今一度生まれ堕ちようか


「な、なんで……?」

 私の身体はカタカタと震え始めた……初めて京羅さんと会った時のように。

「わ、私は確かにアルバムはもう要らないと言いました。でも、それはっ……外の世界のみんなのことを忘れてしまおうと思ってのことではありません……!なのに、なんで……!」

 今の私は怪しい薬を打たれているわけでもなく、ただ京羅さんと楽しくお茶をしているだけのはずなのに、目の前の彼があの時の同じようにとても恐ろしい存在のようにしか思えない。

「なんでも何も、当然のことだ」
 
 いや、きっと……その表現は正しくない。

「きみも言っていただろう?薄雲硝子は亡霊だと。そんなきみが漣家の人間になるということは転生することと同義なんだよ」

 今まで私と楽しくお話をしていた京羅さんも、あの時に私から外の世界を奪った京羅さんも……ずっとずっと同じ『漣京羅』だったのだ。
 
「生まれ変わった人間が、いつまでも前世の繋がりに囚われてはいけない……そうは思わないかい?」

 京羅さんはなんてことのないように、そんな無茶苦茶な理論を私に突き付けた。
 何が京羅さんは私に優しい、なのだろう。
 私はずっとずっと、忘れはしなかった。私がきっかけで殺されてしまった人がいるということを。
 でも、私は愚かなことに……その女性を殺した人間を忘れていた。
 彼だ。彼が殺した。殺したじゃないか。
 私を、そして何の罪もない名も知らぬ女性を二人同時に……漣京羅が殺したんだ。
 どうして、私はそんなことまで忘れてしまっていたのだろう。

「や、やだ……!」
「やだ?どうしてかな、先程まで前向きに検討してくれていたように見えていたのだけれど」
「おかしいです、そんなの……!どうかしてます……!」
「おや?忘れてしまっているようだね。私はとっくの昔にどうかしてしまっているよ」
 
 京羅さんはのうのうとそんなことを宣う。
 彼は分かっているはずなのに。こんなに外の世界を愛している私が、その全てを忘れるなんて出来るはずもないのに。

「まあ、嫌だというのなら仕方ないね。硝子さんはきっとこれも忘れてしまっているだろうから、もう一度だけ言っておくけれど……きみはこれからする交渉を遠慮なく断ってくれても構わない」
「……っあ」
「そうすればきみはずっと外の世界を愛し続けることが出来るよ」

 そうだ。あの時、京羅さんは私に「断ってもいい」と確かに言った。
 そのことを思い出した私は……安心したかった。地に足をつけて深呼吸をしたかった。でも、出来なかった。
 何故なら、この人が私の安寧を無条件に許すはずがなかったから。底知れぬ不安に私はどこに足をつけてよいかも分からず、その浮遊感に未だ怯え続けている。

「加えて、私はきみに再び拒否されてしまったら……もう諦めてしまおうと思っている」
「あき、らめ……?」
「きみのような若い女性に「私のものになってくれ」と一度ならず二度までも断られて……それでも必死に追い縋るのはとても惨めだろう?しかも、私のようなおじさんがだ」
「……あ、諦めてくれるんです、か?本当に……?」
「ああ、もちろんだよ」

 京羅さんは「諦める」と言ったら本当にそうしてくれるのだろう。そこには確かな信頼があった。でも、私はそれを好機だとは一切思えない……思えるはずがない。
 京羅さんにとって羽虫のようにか弱い存在……そんな私の抵抗がこの状況をひっくり返せる有効打になり得るはずがなかった。

「今回もまた拒否をされてしまったその時は……私はきみを私のものにするのを諦めて『薄雲硝子』という人間を永遠にここに閉じ込めておくことにするよ」
「っ……!」

 そら来た。京羅さんはこうして私の心を壊しに来るんだ。
 今回を逃せば私は本当に自然の空気を肺に取り込むことも叶わなくなってしまうのだろう。お日様の光と縁を切り、人間の偽物のような生き方を強いられてはその生涯を終えるしかなくなるのだ。
 でも、それでも……。

