悪夢に目覚めた硝子玉は
私が目を覚したとき、見知らぬ天井がそこにはあった。若干、寝ぼけ気味の私は「実際にこんな感想を思い浮かべる時って本当にあるんだな」なんて呑気なことを考えてしまう。
まだ眠気が残ったままの私はゆっくりと身体を起こそうとしたが、それが叶うことはなかった。不思議なことに、自分の体がとても重いのだ……まるで全身に鉛を注がれたかのようにずっしりとしており、とてもじゃないが一人で起きられそうにない。
これは困った。私は今、猛烈に喉が乾いている。カラカラの喉奥に舌が張りつくようでヒリヒリと痛むのだが、これでは何も飲めそうにない。ぼうっとしたまま、とにかく声を出そうとすると、その張り付いた舌がベリッと剥がれたようで、私は盛大に咳き込む。ぜほげこっとみっともない音を出しながら燃えるように熱い気管支が震えて肺にまで痛みが走った。
起き上がれないし、ひたすらに苦しい。意識もはっきりとしないし頭痛までしてきた。何だろうこれは、私はもしかして死ぬのだろうか。そんなぐちゃぐちゃとした不安感に苛まれながら私が目の縁を濡らしゴホンガホンと咳き込み続けていると……
「ああ、起きたのかい」
私以外の誰かの声がすぐ近くで聞こえた。
ぼやける視界のまま目の端でその人物を捉えると、そこには中年くらいの、それでいてどことなく優雅なおじさまが座っていた。
「ェ゛オ゛ッン゛ン゛……!ァ゛あ゛……」
「ああ待て待て、落ち着きなさい」
私は戸惑いながらもそのおじさまに「おはようございます」のような挨拶をしようとしたが、喉が引き攣ってうまく話せなかった。ガーガーと鳴くアヒルだってもっと綺麗な声を出せるだろうと思わせるような醜く嗄れた声が出てしまう。
ちょっとだけ恥ずかしいな……私の声はよく綺麗だと家族や友達に褒められるのに。
彼は私に「無理に答えなくていい」と言って、備え付けのテーブルに置いてあったらしい水の入ったコップを差し出した。
「長い間ずっと眠っていたんだ。水だっていきなり飲むのは辛かろう。まずは少し水を含んで少し口内を湿らせなさい。そのままコップに戻していいから」
そう言っておじさまは私の寝ている寝台に腰をかけて、備え付けられていた機械のボタンをカチカチと押した。すると、ブブブと寝台は振動し始めて、起き上がれずに180度だった私の身体は少しずつ角度を取り戻す。どうやら介護用ベッドだったらしい。
私はとにかく喉の渇きを癒したくて、おじさまの言う通りにコップの水を口に含んだ。それから何度かくちゅくちゅペー、くちゅくちゅペーとコップの水を反芻する。その間のおじさまといえば、私の背中を撫でていててくれた。その触れ方は優しいと言うよりは少しだけ強めに擦る感覚に近く、私の肺の痛みを和らげるようだった。
私がガサガサだった口内を気の済むまで濡らしコップをさげようとすると、おじさまは「もういいのかい?」のこちらを伺ってきた。私はそれに無言のままうなづくと彼は今度はスポーツドリンクのペットボトルを手にとり蓋を開けてくれる。水分を摂りなさい、ということだろう。どうやら未開封のものだったらしくぱきりと音が鳴った。
ペットボトルの蓋くらい私にも開けられますよ、と言いたいところだが、さっきから怠くて身体に上手く力が入らない。おじさまがさっき、私のことを「長い間眠っていた」と言っていたし、おそらく著しく筋力が衰えているのだろう。ペットボトルの蓋を開ける腕力がなくてもおかしくはないし、今は彼のご厚意に甘えておく。
震える腕をなんとか伸ばして、私は手渡された冷たいスポーツドリンクをゴッキュゴッキュと喉を鳴らしながら飲む。そんなに飲めないだろうと思っていたのだが、水よりも塩味と甘味のあるドリンクは意外にも喉を通りやすく、自分でも思っていた以上に水分を欲していたことも併せて、半分以上も飲み干してしまった。
「すみ゛ま゛せん。ここ、なん……何処ですか?」
カラカラとキャップをゆっくり閉めて、チャプリとペットボトルをテーブルに置きながら私は彼にそう聞いた。
先ほどまで寝ていたのは分かるが、寝る前の記憶が私にはない。私はごくごく普通の一般的な花の女子高生なのだが、そんな人間が何故こんな煌びやかな洋風の……我が家のリビングの二倍はありそうな広い部屋の一室で寝ていたのだろう。
明らかにこの部屋で異質な存在は私と私の為だけに設えたような介護用ベッド、そして私の左腕に繋がっている点滴だ。これが真っ白い病室のような場所だったらまだ分かったのだが……。
「ここはね、きみの療養室だよ」
