
呪いなんかじゃなかった
何故こんなことになってしまったのか。チヒロは頭がつきつきと痛みだすのを感じていた。
「お風呂はここ。今父さんが沸かしてくれたから……」
「お湯、お湯だ……初めてのお湯……」
「……浸かる前に身体は洗ってね?」
チヒロは我が家に突然現れた、名も知らぬ少女に「これはシャンプー、これは石鹸。着替えはここに置いておくね」と風呂の説明をしていた。なんでもいつもは水浴びで入浴自体は初めてだとのこと。そう聞いてしまえば、今の自分には想像も出来ないような生活をしていたのだろうということくらいは分かってしまう。街の治安はあまり良くない、ということは父の知り合いからよく聞く話だ。
そのことを踏まえつつ、名前だとか何故この場所にいるのかとか……本来は彼女から聞くべきことは山積みなのだが、その彼女の体が見ていられないほどにドロドロだったため、先に風呂に入れることにしたのだ。
「それから、バスタオルはここに……あれ、ないな。洗濯で干したので全部か。持ってこなきゃ」
「ねぇ、ところでこの丸い木の板は何?」
「それ?それは湯船に浸かる時に乗る簀子」
「えっこれに乗るの?入りにくくない?」
「いや、風呂釜を下から直火で暖めてるから……これに乗らないと足に大火傷を負って酷いことになる」
「絶対乗る」
……大丈夫だろうか、怪我しないだろうな。チヒロは自分よりも少し年上に見える彼女に対してまるで幼児を相手にしているような感覚を覚える。不思議なものだ。
「一人で大丈夫?と言っても、お手伝いは流石にできないから一人じゃないと困るけど……」
「大丈夫、私なら乗れる」
「……そう」
ロボットの操縦士か。「覚悟なら出来ている」というようなあまりに凛々しすぎる顔は本来リラックスするための入浴に違和感しかなかった。
まあ、まるっきり子供というわけでもないし……本人が大丈夫というのならいいか、と思いチヒロは「じゃあ、早く入っておいで。俺はバスタオル持ってくるから」と洗面所の扉を閉めた。
バスタオルを持ってくるまで待っていてもらってもよかったのだが……彼女も彼女で一刻も早く身体を洗いたいだろうと、先に浴室に入ってもらうことにした。バスタオルなら、彼女が身体を洗っている間に浴室の入口に置いておけばいい。
チヒロは早朝から干していた洗濯物から、一枚だけバスタオルを手に取る。今日は晴れていたから乾くのも早かったようだ。他の洗濯物も大体乾いているようだし、これを洗面所に置いたら工房の片付けをしている父の国重と一緒に洗濯物を取り込んでもいいかな、なんて考えながら洗面所の扉に手をかけた……ところで、その手を一度引っ込めた。
扉の先に気配があるのだ。ごそごそ……という音も微かに聞こえる。まだ、浴室に入っていないらしい。
「……」
さて、どうしようか。
待っていてもよかったのだが、自分と大体同年代くらいの女子が脱ぐのを黙って待っているという状態は……こう、なんというか。早熟とはいえ、まだ年齢一桁という幼気な少年六平チヒロにとって、些か気まずすぎる状況である。
とはいえ、なら先に洗濯物を全て取り込んでしまおう、というのも良くない気がする。何故なら、彼女の普段の入浴時間が分からない。初めてのお湯の温もりを堪能しようと長風呂をしてくれるのなら都合がいいが、熱いと思われ烏の行水で済まされてはバスタオルを置くタイミングを逃してしまう。
「……ねえ」
「んー?」
チヒロは数秒ほど沈黙し、扉の向こうの彼女に声を掛ければ間延びした声が返ってきた。
「今って扉を開けてもいい状態だったりする?」
「えっ扉?」
「うん」