「外の世界の……家族や、友達みんなを捨てるくらいなら、私は……!」

 みんなのことを忘れるくらいなら、私はそれでも良いと思った。私は馬鹿みたいにみんなのことが大好きで堪らないのだから。

「だから、だから、私はそんな交渉を持ちかけられても、首を縦に振ることは……」
「そうだね。私はよく分かっているよ。硝子さんはご家族や友人のみんなをとても深く深く愛している。それがきみの美点の一つだ」
「……?」

 永遠にこの部屋に囚われても、外のみんなとの繋がりを切るつもりはない。それは私の中では人生の全てを賭けるくらいの覚悟を持って答えたつもりだった。
 しかし、京羅さんは私の言葉を聞いて更に嬉しそうに頷きながら自分の顎をスゥッと撫でる。いやに上機嫌だ……不気味なほどに。

「きょ……」
「ん?」
「京羅さん、は……私を永遠に飼い殺しにしても、構わないんですか……?」
「そうだね。硝子さんは是非とも漣家の人間になって欲しいのだけれど、正直に言えば私はきみとたまにこうしてお話さえできればそれでいい。きみが先程に言っていた通り、硝子さんが私のものになろうがなるまいが……私の日常に然程変化はないんだ」
「じゃあ、どうして……」

 どうして、私を不必要に怯えさせるようなことをするのだろう。
 京羅さんは特に私が怖がっている様子を愉しんでいるようには見えない。
 私に理不尽な不自由を強要するのに、不自由の中での自由は可能な限り許してくれる。
 外の世界を捨てろというくせに、外の世界を愛するところは私の良いところだとも言う。
 彼の言動は全てちぐはぐで、一貫性も何もない。

「そうだね……」

 だからこそ、恐ろしい。

「きみはまだ実感が湧いていないみたいだから、分かりやすく教えてあげよう」

 京羅さんが何を企んでいるのかは分からないけれど。
 それでも……。

「この部屋はね」
 
 きっと私には想像もつかないような絶望を突きつける準備をしているのだ、ということだけは分かってしまうから。

「決してきみの安寧を守れるようなものではないんだよ」
 
 べきりっ!

「__イッ!?……ぇ、あ?」

 部屋に響く乾いた音と、突如として私を襲う一瞬の衝撃。
 そして痒いような、痛いような、左手小指の違和感。

「ああ、良かった。血は出なかったようだ。綺麗にいけたね」

 京羅さんがテーブルに置かれた私の左手をそっと取る。恭しく持ち上げられた自身の手……その小指を私は目にしてしまった。
 おかしかった。
 まるで、いつも見る自身の手のパースが狂っているようで……私の小指の爪が第一関節部分までずれ込み、乗り上げていたのだ。

「えっえ、え?……え?」
「初めてだったかな。爪が脱臼すること」

 爪。脱臼。
 確かに初めてだった。骨が脱臼するという話は聞くけれど、爪だって脱臼することがあるのか……と私はどうでもいいことを考えていた。
 もっと重要なことがあるのには気づいていたけれど、私の頭がそれ以上思考することを阻止されているみたいだ。
 何故、突然誰にも触られないままに、私の爪が脱臼するような事態になったのか、考えるべきだったのに……考えたところでどうしようもないところまで堕ちてしまっていることに気付くために。

「まだ薄皮にくっついているようだ」
「えっ……いッ!痛ッ……!いやっ!いやぁっ!」
「ああ、ごめんね。少しの間我慢していてくれ。どこかに引っかけて雑に剥げてしまったら血が出てしまうかもしれないから」

 ずれてしまった私の小指の爪は、ぺり、ぺり……と指の皮から少しずつ剥がされていく。
 私には目の前の光景の全てが信じられない……まるで、私の爪が全く知らない生き物のように、ひとりで動いていたのだ。
 私はそれがとにかく気持ち悪くて、理解ができなくて半狂乱になりながら暴れたものの……私の左腕をガッチリと掴む京羅さんの太い腕がそれを許さなかった。

