただろう。お金のない私にいつも売れ残りのパンをくれていたあの店主。あの人の生活だって裕福なものじゃないのに、それでもこんな小汚い小娘を邪険にせず食べ物を分けてくれていたあの人。
今日、言ってたよ。「実は紗凪さんのことが好きだったんだよ」って。あのクズに孕まされる前からずっと好きだったって。でも、自分は怖くてあの人から彼女を救い出せることはできなくて。だから、娘である私が頼りに来てくれた時は嬉しかったって。やっとあの家から出て行ってくれるのが何より嬉しい。知らない場所に行って幸せに生きてほしいって!
私だけじゃないんだよ。きっと、もしかしたらあのパン屋の店主さん以外にも貴女の幸せを願う人は、もっと、もっと沢山いたのに。なんで、なんでなんで!
「本当に欲しかったのはガキの方だと!?紗凪はそんなこと一言も……あの女!庇いやがったのかガキのこと!」
なんで私の身代わりになんかなったんだ!売ってしまえばよかっただろう私なんて!こんな……お荷物でしかない私のことなんて!
そんなんで残された私の気持ちぐらい、どんなに馬鹿だって分かるに決まってる!全身の血管が全て凍りつくかのような、それでいて内臓が酸で焼け爛れるような。絶望だとか喪失だとかこの世のあらゆる汚い感情の肥溜めに溺れて死んでいくような!
どうせ、どうせきっと私なら逃げ出せると思ったんだろう。母がいないこんな家にいる意味は、もう本当にどこにもない。はじめは母が売られた時の金を使って、それからは何処かに住ませてもらって、堅実に働いて。私ならどこへだって生きていけるなんてそんな根拠のない甘い考えで。
そんなわけないのに!私は、私にはこんなクソみたいな人生を生きていく意味も気力もありはしない!今まではお母さんがいたから生きていけただけなのに……なんでそんなことくらいも分からないんだあの女は!
「そ、そうだ!えーと、ガキ!シズ……だったか!?そういうことなら娘が帰って来たら、そいつも連れて行けばいい!そうだな、追加で同じ金額くれるってのどうだ!?俺の娘と妻をやるってんなら妥当だろ!?」
……そんなあいつの声が聞こえて、ぷつんと何かが切れる音がした。
今この瞬間の自分の命に、価値があるのかなんて全く分からなかったけど、名前すら碌に覚えていないくせに図々しくも私を娘なんて言いやがった、壁越しに感じ取るこの世で最も醜い存在よりは、ずっとずっと生きている価値はあるだろうな、と。そのことだけはよく分かった。
私はそのまま音もなく、その場を立ち去った。私が生きて歩くことに確かな意味を見つけたから。今の私がこの街から立ち去った後、人身売買なんてやっている奴らが欲しがった『四十万静姫』の身柄を引き渡せないあいつは、一体どんな目に遭うのだろう?きっと私には想像も出来ないほどの死を迎えるんだろうな。
だったらあのゴミを殺すのは私じゃなくたっていい。あいつが惨たらしく死ぬのなら手を下すのは誰だって構いはしなかった。
「待て、よせ、やめろ、助けてくれ!」なんてセンスのない命乞いと断末魔を背にして、自分を縛るものなどなにもなくなった街を後に、私はひたすらに歩いた。
*
歩いている間の私はずっと、これからどう生きるか……ではなく、どう死ぬかという考えで目的もなくふらふらと歩いていた。これから先、私は生きていたって辛いことしかないだろうって。今世は見送って来世はもっとマシになりますようにって。
……自殺だって考えたが、私は未だあの女に呪われている。私は自らの手を汚して自分を殺すことは許されなかった。
だからと言って何者かに「殺してくれ」と頼むのだって嫌だった。きっと「どうせ死ぬのなら」と、この身体が擦り切れるまで犯されて穢されて……そうだな、首を絞められながら身体を物のように扱われて殺されるんだ。死ぬなら綺麗な身体のまま死にたかった。
ならどうしようか、と暫く歩けば段々と森が近づいてきた。私は一体どれほど歩いたのだろうか。そういえば、街を出た時は朝方……太陽は完全に東側にあったが、いつの間にやら空の一番高いところまで登り、徐々に西へと傾き始めている。昼過ぎごろだろうか。少なくとも数時間程は歩き続けていたようだ。
その森の入り口は木漏れ日が差しておりやや明るいがその奥は先が見えないほどに鬱蒼としており、随分と深そうだった。地面が斜面になっているところを見れば、森というよりは山の方が正しいかもしれない。