もしも、彼女がまだ服を着ているのなら今のうちにバスタオルを渡せばいいし、もしも脱いでしまっている状態の場合はすぐに浴室に入るはずだ。少し待ってから置かせていただこう。「バスタオル持ってきたんだけど……」と補足をすれば彼女は「ああ、そういう」と納得してくれた。
「別に大丈夫だよ」
「じゃあ、開けるね」
「どうぞ」
チヒロはしっかり彼女から入室の許可を貰い、洗面所の扉をがらりと横に引き……
「あれっ?」
「……」
……がらりとお手本のようなそっ閉じをかました。
扉の向こうにいた彼女はそんなチヒロを不思議そうにしていたが不思議なのはチヒロの方である。
なんと彼女は一糸を纏わぬ姿であったのだ……一体全体どのあたりが「大丈夫だよ」なのか小一時間問い詰めたいところである。
いや、大丈夫。俺は見てない、何も見なかった。なんか肌色が多いということだけ認識して決定的な何かを目にする前に閉めた。俺は悪くないし、完全に非はあちらに百ある。チヒロは頭を振って先程の記憶を消そうとした。
「どうしたの?バスタオルちょうだいよ」
「いや、開けないで。開けないでくださいお願いします」
「だってバスタオル」
「きみはバスタオルよりも気にした方がいいことがある」
「ない」
「おかしい。全てがおかしい」
しかし、この少女はそんなチヒロに些か厳しい状況を容赦なく与えまくるようだ。あろうことか今度はあちら側から扉を開けようとしてくる始末。チヒロは今この瞬間、己の尊厳を死守すべくギギギと全力で扉を押さえていた。明らかに抵抗しまくっているチヒロや軋みまくる扉を歯牙にもかけることなく、バスタオルに固執するこの裸体の少女はなんなのか。彼女にとってのバスタオルとは?宇宙に果てはあるのかという問題に匹敵するほどの謎かもしれない。
チヒロは「分かった、バスタオルは渡すから。絶対渡すから一旦扉から離れて。絶対渡すから」と説得し、なんとかこの小競り合いに終止符を打つことに成功した。二度目がないことを祈るばかりだ。
「何がどうしたの?寒いよ」
「とりあえず、とりあえず一個だけ俺の質問に答えてもらえる?」
「いいけど」
「きみは何を以て、俺が扉開けても大丈夫と判断したの。服着てないのに」
「えっ……室内、だから?」
「……」
チヒロは彼女の「何か問題でも?」とでも言いたげな声色に「この子はある程度の語彙がありつつ言葉遣いが流暢なだけの幼児だ」と直感した。それと同時に妙な覚悟を決める……俺が、俺がしっかりしなければ。
「よし分かった。今から俺が廊下にバスタオル置くから、五秒数えてからバスタオル取って」
「いーち」
「まだ置いてない。置いたら扉ノックするからもうちょっと待って。バスタオル取ったらちゃんと洗面所の扉はしっかり閉めてね。お風呂から上がったら、絶対に服着てから洗面所を出て。絶対に」
「分かった」
チヒロはそっとバスタオルを置き、コンコンと扉を二回ほどノックした後、彼女のカウントダウンの声を背に廊下を駆け抜ける。「よーん」のあたりで別の部屋へと逃げ込んで耳をそばだてれば「ごーお」という声が聞こえた後、がらりという音が二回聞こえた。一応、廊下にも人がいないことを確認しては安堵する。言ったことはちゃんと守ってくれるタイプのようだ。伸び代はあるだけマシだろう。
「……はぁ」
自然と溜息も出るものである。チヒロは暫くの間、自身のこめかみを抑え頭痛を和らげることに集中した。本当に……何故こんなことになってしまったのだろうか。
……そんなこんなな状況にチヒロが頭を悩ませ始めて、早一時間後__。
「是非、シズと呼んでください」
「了解しやした!」
「馴染むのが早すぎない?」