「ひゃっ……!」
 
 ぴっ!と小さな音と共に、私の指は痛みから解放された。しかし、じんじんとした感触だけは、いまだ私から離れようとはしてくれない。

「綺麗に取れたよ。見てみなさい」

 京羅さんは私の腕を離さないまま、からっと音を立てて毟り取った私の爪をテーブルに置く。
 綺麗なティーセットにレースのテーブルクロス。そこに一つぽつんと置かれた、私の一部だったモノ……ゾッとするほどにアンバランスだった。
 私が青い顔をしていることなんてどうでもいいことのように「乱暴に腕を掴んでしまってごめんよ」と言いながら、京羅さんはそのまま私の左手を恭しく、彼の大きな両手で包み込んだ。
 そこから覗くのは……いつも爪の下に隠れていたはずのもの。
 爪がなくなった影響か、表面が少し収縮してシワシワになった薄皮……それに包まれている柘榴色のナニカ。

「ほらご覧。きみの肉の色だ」

 京羅さんは親指で私の小指の腹をするりと撫でては、見せつけるようにくいっと持ち上げた。

「このぶんだときちんと新しい爪が生えるだろう。十分な長さになるには一ヶ月ほどかな。ああ、ただ小さな貝殻のような可愛らしい爪の形は少し歪んでしまうかもしれないね。申し訳ない。お詫びと言ってはなんだが、生えそろった時には綺麗なネイルできみの爪を彩らせてくれないかい?」

 京羅さんが何か、色々話していたが、その言葉は私の耳から耳へと通り抜けていく……私は焦点の定まらない瞳でじっと自分の小指を見つめ続けていた。
 肉、私の肉の色……鎧のような硬い爪がなくなったせいで露わになった、少し針を当てるだけでぷつりと破れてしまいそうな薄い皮の下に、私の血と肉と骨が。骨が、肉が。

「ッ!キャァアァアアアーーーッ!!」

 もはやそれは拒否ではなく、悲鳴だった。
 私はもう一度、力の限りに自分の腕を振る……すると今度は京羅さんは思いの外、簡単に私を解放した。
 なりふり構っていられなかった私はその反動で無様に椅子から転げ落ちてしまったけれど……床に打ちつけた腰の痛みなど、今この状況では今更どうでもよかった。
 なんだ、なんだったんだ、さっきの現象は。それに、私の爪を、京羅さんが。私のことを決して害さないと信じて疑っていなかった、京羅さんが私の爪を、私を、私のことをッ……!

__『決してきみの安寧を守れるようなものではないんだよ』

 私は京羅さんがついさっき言ったばかりの言葉を思い返す。
 四季が移り変わるほどに長い期間ここに住んでいたのに……私はこの部屋のことを、全く何も理解していなかったのだとそこで初めて実感した。
 この部屋には、どうして窓の一つもないのだろう。
 どうして、誰かが廊下を歩く音すらないのだろう。
 どうして、この部屋を誰かが訪れるときに見える……扉を開けた先はいつだって暗闇なのだろう。
 ここに、いれば、私は絶対に大丈夫だと思っていたのに。ここは、ここは……。

 ここは、一体何処なんだ。

「説明する必要はないと思っていたけれどね。こうなれば、そろそろ伝えていたほうがいいだろうと思い実演させてもらったよ」

 左手を隠しながら蹲り、恐怖に打ち震えている私のことなど、一切気にも止めずに京羅さんは語り始めた……この部屋の真相を。

「ここは『蔵』という名の異空間……私の妖術だよ」

 蔵。それは異空間を作り出し、様々なものを保管しておける妖術だと京羅さんは言った。そこには彼が『登録』したものを現実世界やこの異空間に自由に転送できるのだという。
 そして、この異空間の中は京羅さんの世界であり、どんなものでも自由自在に操れる。手に触れずとも、私の爪を剥がすことだって……私のことを痛めつけることなんて、簡単なことだったのだ。
 私は、そんな世界でずっと……悠々と過ごしてきた。危険なんて何もないかのように。