ちょうどいいな、と思い私は迷うことなくその山へと立ち入った。この山の中をさっきまでみたいに、また歩き続けてみよう……こんなボロボロな私なんて山に入ってしまえばそのうち死ぬだろう。わざと死ぬのは許されないので腹が空いたら手に持っているパンを食べようか。小川を見つけたら水を飲もう。出来る限り生きる努力をして「生きようと頑張りましたが死にました」くらいが、今の私にはちょうどいい。
死ぬ間際には私は何を思うだろうか。やっと死ねると思うか、やっぱり死にたくないと思うだろうか。
どうせなら「死にたくない」と思いながら死にたいな。どんなに許せなくとも母が傍にいる暮らしは存外悪いものではなかった。ただ血が繋がっているだけの男の存在さえなければ、私はどんなに貧しくてもずっとずっとあの場所にいても良いと思えていたし、きっと母と共にいれた自分の故郷をもっと好きになれていたはずだ。
そんな母との暮らしを死ぬ間際まで愛しく思い、名残り惜しむように死ねたなら。私にとってこれ以上の幸福はないだろうな。
ああ、早く死ねないだろうか。ゆっくりと、幸福に身を沈めながらこの命を終わりたい……私はそんなことを考えながら、自分を殺してくれる何かを切望しては山中を歩き続けた。
*
山の中をあてもなく彷徨い始めて早数時間後、私はいまだに死ねずにいた。わざと死ぬことをせず歩みを止めずにいれば、人間は案外生き延びれるのだろうか。それとも私は悪運が強いのだろうか。そういえば、取り立ての奴らとすれ違うように家を出ていたのもラッキーだったよな、と今更ながらに思う。今となってはこんな悪運なんて捨て去ってしまいたいというのが本音でもあるが。
しかし、いい加減にお腹も空いてきたことだし、そろそろ手に持っているパンでも食おうか。近くに小川があれば嬉しいがそう上手くもいかないか、なんて考えていると……ふと、違和感を覚えた。
「……?」
目の前の景色がほんの一瞬だけ、歪んで見えた様な気がしたのだ。ただ、すぐにそれは「目の錯覚のだろうな」と思った。木々が生い茂っていて影も多いとはいえ、晴れた空の下で山中を歩き続けた疲れが出たのだろうか、と。この時に「ああ、熱中症か何かで死ぬ可能性もあるのか」と何処か他人事のように考えてしまう。案外、私の幸福はすぐそこまでやってきているのかもしれない。
しかし、どうも様子がおかしいことに気付く。どうやらほんの少し歪むのは目の前の景色だけ。振り返ってみても、上下左右に視線をやっても歪みは確認出来なかった。それに立ちくらみもなければ頭痛もない。目の前が白み意識が遠のくような感覚もない。正常な判断が出来ているかは定かではないが、体調に不調はみられなかった。せいぜい身体中が木の枝で擦り傷だらけになっている程度だ。
つまり、違和感は目の前の景色のみだということだ。まるで空気に薄い膜が張られているような……異世界への入り口を目の当たりにしているような気分だ。
だとしても、人生終わったと思っている私は「不思議なこともあるものだな」というくらいで、不気味には思えなかった。現実離れしているような景色だが、それよりも「ここから先へは進めるのか?」ということの方が重要だった。この先に進めなければ私は後ろへと引き返さないと行けないかもしれない。……まあ、進めなかったらその時に考えれば良いかとすぐに気にしないようにした。今はとりあえず前に進んでいるだけで横にだって踏める土はある。転ばずに進めなさそうなだけで。
私は黙ったまま、持っている荷物を全て左手へと持ち直し、右手をにゅっと前に突き出した。思いっきりその歪みに触れるつもりだったので手のひらを広げて。
当然といえば当然なのだが、私は歪みに触れることはできなかった。そこには何の感触もなく、感覚的には空気を掴もうとしているようなもの。冷静に考えればこんな蜃気楼のようなものが触れられると考える方がおかしいのかも知れない。
……しかし、その代わりに私の右腕の肘から先が私の目の前から消えた。
「っひ!」
これには私も流石に驚き、身体を捻るように勢いよく後退る。これからの自分は動物に襲われでもして四肢を失くして死ぬのかもしれないとかは考えていたのだが、痛みも予兆もなく身体が欠損してしまうのは流石に予想もしていなかったのだ。
しかし、私の右腕は欠損などしておらず、歪みから身体を引き離せばいつも通りの小汚い腕が肘から先に繋がったまま。さっきのは何だったんだ、と私はぐっぱーぐっぱーと拳を作ったり手を開いたりと、右腕が正常に動くか確かめる。異常はないようだった。