六平家に突然現れた少女は家長である六平国重と向かい合う形でダイニングにちょこんと座り、開口一番にそう言い放った。話題の一番手で愛称で呼んで欲しいというのも驚きではあるが、それからの了解までの流れさえも亜音速すぎる。チヒロとしてはもう少しでいいからゆっくり交流を深めてほしいものだ。流れについていけないので。
「本名は四十万静姫です」
「なるへそ!」
「本名が先でしょ普通……」
ちなみに、チヒロは二人の会話に呆れながらも謎の少女……もとい、静姫の濡れた長髪をタオルで拭いている最中である。されるがままになっている静姫は「髪ちゃんと拭いたよ?」と言っていたが……既に杜若色の髪からボタボタと雫を廊下に落としまくる光景を目にしているチヒロとしては、やはり彼女の価値観はかなりズレていると確信するだけだ。ポンポンとタオルを当てながらチヒロは「ちいさな頭だな……」とその手に収まる静姫の頭顱に若干の愛らしさを覚え始めている。比喩ではなく直喩である、多分。
それにしても、たった数時間前のことだとしても静姫の登場は印象的だった、とチヒロは先程のことを思い返し始めた。
*
国重の鍛錬中、チヒロが気付いた時には静姫は既に六平家の工房の入り口に立っていた。本当に『気付いた時には』である……彼が偶然、人が立っているのを視界の端で捕えるまで。鍛錬中の音で気づきにくかったのもあるだろうが、そういう次元ではなく……言うなれば『四十万静姫』という人間が『無音』という概念と共存しているかのようだった。
チヒロは静姫を目にした最初は幽霊か何かだと勘違いし、それはそれは大いにビビった。それまでそんなものを信じたこともなかったが……ボロボロで明らかにオーバーサイズの衣服に身を包み、両手には何が入っているのかも分からぬレジ袋を携え、顔を覆うように荒れ果てたボサボサ髪の少女が音もなく突然現れたのだから仕方ないだろう。しかも、チヒロは国重と違って、工房の入り口付近で炭切りを行っていた……つまりはその幽霊紛いな少女が気づいた時には自分のすぐ横にいたのだ。正直、死を覚悟した。慄きの余りに指を切るようなことがなくてよかった。
ともかく、そんな彼女に目を剥き肝を冷やしていたチヒロだが静姫はそんな彼に気付いてもいないようで、ただ一点をじっと見つめ続けていた。チヒロの父である六平国重……そして国重が打っている途中の刀を。
その場で立ち尽くしていた彼女の横顔は正しく『茫然』という言葉がピッタリだった。全くもって奇怪で理解不能なものを見ているような様子だったが、決して嫌悪を覚えているわけではないということは分かった。そのボサボサの髪の隙間から覗く、怪しく濁っていた藍墨茶の瞳が、瞬くうちに一筋の光が差したように澄んでいくのを確かに見たからだ。まるで鍛錬によって生まれる火の粉がその澱みを浄化していく瞬間を目の当たりにしているようだった。
「……ねぇ、きみは」
そこでやっとチヒロは静姫に声を掛けた。彼女をよくよく見て、かなり風貌が荒れているだけの人間であるということに気づいたのがその時だったのである。かといって、ここは普段人が滅多に立ち寄らぬ場所……それこそ限られた人のみが時折、六平親子の様子を見にくる程度だ。この場に何故かいる見知らぬ少女が怪しい存在であることに変わりはなかったのだ。
そんな考えで「きみは一体誰なのか」という問いをチヒロが続けようとしたが……またもや彼は静姫に対してギョッとすることになる。
「……ぅ、あ、ぁっ!」
「えっ?」
なんと静姫は呻きながら、なみなみと目に涙を溜め始めたのだ。そして、その状態は一秒と保たずに決壊してはぼろぼろぼろと彼女の目元から大粒の雫が溢れ出し、六平の工房の床に大雨を降らした。
