終わりの足音が忍び寄る


「天理から聞いたよ」
「……?」

 いつもなら月に二回程度の京羅さんとのティータイム、だったのだが……珍しく、今月三回目のお茶を京羅さんと共にしていた。
 私はお茶請けのフィナンシェを口に運ぶ手を止めて京羅さんに「何をですか?」と言葉を返した。

「アルバムはもう必要ない、と言ったそうだね」
「あっ……はい。今までご用意していただき、ありがとうございました」
「いいんだよ。あのくらいはお安い御用だからね」
 
 数日前に天理さんに持って来てもらったアルバム。
 兄が無事に結婚したことを知った私は、家族や友人達の写真を収めたアルバムはこれで最後にしてもらうように天理さんにお願いしたのだ。

「いやなに、少し気になってしまったんだ。何故、アルバムはもう必要ないのか。その理由を教えてくれると嬉しいのだけれど……」
「やっぱり、ちょっと不思議ですよね……」

 実際、私が天理さんにアルバムはもう必要ない、と伝えた時にも彼は目を丸くしていた。私はフィナンシェをもく、と口に含みながら当時の天理さんのことを思い出す。
 あの時の天理さんは少し様子がおかしかった。定期的なアルバムの届けという任務がなくなれば彼の負担は少なくなる筈なのに、少しも嬉しそうじゃなかった。それどころか私に対して「後悔するんじゃないぞ」と睨んできたのだ。確かに、アルバムがなくなると私が外の世界のみんなのことを知る方法は皆無になる。寂しさを覚えるかもしれないけれど。
 それでも、あんな脅すような……それでいて憐れむような表情をされるとは思っていなかった。あの天理さんには少し怖くなって、いつも通り手を振ることは出来ずに、ざわざわとした感情が胸中を少し荒らしたものだ。
 私はあの時の居心地の悪い感覚を飲み込んで忘れてしまおうと、もくもくとフィナンシェを味わい、こくりと嚥下する。
 それにしても、紅茶もお茶請けのお菓子も毎回毎回、舌が蕩けてしまうような美味なものばかり。歯触りに心地よいサクサク感、ジュワッとしていながらも決してしつこくない甘みがとてもマッチしている。
 経験したことのない口の中に広がる上品な香りで分かる……きっと外の世界で生きていた私なんかじゃ、とてもお目にかかれない様な代物ばかりなんだろう。
 とても美味しくて素敵なものばかりだけれど、何だか前によく食べていたじゃがるこの味が恋しくなってしまう。こんな贅沢をさせてもらっている身でなんて無礼者なんだろうか、とも思うので口に出すことはないけれど……すみません、なにぶん庶民の貧乏舌なもので……。
 
「でも、なんだか安心しちゃったんです。兄が結婚したことで……元々、アルバムは家族や友人のみんなのことが心配で欲しくなった物ですし……」

 最初こそ見られなかった笑顔も、時が経つに連れて少しずつみんなの表情に浮かぶ様になっていった。それに少し安心して毎週から毎月に変えてもらったし……今回の結納写真を見て私は確信したのだ。
 みんなの心に私がいない悲しみが残り続けていたとしても、それがみんなの幸せを妨げる障害にはならない、と……なら私が心配することは何一つないのだろうと。

「それにほら、歌でもよくあるじゃないですか。亡くなった人側が「私のことで悲しまないで」という感じの歌詞が」

 私は世間では既に死去していることになっている。つまりこのアルバムは……謂わば、亡霊である私がみんなのことが心配なあまりに成仏できず、常に周りで纏わりついている様な状態なのだ。

「私はみんなのこと、大好きです。だからこそ、私のことで悲しまないで欲しい……私ならそんな風に考えるって、みんなも分かっていると思います。だから、あちらも私がいなくても心配しないで、安心してと思うんじゃないかなって。だって私が逆の立場だったら同じこと思うはずだから……」

 だから、もう私は成仏するべきなのだ。これからの人生で、みんなのことを全く気にしないことは出来ないだろうが……これから先、幸福を享受できるはずのみんなを信頼して黄泉の世界で静かに暮らしていくべきなんだろう。

