その五文字が愛らしくて
私が京羅さんに「『元の家に帰りたい』とでも言おうものなら私の家族と友達を殺してしまうよ」と言外に仄めかされた、あの日。
私は全身から血の気が引いてカタカタと震えるしか出来なかった。
「今日はもう疲れたろう。ゆっくり休んでほしい。ああ、きみに刺されている点滴は、きちんと食事を摂れるようになってから抜くつもりだよ。今はまだ重湯くらいしか食べられないだろうし。それから、抜いてからも食欲がないときには遠慮なく言ってくれ。また点滴を打つからね」
彼はにこやかにそう言った後、この部屋で生活を送る上での簡単な説明をしてくれた。
ご飯の時間や就寝時間、その他の日常生活を送る上での注意事項等を教えてもらったが、正直なところ私の心情はそれどころではなかった。とりあえず、思考を停止させたまま、壊れた人形のようにコクコクと首を縦に振るのみ。
京羅さんは勿論そんなことは想定済みで、注意事項の全てがまとめられていたしおりを備え付けのテーブルにそっと置いてくれた……まるで本当に入院しているかのような扱いである。何一つ、合意のものではないけれど。
「さて、最後に。きみを私にくれないか、という話はもう一度させてもらうつもりだよ……折を見てね。その時は色よい返事を期待しているけれど、嫌だった時は遠慮なく断ってくれて構わない」
「……え?」
ここまで私の今までの人生を粉々にしておきながら彼はそんなことを宣う。だけど、私は同時に拍子抜けしてしまった。
私の人権なんて私のものであるのは当然であるはずだ。でも、それを明け渡さなくてもいいと言われたことに戸惑ってしまうくらいには、私はこの空間の毒をしっかりと注がれてしまったようだ……私は、それが少しばかり哀しい。
「意外かい?」
「え、えと……」
確かに私は最初の「きみを私にくれないか」と言う問いには弾くように「嫌だ」と断った。その後、元の生活に戻ることも諦めた……否、諦めさせられたものの、彼の所有物になること自体に了承した覚えはなかった。
しかし、ここまでどうしようもない状況に私を追い込んでおきながら、京羅さんは私が京羅さんのものになることは断ってもいいと言う。
てっきり私は、これから強制的に彼のものにされてしまうのだと思っていたのだ。
頷かなければ私の大事にしていたもの全てを壊し尽くすぞ、と先ほどのように脅されてしまうのだと……。
「先ほども言ったけどね。私はきみのお願いは出来る限り叶えてあげたい、と思っているんだよ。ここまで無理を強いてしまった上では説得力も何もないかもしれないが、きみの意見はなるべく尊重したい」
京羅さんはそう言いながら、胸ポケットから出したものをテーブルにポンと置く。
それは……なんの変哲もないメモ帳とボールペン。
「欲しいものがあったら、遠慮せずにこれに書きなさい」
京羅さんは続けて、私にこの部屋での生活について付け加えて説明した。
「きみが私のものにならない限りはこの部屋から出してあげることはできない。外の世界へと連絡する手段も渡してあげられない。だけど、きみがこの部屋で暮らしている中では不自由なく過ごして欲しい。悠々自適に暮らしていて欲しいんだ」
外の世界の自由以外のものならば全て用意する。不自由の中で望むことなら何だって叶えてあげる、と京羅さんは言ってくれた。
けれど、そんなものが全てを失った私に存在するのか……とてもじゃないが想像できなかった。
「欲しいものなんて……」
「ないだろうね。少なくとも今は」
京羅さんはそう言いながら静かに立ち上がる。ベストをスッと伸ばして身だしなみを整えながら話を続ける。
「でも、人間というのは住んだ場所が都になった頃に、あれこれ欲しくなってしまうものなんだよ。生活に慣れたら次はこれがあると便利、あれがないと不便……そう感じることが多々あるだろう。そうでなくてもこの部屋にはきみのベッドとテーブル、シャワールームに手洗い場……日常生活に支障がない最低限の設備と何の足しにもならないだろう調度品くらいなものだ」
無理に欲しいものを見つけることはない。自然にこれが欲しい、とそう感じた時……具体的でも抽象的でもいいからメモに書き留めておきなさい。
京羅さんは私にそう言い残して部屋から出て行ってしまう。部屋に残されたのは、ポカンとしたままの私だけになってしまった。
「……」
しばらくの間、私はこれからの人生のことをゆっくり、しんみりと思いを巡らせていた。
これから私はどうなってしまうのだろう。京羅さんのものになるとはどういうことなのだろうか?