……どういうことなのだろうか?次は慎重に、歪みをそろっと撫でるように指先を伸ばす。すると、今度は指の第一関節から先が消えた。それから、腕を伸ばせば徐々にその歪みへと己の腕が呑まれていく。どうやらそこには明確な境界があり、自分の体は消えたのではなくどこかへと侵入しているようだ。
「……まじで異世界の入り口だったり?そんな馬鹿な」
とりあえずは、拒まれているのではない様子で、一応前には進めるようだ。私は少し考えて「他に行く場所もないし」とその境界へと歩みを進めた。どんな危険がその先にあるかは知らないし、そんなものは今更どうでもいい。
……どうでもいいということ自体は嘘ではない。けれどそれと同時に、根拠はなくともその先には危険はないと、なんとなくだが予感もしていた。
「……家?」
そこには、ごく普通の平家が立っていた……いや、実のところ言うとごく普通なのかどうか、私には分からない。私の知っている家というものはあのボロアパートのゴミ溜めだった。自分の基準が普通ではないことくらいは理解しているが、じゃあ逆にどれが普通かと聞かれても答えられる自信はない。
しかし、それでもその家が自然と『普通』と思えるくらいには異質な光景だった。先程まで空までを覆う様に生い茂っていた木々はどこにもなく、開けた上空からはポカポカと陽光がこの場を照らしていた。
先程までの森はどこに行った?と後ろを振り返れば、確かに森は広がっている様には見えたが、それでも先程の鬱蒼とした雰囲気は微塵もなくどこか神秘的な……それでいて爽やかな景色だった。
試しにと、境界であろう場所で今度は内側から外側へと腕を伸ばしてみる。すると、やはり思った通りで、先ほどのように境界から先の腕が消えたように見えた。腕を引き抜いてみても、もちろん腕は繋がったままだ。
こんな空間に建っている家ならばもっとこう、朽ち果てていたり、はたまた何かが祀られていたりとか思いっきり怪しげなものである方がしっくりきそうなものではないのだろうか。けれど、その家は妙に生活感溢れる木造の『普通』の家だったのだ。逆にこの家の存在が読めない。
「なに、ここ……」
最早、そう言う他ない状況に置かれていることに私はやっと気付く。自分は早く死なないかな、とかそういった考えを貫き通して流してしまえる程にこのような状況に対する耐性は私にはない。
……えっえ。どうしようか。もしかしてこれは他人の家に不法侵入してしまうことになるのだろうか?どこからどう見ても明らかに誰かの私有地である。もしや罪に問われたりしないだろうな?いや、完全に不可抗力であろう。私は悪くないし、手も汚していない。まだ私は綺麗なままだ。そうだよね?異論は……そうだな、認めます。その場合は素直に謝ります。
カァンッ!
「ヒッ!ごめなさいっ!」
私が心の中で誰かに何かの言い訳をしていると、それを咎めるような鋭い金属音がその場に響いた。その音に驚いた私はビクッと肩を跳ねさせ、思わず早口で謝ってしまう……いやだから、誰に対してだ。焦りすぎて噛んでしまったし。なんだ「ごめなさい」って。
私が勝手に一人で狼狽えていると、カン!カン!カカン!パァン!と一定のリズムを刻むように金属音は鳴り響き始める。なになになに。怖い怖い。
私が心臓を抑えながら耳を澄ますと、その音はどうやら存外近い場所から聞こえてきた。どうやら、私のすぐ横の倉庫のような場所で鳴っているようだ。この様子だと倉庫じゃないのかもしれない。倉庫かと思っていたその建物を裏から回り込んで入り口を見てみると『六なんちゃら』と書かれている看板が掛けられていた。学がないので正確に何と書かれているのかは分からない……私はその『六なんちゃら』の中を覗いてみることにした。
ここの一連の私の行動に理由等はなかった。私はこの時、数分前までひたすら考えていた自分の死に様だとか母親との生活の思い出とか、それら全てが頭の外へと追いやられていたのだ。それを人はきっと「興味本意」と呼ぶのだろう。
本当に少しも、何も考えていなかった。私はただの純粋な興味に突き動かされてその場所を覗いた、覗いてしまったのだ。
露ほども思っていなかった。その行動が、これからそう遠くない未来で静かに終わりを迎えるのだろうと思っていた……そんな私の人生を大きく揺るがすことになるなんて。