「そう思ったから、私はもう大丈夫なんです。長い期間アルバムを用意してくれて嬉しかったです。重ね重ね、ありがとうございました」

 私がそう言いながら頭を下げると、京羅さんはにこやかに「それはよかった」と言いながら、ティーカップをカタリとソーサーに置いた。
 今になって思うけれど、私がこんな風に京羅さんの優雅にお茶をするなんて思わなかった。何故なら、私は彼に拉致監禁されている身なのだ。きっともっと人権を侵害するような扱いをされるに違いないと怯えていたのに……京羅さんは私がこうして欲しい、ああして欲しいという要望をできる限り聞いてくれる。
 簡単に言ってしまうと、京羅さんは私に優しいのだ。こんな風に丁重な扱いを享受しているのだから、私は彼が以前に言っていた「私が京羅さんのものになる」ことくらいした方が良いのではなかろうか?
 それによって、何がどう変わるのか見当もつかないが、ちょっと考えを改めるべきなのかもしれない。

「ところで、硝子さん」
「……っあ!っは、はイ!何デショウか!」

 そんなことをぼんやりと考えていたせいで、京羅さんの言葉にワンテンポ遅れて返事をしてしまった。
 出す必要のない裏声が出てしまって恥ずかしい。ああ、やめて下さい京羅さん「はは、やっぱり可愛らしいね」なんて言わないでください、絶対顔から火が出ている。鎮火鎮火。

「話は変わるのだけれど……硝子さんは私が以前、きみに言ったことを覚えているかい?」
「い、以前ですか?」

 私が赤くなった頬を両手で抑えていると京羅さんがそう聞いてきた。
 以前に言ったこと。それって、もしかして……。

「私が京羅さんのものになるか、という交渉をする……という話ですか?」
「驚いたな、正解だよ。もしかして、考えていてくれたのかい?」
「あ、えっと……ついさっき、ふと思い出していたところだったので……」
「なるほどね」

 京羅さんは、私の答えによって先ほどの裏声の真相を理解したようだった。
 あっだめだこれ、くすくす笑われている。や、やめて下さい、火に油を注がないでくださ……ああーっ!
 そんな心境で、思わず身体がワナワナ震えてしまった私に彼は「いや、済まないね。決してきみを乏している意図はないんだよ」と言ってくれた。いや、それは分かっているのだけれど……!ウギュッ……と私は恥ずかしさに身体を縮こませてしまった。
 そんな私を見て京羅さんは「いけない、いけない」と言うように、コホンと咳払いを一つ……そして再び口を開いた。

「さて、硝子さん……私はまた、あの交渉をしてもいいのかな?」
「……えと」

 あの交渉……私が京羅さんのものになるのかどうかについて。
 正直、私は先程「私は京羅さんのものになるべきではないのか?」と考えはした。したけれども……何度も言うようだが、それによってどういうことになるのか、私には分からないのだ。
 それだというのに、軽率にイエスと答えてはいけないような気がした。何だか漠然とした不安を覚えるし、頭の中でも警鐘が鳴っている。優しい京羅さんにこんなことを考えてしまうのは申し訳ないのだけれど……。

「ちょっと、質問をしてもいいですか?」
「構わないよ。何かな?」
「私が京羅さんのものになるとして。そのあとに、私は何かするべきことってありますか?」
「ああっそのことについて話していなかったね……!私としたことが失念していたよ、申し訳ない」
「い、いえっそんな滅相もない……!」

 うっかりしていた、とでも言うように京羅さんは片手で口元を軽く覆った。京羅さんはいつだって優雅だけれど、たまにほんのりフランクなリアクションをする。こういうところから厳格すぎる性格ではないらしいと理解できるし、意外と話しやすい人だった。

「私のものになる、という点で何も特別なことをさせる気はないよ。この部屋から出てもらったあとに、きみにはここより少しだけ狭い個室をあてがおうと思っているよ。ああ、もちろん私の屋敷にね」
「まあ、ここは確かに私一人が生活するには少し広いですからね……」

 何せ、浴室もお手洗いもシンクも……ありとあらゆるものが完備されている部屋だ。そりゃあ広くもなる。

「この部屋から出た後は漣家の敷地からでなければ自由に歩き回って構わない。もちろん、勝手に誰かの部屋に入るのは駄目だけれどね」
「あはは、そんなことしたら天理さんに叱られそうです」
「確かに。天理はしっかりしているからね」

 もちろん、京羅さんの言ったようなマナー違反をする気はさらさらない。ただ、勝手に私が誰かの部屋に入って叱られる日常を少し想像して何だか笑ってしまった。そうか、これからは私はいつも部屋に誰かが入って来ていたのだけれど、私がこれから誰かの部屋に行くこともあるのか。
 それから、京羅さんは漣家のことについて軽く説明してくれた。養子の子供達がいつも鍛錬しているけれど出来たらたまに構ってあげてほしい、とか入浴の時間は決まっているからそれは守ってほしいとか……広いお屋敷で暮らす上でのルールとかいろんなことを教えてくれた。多分だけれど、きっとまたしおりのようなものをくれるんだろうな、と何となく考えていた。