「えっ……?」
「きみは倒れてしまったからね。無理をさせないためにここで寝かせていたんだ」
「はぁ……?」
療養室?マジでここは病院なのだろうか?一人用の部屋で?ここの院長のセンスはなかなか……趣深いものらしい。
どれだけお金があるのかは知らないが、柱の造りだって素人目から見ても一流の職人さんに作らせたであろう凝ったデザインだし、あそこにある高そうな壺だってどう考えても必要ない。もっと別のところにお金をかければいいのに、お金持ちの考えることはよく分からないや。
いや、落ち着こう。私は今、そんな富豪層のお財布事情に思いを馳せている場合ではないはずだ。
「倒れ゛たって……?」
「まあ、待つといい。その話は長くなってしまう。お腹が空いているだろうし、その話はご飯を食べてからでもさせて貰おう」
「ご飯……」
「重湯を用意しているよ。なにせ一週間も寝ていたんだ。いきなり固形物は食べられないだろうしね」
「一周間……」
私はおじさまの言った言葉を鸚鵡のように辿々しく、そしてどこか他人事のように思いながら呟いてしまう。
一週間、一週間って。本当に長く眠っていたんだな。一週間も休んでたら授業の単位足りなくなってしまうんじゃなかろうか。そうしたら補習かな……そういやテストって何日からだっけ?絶対に授業の内容分かんないよ、ああ嫌だ嫌だな。もう努力なんて必要ないままに、お金持ちの家に嫁入りして悠々自適に暮らす日常になればいいのに。
なんてそんなこと考えてたら、いつも勉強を頑張ってるけんやくんとことちゃんに叱られてしまうかもしれないな。いろちゃんとひろたかくんは私側のような気もするけれど。
「さあ、食べさせてあげよう」
「……えっ」
庶民特有の突然空から五億降ってこないかな思考で現実逃避をしていたら、おじさまがそう言った。その手にはスプーンが握られている。
これは、そういうことだろうか。十七歳の私が?初対面のおじさまに?俗にいう『あーん』というやつをされる、と?待ってくれ、恥ずかしすぎるだろうそれは流石に。
「あ゛のっありがどうござい゛ます。重湯はありがたく頂こうと思います……」
「気にしないでくれ、私のすべきことだし」
「ただ、その゛……それ゛は流石に悪いというか」
「それ?それとはなんだい?」
「ちゃんと、重湯は自分で食べられま゛すよ……」
そう断って私は重湯を受け取ろうとしたが、おじさまはそれをにこやかに避けた。
「無理をしてはいけない」
「でも」
「私だって一人で食べられそうならそうさせてもいいのだけれど……」
彼はそう言って、テーブルに置かれたペットボトルにちらりと視線を向ける。
「このペットボトルを持ち上げることさえ一苦労をしていた女性に、重湯を一人で食べさせようとするのは、少し酷かと思ってね」
「……」
ごもっともである。もしかしたら私が器を取り落としてベッドを汚してしまう可能性だってある。
そうなってしまえば、私だけではなくおじさままで困ってしまうだろう。それは流石に申し訳ない。私の恥くらいなんだ、我慢しろって話だ。
私は観念して「あり゛がとうございます……」と言い、彼がスプーンで運んでくれる重湯をしおしおと口に含んだ。
おじさまは何故か「うんうん」と嬉しそうで、こくり、こくりと少しずつ重湯を飲み込む私を微笑みながら見つめている。
その間の私といえばされるがまま……それがなんだか、どう言えばいいのか分からないけど、とても良くないことのような気がしていた。
自立しなきゃとか、人に頼ってばかりじゃダメだとかそういう次元の話ではない。何か途轍もない恐ろしいことに気が付けていないような、そんな嫌な予感がしているのだ。
なにを馬鹿なことを、とは思う。彼は私を介護してくれているのだ。風貌がそれらしくはないが突然倒れ、一週間後に起きた私をお世話してくれる介護士のような人になんて失礼なことを考えるのだ、と心の中で自分自身を軽く叱咤する。
そういえば。
私は何故、倒れて一週間も昏睡するような状態になってしまったのだろう。
「小さなお口だね」
唐突に、彼がそう言った。
「……ぇ?」
「まるで雛鳥のようだ」
彼は私の顔を見つめていた……それはそれは、愛おしそうに。
その慈愛の瞳を見た瞬間に、私はゾッとした。
その目はよく語っていたのだ。彼の私への献身的な世話が介護ではなく、寵愛という呼ばれるものなのだと。
全く理解ができない。この人は見ず知らずのおじさまで、そんな彼が平々凡々な赤の他人の私のことを……何故そんなにも綺麗な硝子玉を愛でるかのような目線を向けることができるのだろう。
