百代の過客

明け透け



「しておきたいんだよな」
「何が?」
「セックス」

 穏やかな昼下がりだった。窓から差し込む陽光は柔らかく、薄いレースのカーテンを透かして床に淡い影を落としている。風が吹くたび布地がふんわりと揺れ、開け放した窓からは木々の葉擦れと遠くで鳴く鳥の声がかすかに届いてきていた。湯気の立っていた茶もいつしか落ち着き、誰が見ても平和としか言いようのない昼下がりだった。

 その長閑な空気に似合わぬことを突然言い出した恋人に、手元にあった飲み物をひっくり返しかける。飲む前でよかった、と咄嗟に思った。

 愕然としながらローエンを見れば、彼は平時と変わらぬ表情でこちらを見ており、先程の発言は聞き間違えのようだ、と安心したが、もう一度「だからしようぜ」と言い出したので、聞き間違いではなかったことがすぐに証明されてしまい、ますます怖かった。

「なに……?」
「怖がるなよ。刷り込んでおきたいなって思っただけだ」
「何を……?」

 ひっくり返しかけた飲み物の無事を確認しながら恋人に聞けば、その飲み物を横から勝手に搔っ攫いながら答えてくれる。
 答えてくれたものの、何を言っているのかはわからない。どういう帰結でそこへ至ったのかの思考の道筋が全く見えてこなかった。
 人の飲み物を勝手に飲みながら、ローエンが薄く笑う。

「お前が不安になった時に、俺を思い浮かべられるように」
「不安……」

 不安になったとして、ローエンは思い浮かぶだろうが、そこで性行為の必要性が全く見えてこない。ずっと困惑している自分に説明を惜しむことなく、何ならどこか楽しむように教えてくれる。

「思い出せるなら別に何でもよかったんだが、人は痛みや快楽を記憶と結びつけやすいから、手っ取り早いのが性行為だなと思っただけだ。お前、痛いの嫌いだろ?」

 要するに、何かあった時に自分を思い出して欲しいので、その為に何かしらの刺激をこちらに与えようと思った。刺激があり、一定の中毒性、もしくは効果があるのが、痛みと快楽で、前者の方を自分が嫌っているので、では後者の方を、ということらしい。
 理解はできるが、到底納得は出来ない恐ろしい帰結だった。

 拒否権は、と思ったものの、恋人としてそういう行為を断るのはどうなのだろう、別段彼を傷つける気持ちもないし、断ったところで目の前の恋人が傷つくような精神性だとは思わないが、それにしてもそういう行為をする理由がこれなのはどうなのだろうか、と頭を悩ませていれば、ふ、と柔らかい感触が唇に落ちた。
 いつの間にか彼はすぐ傍に来ていて、肩を軽く握られていた。

「ローエン……?」

 重なっていた唇が離れる。呆然として彼を見れば、肩がぶつかるような至近距離で左右差のない完璧な微笑を浮かべた。惚れ惚れとする美しい微笑みだったが、状況が状況だけに頬が引きつる。

「痛いの嫌いだろ?」
「……そうだ、ね……」
「だよな」

 完璧な微笑みはそのままゆっくりと角度を上げ、にんまりとしたものになった。

「じゃあ、そういうことで」

 ぐ、とのしかかってくる昼下がりに全く似つかわしくない男の動きに、慌てて押し返そうとするが、膂力の差で押し負ける。
 ぞっとするほど美しく慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、こちらに向けられた力は手加減されていたが、抵抗は許さぬような無慈悲な強引さがあった。

「待って待って待って、なんかおかしい!」
「大丈夫だって」
「何が!」

 動転するこちらを組み敷いたローエンは、覆い被さったまま、無邪気に笑う。人の上に跨っているとは思えないほど、邪気のない笑みだった。

「痛くもしないし、ちゃんと記憶に残るものにしてやるから」

 何も大丈夫ではない、と言おうと思ったが、その言葉はまた重なった唇に塞がれて消えてしまった。