「もちろん、今この瞬間にでも、私はきみを殺すことだってできる」
「ヒッ……!」
「大量のナイフを飛ばし、きみに突き立てぐちゃぐちゃになるまで切り刻むことも、きみの体の中に爆弾を転送し内側から肉体を爆ぜさせることも、きみの顔の周りにだけ水を固着させ苦しみもがいたのちに溺死させることだって全て造作もないことだよ」

 京羅さんはそんな凄惨な私の死に様をつらつらと並べ立てた後に、にっこりとした微笑みをこちらに向けて「まあ、しないけれど」と軽く言ってのけた……今更、そんなことを言われたって私は一切安心などできない。

「私が言いたいのはね、きみはそれでいいのかって話なんだ」
「そ、な、は、は……え、え、やっ……!」
「ああ、可哀想に。動転しているね」

 京羅さんはやっとカタリと椅子から立ち上がり、這いつくばる私の方へと近づいてくる。
 その一歩一歩の足取りさえ怖くて恐ろしくて、私の涙腺は限界を訴えて崩壊した。

「い、いやっ!こ、こない、で……!来ないでぇ!」
「落ち着いて。もう痛いことはしないよ。ごめんね、こんなに怖がらせるつもりはなかったのだけれど」

 逃げなきゃと思った。ここから逃げ出さなくては、と。
 それがどんなに無理なことだって、できっこないことだって、どうだっていいから逃げなきゃと思った。
 それなのに、私は情けないことに腰が抜けているようで、逃げ出すどころか……その場で一歩も動けずに、膝をついて私の頬を包む京羅さんの手を受け入れることしかできなかった。

「もしも、もしもだ。きみが私のものになることを拒めば、きみはここから一生出られない。それが意味することはね、こんな風に私の手が首にかかった状態で、きみはこの先の数十年の余生を生きていくことになるんだ。ご飯を食べている時も、寝ている時も、天理と話をしている時も、この部屋から出ることと引き換えに選んだきみの愛する外の世界に想いを馳せている時も……ずっと、ずぅうーーーーーっと……」

 私は目の前が霞んでいくような感覚がした。上手く、上手く息が吸えない。酸素が足りない……苦しい、苦しい!
 京羅さんは一切、手に力を入れてない。ただ、私の頬に手を添えているだけだ……きっと、本当に京羅さんは私を殺すことをしないのだろう。
 ただ、ずっと、この先ずっと。私の命が尽きるまで、私の生殺与奪の権を握り続ける気なのだろう。

 ……助かりたい、と思った。

 私はきっと、この部屋に来たときにも助かりたいと願った。
 でも、京羅さんはそれよりも先に私の家族や友人を人質に取った。外の世界を全て殺し尽くすぞ、と。
 私は自分の命を脅かされるよりも、そちらの方がずっとずっと恐ろしかった。きっと、私が本当に死んでしまったとしても、みんなの安寧が守れるのだったらそれでも構わないと……死ぬ瞬間はきっと恐ろしさのあまりに後悔するかもしれないけれど、同時に安心してしまうんだと思った。
 でも、京羅さんはずっと私に優しかった。私の望むものはずっと用意してくれたし、寂しさを紛らわすことに尽力してくれた。

 私に安心を与えた。
 仮初の平和という名のぬるま湯にずっと浸し続けた。
 なんの力も持たないか弱い子供が「死」を覚悟するほどの緊張を私から奪い続けた。

 たった、一度……生爪を剥がされた程度で、みっともなく慌てふためき「嫌だ嫌だ」と泣き喚くような臆病な小娘にした。

 私に全てを与え続け、それを奪い……死の恐ろしさで容赦なく殴り殺すために。

「た……け、」
「ん?」
「た、すけて……」

 気づいた時には、その言葉を口にしていた。
 京羅さんは私から手を離す……彼からの拘束から解放されたのに、私は壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返していた。

「たすけて……たす、けて……!」

 私はそのまま、ずりずりと床を這いながらある場所を目指した。

「たすけて、おかあさん、おとうさん、おっおにいちゃん、おにいちゃ……おかあさん、おかあさん、おとうさん……」

 アルバム。アルバムだった。
 アルバムが私を助けてくれる、と。そんな馬鹿みたいなことを考えてしまった。
 アルバムの中にいるみんなが助けてくれると、藁にも縋る思いで。