何やら只事ではない様子の静姫にチヒロは狼狽えるが……彼女はそんな彼のことには未だ気付くことなく、ただただ目の前の光景から目を離さない。
「はぁっ……!はぁっ……!」
「うぉ……?」
静姫は過呼吸でも起こしているのか忙しない息遣いで、激しく大きく肩を上下させ始めた。持っているレジ袋を放すことも忘れた両手で左胸を強く強く押さえる様子から、心臓を酷く痛めているようにも見える。
段々と立っていることもままならなくなったのか、コンクリート製の堅い床の上というのにも構わず、ゴンと音を鳴らしながら彼女は勢いよく膝をついて座り込んだ。そのまま体を仰け反らせては、大きく目を剥きながら夥しい量の涙を流し続けて、浅く間隔の短い呼吸を絶え間なく続ける静姫……傍から見てもこの少女が筆舌にし難い程に苦しんでいるのは明白だった。このままでは死んでしまうかもしれない、と本気で思ってしまうくらいだ。
それでも彼女は六平国重の一挙手一投足から決して視線を外さない。まるで、彼の鍛刀から生み出されては弾け消える火花で網膜までもを焼こうとせんばかりに……。
「ちょ、ちょっと……」
「はぁッ!はぁッはぁッ……!」
「っ!父さん!父さん、ちょっと来て!」
このままではまずい、と直感したチヒロは国重を呼んだ。確実に齢九歳の自分では対処しきれない事態だと判断の末、この場で唯一の大人に助けを求めた結果である。
「んー?……んぉ?」
「あっ……!」
完全に集中しきっていたせいか工房の入り口に現れた静姫に気づいていなかった国重だったが、いつも冷静な我が子の己を呼ぶ声には流石に反応したようだ。気の抜けた声でチヒロに答えながら入口の方へと体を向ければ、そこで彼はやっと彼女の存在に気付いたようだ。
国重の何気ない視線と、そんな彼の姿を全身全霊をかけて目に焼き付けていた少女の視線が……その時初めてかち合った。
「あっぁっ……!あ゛ぁ゛あぁあああーーーッ!」
「うわっ……!?」
「おっおっおっ……?」
二人の目が合ったその瞬間に、静姫の喉からヒギュッと何かが詰まったような音が鳴ったかと思えば、彼女は両手に持っていた荷物を投げ出し、仰け反らせていた身体を勢いよく前へと倒しては絶叫した。喉が引き攣ったり嘔吐くような音が大きく鳴るが、静姫は抑えられないのか……それとも抑える気もないのか、痛いだろうに堅く冷たい床に力の限り爪を立てながら蹲ってわんわん泣き続ける。
チヒロはその激しさに大いに戸惑ってしまい、隣でわたわたと行き場のない手を右往左往させる事しかできなかったが、国重はどうしたどうしたと軽く駆け寄って「とりあえず」とでもいうように、爪が剥げてしまうほど力強く床を握りしめる彼女の両手を自身の大きく分厚い掌で優しく包んだ。
急に手を取られた静姫はハッとして、ぼたぼたと涙を流しながらも目と鼻の先まで近寄った国重の顔を見上げた。国重はしっかりと彼女の目を見ながら口を開く。
「そんなことしたら痛いだろ。せっかく可愛くて綺麗な手なんだから大切にしないとだぞ」
まるで、駄々っ子に言い聞かせるようなそれでいて優しい国重の声に静姫はその目を見開いた。先程まで獣のように泣き喚いていたというのに、声の発し方を忘れたのかと思うほどに言葉を失った彼女は、ぐるるっと喉を鳴らしながらもきゅっと口を引き結ぶ。
そして、自分を落ち着かせるよう、ふぅう……ふうぅ……とゆっくり息を吐き始め……
「はっ……い゛っ……!」
……と、こっくり頷きながらがびがびな声で、静姫は確かにそう答えた。
ひとまず泣き止んでくれてよかった、と胸を撫で下ろすチヒロが彼女の発した、このたった二文字の重さを知る日が来るのは……ほんの少しだけ遠い未来である。