もしかして純潔を捧げることになってしまうのだろうか……でも、京羅さんはそんなやらしいこと考えているような感じしなかった。
というか、あれだけ綺麗な顔立ちの人が私みたいなちんちくりんに何かを考えるとは到底思えない。もしも本当にそういうことを考えているならもっとこう……愛の告白をしてきそうなものだけれど、今日のあの様子を見ると新しく家にやって来た仔猫ちゃんが愛らしくて仕方ない、みたいな感じだった気がする。
っていうか、本当に京羅さんのものって……何だ?どうなるんだ、私。
ああ、だめだ。これは完全に無限ループ思考だ。何を考えたって私には結局どうすることもできないんだろう。
とりあえず、これから出されるご飯はちゃんと食べよう。こんなイカレたことをするようなところのご飯なんて少しも食べたくなかったけれど、何も食べない選択をするなら、私はきっと死んでしまうか、この点滴と一生を共に過ごす羽目になるのだろう。
こんなことをされても、私はまだ命を諦めようという気は起きなかったし、真横の鉄の棒を生涯の伴侶として選ぶ気もない。
むしろ命の方はこんな危機に陥った後の方が強く願っている節さえあった。私がきっかけで一人の人が死んでいるというのに、私は自分の浅ましさが心底嫌になってしまう。
でも、だけども……。
「私がこれから死ぬことになったとして……それで外の世界のみんなの安全が保障されるなら。その時、私は助かりたいとは思わずに、受け入れちゃうのかも」
一通り、自分のことに思考を巡らせきった後、流れるように自然と私は外の世界に想いを馳せ始める。
家族や友達はこれから私抜きで、どう生きるのだろうか……どうにだって生きれるだろうな。
心の底から悲しんではくれるだろうし、死んでしまいたくはなるだろう。
でも、生きる術を失くすほどではないだろうし、私一人いなくなったくらいで今世を捨てようと振り切ってしまうほど何もない人達なんかではなかった。私以外にも捨てられないものはたくさんある人達ばかりだ。
友達には他の友達が、両親には私の兄が、兄には将来を誓う恋人がいる。それだけじゃなくてもっともっと大切なものはあるんだろう……今後は私がいなくても、それらがあの人達の人生を満たしてくれるんだろう。
私という喪失感はあっても、みんなが幸せに生きてくれるのなら……私は何も一つ文句はない。
とりあえず、私にできることは何一つないのだろう。ここから出て行くことを諦めたくはないのだが、足掻いたところで最悪の未来しかないというのなら、京羅さんの言う通りにしていた方が誰の幸せもこれ以上、壊されなくて済む。
「……寝よう」
だんだんと重たくなってきた瞼に逆らうことなく……京羅さんの言いつけに逆らうことなく。
今はただ、この羽毛の中に沈んでしまうことにした。
*
京羅さんはあの日に言った通り、あの部屋から出さない代わりに私の望むものは全て用意してくれた。
最初に願ったものは勿論「家族や友人の安否を知ること」だった。
家に戻りたいとは言わないけれど、私の存在一つで人が死ぬ結果を出してしまった。私に関わってきた人達がこの京羅さんに壊されてしまうのではないか、と不安で眠れない日々が続いたのだ。
メモのことは渡された日からたった一晩寝ただけで忘れてしまっていた。でも、夜に泣きながら広い部屋を徘徊していた時にテーブルにあったそれを見て、私はその存在を思い出したのだ。大粒の雨のように涙で紙を濡らしながら、震える手で書いた一文は『みんながしんぱい』だった。
正直、小学生でももうちょっと上手に書けるだろう、というくらいには文字はぐちゃぐちゃで、なんと書いてあるのか他人には解読は難しいだろう。ただ、私はその胸の内を何かにぶつけずにはいられなかったのだ。
「ご所望のものはこれでいいかい?」
その二日後、京羅さんは私の部屋に来て一冊の本を差し出した。
私は一週間ぶりの京羅さんの姿を見て、それはそれは無様に怯えてしまったものだ。彼は私をこの部屋に閉じ込めてからずっと姿を現さなかったのに。
食事係の人に京羅さんのことを少しだけ聞いたのだけれど、彼は『漣家』という妖術師一家の当主であるらしく、非常に毎日忙しい日々を過ごしているらしい。だから暫くの間、京羅さんは私に会いに来ることは難しいと踏んでいたのに。
やんわり微笑んでいる目の前の京羅さんの蒼い瞳が、次の瞬間には氷のように凍てついてしまうかもしれない。彼の機嫌を損ねては私の身にはこれ以上の不幸が降り注ぐだろう。
その未来を恐れ、私は震える手でその本を受け取ると、それはどうやら薄めのアルバムのようだった。
「……!」