「……いろちゃん、」

 幼稚園生の頃、私に綺麗な泥団子の作り方を教えてくれたいろちゃん。

「ことちゃん、」

 小学生の頃、私が男の子にいじめられた時に勇敢にも守ってくれたことちゃん。

「ひろたかくん、」

 そんな、ことちゃんのことが大好きで、どうやって仲良くなればいいのか相談しに来たひろたかくん。
 それから、それから……。

「けんやくん……っ!」

 ずっと、ずっと大好きだったけんやくん。

「助けてっ助けてけんやくん、けんやくんッ!けんやくん!!」

 私が半狂乱になりながら、外の世界の想い人に助けを求めて叫び出した、その瞬間。

 ボゴァアァン!

「ッ!わぁあ゛ぁあああーーーッ!!」

 何が起こったのか、分からなかった。分からなかったけれど、突然鳴り響いた轟音に、臆病者の私はただ絶叫してしまう。
 必死で頭を抑えて、突然降り注いだ何かの襲撃に耐え忍び……顔を上げると。

「ああ、ごめんよ。私はもう少し自制心というものを持ち合わせるべきなのに」

 アルバムがあったはずの本棚が……真っ黒焦げになっていた。端の方ではぷすぷすと弱弱しい火が灯されている。
 もちろん、アルバムだって跡形もなくなってしまった。
 私はそれを呆然と眺めながら、何かを名残惜しく思ってしまって……少し手を伸ばすと、こつりと透明な何かに指の先が当たった。

「外の世界を心から愛するきみを見たら、少し嫉妬してしまって……つい小さな爆弾を使ってしまった。強化ガラスが用意できてよかったよ。硝子さんまで吹き飛ばしてしまうところだった」

 私は無言のまま、じっと目の前の景色を眺めている……数秒経ってからそこでやっと気付いた。
 
 私には既に外の世界の繋がりなんて持ち合わせていないのだ、と。

「でもね、硝子さん。きみは少し勘違いをしている」
 
 全て、京羅さんに断ち切られてしまっているのだ、と。

「きみのことを助けてくれる人は外の世界にはいないんだ」
 
 ずっと前から、いろんな選択肢を用意されているように見えていただけで、私には拒否権なんてなかったのだ、と。

「きみのことを『漣京羅』から助けてくれるのは……同じ存在である『漣京羅』だけなのだから」

 全て、全て理解して……ふつりと何かが切れる音がした。
 きっと、人はこれを「諦め」と呼ぶのだろうな……と、考えている私はもう既に泣いてはいなかった。
 彼が、漣京羅が。私の希望も安寧も未練も全て、吹き飛ばしたから。

「……京羅さん」
「うん」
「最後に、最後に一つだけ聞かせてください」

 私は自分でも驚くほどに落ち着いた声色で京羅さんに問いかける。それは諦観とも呼ばれるものだったけれど。

「『薄雲硝子』の前世に関係する人間は、来世を生きる漣家の人間には何も関係はありませんよね……?」
「そうだね」
「京羅さんも、漣家のご子息、ご息女。私を買い取るために協力してくださった方々……この私にも何一つ関係ないですよね……?」
「一切ないね」
「だから、その人達が……漣家の人間が『薄雲硝子』の前世に関係する人達の平穏を脅かすことはないですよね……?」
「何の関係もない人達に構っていられるほど暇でもないからね」
「……ないんですよね?」
「はは、曖昧な答えでは駄目か。ごめんよ、約束する。私たちは彼らの平穏を脅かすことはしないさ」

 私は京羅さんのその言葉を聞くと、スゥと胸のすく思いをした。
 それはあの日、この蔵に囚われてからの毎日の中で最も安堵できた瞬間だった。

 なら、もういいや。
 今、ここにいる薄雲硝子は捨ててしまっても、いいや。

「さて、もういいかな」

 私は、誰に促されるでもなく後ろにいた京羅さんに向き直る。
 不思議と、恐ろしさはもうなかった。

「さあ、硝子さん」

 きみを、私にくれないか。



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