先ほどから覚えている嫌な予感というものが、足音を立ててすぐそこまで近づいているかのような怖気が私の背中一面に広がっている。
「ひっ……!」
「おや」
私は慄き反射的に小さく退く。口元に運ばれていたスプーンが歯にがちりと当たり、零れた重湯が私の口元を濡らした。
「あっ……!す、すみ゛ません……!」
「いや、構わないよ。それよりすぐに拭おう」
望んだわけではなくてもおじさまが与えるものを拒んでしまったことにより、私は何か大変なことをしてしまったのではないかと瞬間的に怯えてしまう。
慌てながら謝ったが彼は特に気にした様子はなかった……それどころか、私が彼を恐れているのを見て嬉しそうな雰囲気まで感じる。
おじさまは高そうな手拭いで私の口元を拭ってくれるが……その手付きがなんだかやわやわと下唇を撫でるようで、彼の目的が重湯を拭うことなのではなく手拭い越しに私の唇を触れることなのではないかと思えてしまった。
「あっあの……!」
「ん?」
その壊れ物を触れるような手付きに耐えられなくなった私は口を開く。喋っている間にも口を拭うことはないようでおじさまは手を引いた。
「えっと、その……」
「もしかして、もう重湯は要らないのかな?」
「あっ……はい、大丈夫です。ご馳走様でした、あり゛がとうございます……」
「なに、これくらいはお安い御用さ」
おじさまは「ご飯の後はきみが倒れた件についてという話だったかな」と言いながら、重湯が乗せられていたトレーをテーブルへと置き、私の方を向いた。
「きみは学校からの帰りで意識を失ってしまったんだよ。当時のことは覚えているかい?意識を失う直前のこととか」
「……いえ、全く」
「そうだね、それも無理もないだろう」
「あの……私は、何が理由で倒れ゛てしまったんでしょうか……?」
私はごくごく平凡の子供だ。毎朝早起きして新聞配達のアルバイトをしているとか、過酷なトレーニングを続けるスポーツ選手だとか、日常的に意識を保っていられない程の暴力を受けているだとか、そんなことは全くない普通のどこにでもいる女だ。倒れる原因というものに私は何一つ心当たりがない。
「ああ、私が昏睡させたからだよ」
彼が、軽い口調でそう言ってのけた。
まるで「今日は晴れていたから洗濯物は早く乾いたよ」みたいな……なんてことのないように、そんなことを。
「……は」
「いや、正しくは私が手配した者だけどね。ちょっと強めの睡眠薬のようなものを使ったんだ」
彼は「こう、プスリとね」と言いながら呆然としている私の腕に人差し指を突き立てた。そこを中心としてゾワゾワと広がる様に身体中に鳥肌が立つ。「身体に支障をきたすようなものじゃないから安心していいよ」なんて言葉が聞こえるがそんなこと、今はどうでも良かった。
「なっなん゛……で、そんな」
「何でそんなことを、かい?最もな疑問だ」
おじさまはくつくつと喉を鳴らしながら心底愉快そうに笑った。私には何故彼がそんなにも嬉しそうにできるのか、全く理解ができない。
「あれはご友人と一緒に下校していたところだったかな?ご友人に屈託のない笑顔と幸せそうな声を振りまくきみを一目見たとき……なんだか凄く欲しくなってしまったんだ」
「ほ、ほし……?」
「実のところ、私でもよく分からないのだけれどね。ほしくなったかといって、何かポジション的なものに指定もない。娘でもペットでも奴隷でもお人形さんでも愛人でも、そのどれにも値しない。まあ、何か立ち位置が欲しいというのであれば、その肩書きを与えてやってはいいけれど」
彼は寝台に座ったまま、私の頬に自身の手を添える。私は、はくはくと口を開けたり閉じたりと声にならない音を絞り出すことしか出来なかった。
「きみの魅力はいくつか挙げられる。けれど、惹かれてしまったこと自体には、おそらく概念的な要因が大きいだろうね。職業柄、そういった理由でものを欲しがる人達をよく見てきたが……まさか私にもきみのような、ただただ欲しいとしか思えない存在に巡り会えるとは思わなかった。嬉しく思うよ」
目の前の男が、私の輪郭を指ですーっと撫でる……顎に到達したその指をクイっと少し持ち上げて私の目を覗き込んだ。
彼の言うとおり、その慈愛の色の奥には確かにゆらゆらと燃えるような欲望の色も隠されていた。
「自己紹介が遅れたね。私の名前は漣京羅」
さあ、お嬢さん。きみを私にくれないか。
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