「そして、硝子さんには……また、こうして私と一緒にお茶をしてほしい。特別やってほしいということは、あまりないかな。私はただきみに漣家の人間として生活してほしいというだけなのだから」
「そうです、か……」
「おや?不思議そうだね。何か引っかかることでもあるのかな?」
「あ、ええと、ちょっとだけ……」

 京羅さんが私が彼のものになった後にしてほしいことを話してくれるについて、私は少しずつ分からなくなってくれる。
 その内容に何一つ難しいことはない。ただ家のルールを守ってほしい、というだけなのだ。
 私はこれから居候という形に収まるはず。それに従うのは当たり前だ。そして、漣家の人達と節度のある交流を深めることも当然のこと。

「それってこのお部屋と場所が変わるだけで、今までの生活と何も変わらないですよね?」
 
 普通の……ごく普通のことなのだ。
 だからこそ、私には腑に落ちない。

「私が京羅さんのものになる必要って、あるんですか……?」

 そう、不思議なのだ。別にそんな大仰な言い方をしなくたって、私はこの部屋から出たらやっていただろう。
 それなのに、私をわざわざこんな大掛かりな設備を整えてまで、この部屋で長い期間生活をさせて……この部屋から出た後にも特別なことをさせるつもりがないのだと言う。きっと、何かの手伝いくらいはしないといけないのではとは思っていたのに。
 しかし、私が単純なその疑問をなんとなしに口にした瞬間……。

「……」
「っ……」

 京羅さんの目は急に温度を失った。スウッと細められた眼光……そこから覗ける瞳の色は氷のように酷く、酷く冷たい。
 そんな目で私を見る彼は初めてで、思わずびくりと肩を跳ねさせてしまう。
 しかし、それは一瞬のこと。京羅さんはゆっくり瞬きをして、再び私に先ほどまでの慈愛に溢れた色の瞳を見せた。
 先程までの凍てつくような視線がまるで嘘だったよう。氷を溶かす初春の日差しのような温かいそれに、私はそれに少しだけ安心する。
 だけど、私の心にはあの冷たい瞳が完全に消えることはなかった。決して溶けることのない、氷の楔を打ち込まれたようにチクリと痛む。

「必要ならあるさ」
「え……?」

 京羅さんは先程の間なんて最初からなかったように話を続けた……私の心を置いてけぼりにするように。

「私が当主を務めている漣家はね、例外はあるにしろ皆が皆、優秀な妖術師ばかりだ。きみも天理から話を聞いていただろう」
「は、はい……」
「その中で、硝子さん。きみはとてもか弱い存在なんだ。力を持つ者は時に、力を持たぬ者に不要な牙を剥く場合がある……悲しいことにね。もしもきみがそんな危険な目に遭うことがあったら、私はとても悲しい」
「危険……」
「そこで、薄雲硝子という少女は漣京羅のものであるという確たる事実が欲しい。それを周知しておけば、誰もきみに危害は加えない……なんと言ったって私は当主だからね。当主に逆らうような破天荒な人間はいないだろう?」
「……」

 一理ある気がした。今までの私だったら、すんなりと納得して「京羅さんはなんて気遣いの出来る人だろう」と感心していただろう。
 しかし、私はそれに簡単に首肯することが出来なくなっていた。
 不意に「後悔するんじゃないぞ」という天理さんの声が再び私の胸の内で木霊し始める。それを胃のなかに戻そうと私は紅茶を口に運び、こくりとティーカップの中身を飲み干した。あんなに美味しかったはずの紅茶なのに……全く味がしなかった。

「ああ、最後に一番重要なことを言っておかなくてはならないな」
「……重要、ですか?」
「なに、重要と言っても先程言っていたことと何も変わらない……至極当然のことだから安心してほしい」

 おかしいな。私はずっと、京羅さんのものになることに納得したくて、イエスと言いたくて。彼からの説明が欲しくて楽しくお茶をしていたはずなのに。

「硝子さん。これから、きみは……」

 今は耳を塞ぎたくて仕方がなかった……京羅さんの喉から発せられる、その先の言葉を聞きたくなかった。

「外の世界のご家族や友人のことを全て忘れ、彼らとの繋がりの一切を断つと誓いなさい」



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