私は不思議に思いながらもページを捲ると、それはここ一週間の家族や友人たちの写真がずらりと並んでいた。テレビ局の人達に囲まれているところから、過去の写真というわけでもなさそうである。
「きみは優しい子だろうから、きっと自分の身よりもご家族や友人のことを気にするだろうとね。先に撮り溜めておいたんだ」
私が何かを聞く前に京羅さんはそう言った。
「喜んでくれたかな?」
「……」
確かに京羅さんは私の望んだように、私の大切な人達の無事を教えてくれた。私はそれを喜ぶべきなのに……彼の問いに私は素直に首を縦に振ることは出来なかった。
「笑って、ないですね……」
「まだ一週間だからね。いや、正確に言えば二週間か。きみが世間から消えてから」
何故なら全員の表情に笑顔がなかったからだ。それどころか泣いているものまである。どうやら、私がいなくなったことは一、二週間程度で癒えるような傷ではないらしい。
こうなってしまった私の方から言えば、みんなにはもう私のことは忘れてほしかった。私自身、底知れない寂しさを覚えることは確実だが……それ以上にみんなには悲しい思いを背負いながら生きて欲しくはないのだ。
「これから一週間ごとに君のもとにアルバムを届けに来よう」
「え?」
私があまり喜ばしくない表情をしていると、彼は唐突にそう言う。
「無論きみが望むなら、届けるのは別の人間に任せる。まだ私のことが怖いだろうから」
「え、えと……」
「どうする?君の好きなように言ってくれていいんだよ」
「……も、もらえるならアルバムは、これからも、欲しいです。でも、その京羅さんはその……御当主様で、お忙しいとお聞きしましたからその……」
正直、もう二度とみんなの顔を見ることはないと思っていた。写真とはいえ、これからのみんなの様子を知れるのであれば、勿論アルバムは今後も欲しい。
けれど、京羅さんのことは彼の言う通りまだ私には完全な恐怖対象だ。だからと言って、はっきり「あなたのことが怖いです」と伝えて京羅さんの機嫌を損ねてしまえばどうなるか分かったものじゃない。
言外に「別の人に任せてください」と伝えれば、京羅さんは優しく微笑んで「では、これからは私の息子に持って来させることにしよう」と席を立った。
「では、私はこれでお暇させて頂くよ。アルバムにはきみのご家族や友人の近況を書いたものも挟んでいるからゆっくり読むといい。また何か欲しいものがあったら遠慮なくメモに書きなさい」
「あっ……ま、待ってください!」
それでは、と言いながら扉の方へと足を運ぶ京羅さんを、私は思わず呼び止めてしまう。彼は私のその言葉に意外そうな表情でこちらを振り返った。
「どうかしたのかな?今すぐに欲しいものがあるのかい?言ってごらん、すぐに手配しよう」
「あっと、いえ、そうじゃなくて」
「?」
京羅さんは私の真意を汲み取れないようで、顎に手を当てながらはてなマークを浮かべていた。
まだ数回しか会ってないから、彼のことはあまり知らないのだがなんとなく珍しいな、と感じてしまう。
しかし、そんなことを考えている暇はない。京羅さんの時間を取らせてはまずいだろうと、私はさっさと伝えてしまおうと言葉を続けた。
「あの、ありがとうございます、アルバム。嬉しかったです……」
「……!」
「えっ」
京羅さんは私の言葉を聞いた途端に目を見開いた。まさかそんな表情をされるとは思っていなかった私は、ワタワタと慌ててしまう。
もう叶うことはないと思っていたことを、京羅さんは叶えてくれた。それに感謝の言葉を伝えただけなのだが、何か良くないことを言ってしまったのかも知れない。
まずい、まずい……!自分の顔がどんどん青くなっていくのが分かった。
「はははっ……!」
すぐに謝ろう、と私は口を開こうとしたが……それよりも先に京羅さんは笑い始めた。
口に手を当て、お腹を抑えて体を少しだけ折り曲げて笑うその姿は心底おかしい、と言わんばかりに。
何故、笑われているのか私には全く見当もつかなかったのだが、どうやら気分を害しているわけではなさそうで私は少し安堵する。
「あ、あの、それだけです。すみません、呼び止めてしまって……」
「はは……いいや、謝ることはないよ。こちらこそ急に笑ってしまって、すまない」
少し経って落ち着いたらしい。京羅さんは目尻に浮いた涙をちょいと指で払いながら、いつも通り私に微笑みかける。その笑顔は、一週間前に私に絶望を与えたものと全く同じであるはずだ。それなのに……。
「私は、きみのそういうところを……とても好ましく思うよ」
今日の私はその彼の微笑みを、どこか良いモノのように感じ始めていた。
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