ローエンと喧嘩をした。小さな行き違いで、ごめん、と言えば解決するようなものだった。がしかし、ローエンは多分任務終わりの徹夜明けで、自分も似たようなものだった。
互いの空回りした言動はすれ違い、お互いに思ってもいないことを吐き、そしてしっかりと喧嘩へ発展した。
今まで喧嘩もなくやってきたものだから、こういうことは初めてで、仲直りの仕方もよくわからない。ごめん、と言えばいい。ごめんなさいと謝って、傷つけてごめん、思ってもいないことを言ってごめん、と言えばよかったのだが、如何せんお互いのタイミングも悪く、その機会にも恵まれることはなかった。
謝るにはほんの少し日が経ちすぎていて、気まずさが生まれてしまっていた。何より、この喧嘩がきっかえで別れ話になったらどうしよう、という最悪の妄想が生まれてしまうぐらいには日が経っていた。
今日謝ろう、から、明日謝ろうになり、別れ話に発展するぐらいならこのまま、という最悪の先送りも始まっていた。
どんよりとした気持ちを抱えながら、自分は買い物のために街に出ていた。
昼下がりの街は、穏やかな喧騒に包まれており、行き交う人々の足音が石畳を軽やかに叩いている。
自分の憂鬱な気持ちとはかけ離れている光景だった。
露店から漂う焼き菓子の甘い香りが風に乗り、荷物を抱えた商人や談笑する旅のものが行き交う。広場の噴水を囲むように人々が思い思いの時間を過ごし、露店の呼び込みがあちらこちらから飛び交っている。木々の葉を揺らした風が頬を撫で、何気なく視線を巡らせた、その時だった。
石畳の広場の片隅で、ローエンが一人の女性と向かい合っていた。
柔らかな陽光が二人の足元へ淡く落ち、時折吹き抜ける風が女性の髪を揺らす。ローエンは腕を組みながらも、肩の力を抜いたまま静かに耳を傾け、相手が言葉を重ねるたびに短く頷いていた。穏やかな空気が二人の間を流れ、人の往来さえどこか遠く感じられるほど、その場だけが切り取られたように静かだった。
その姿を見たとき、不意打ちを食らったような気持ちになった。
見てしまった、と、どうしよう、が同時に自分に襲い掛かってきて、呆けたように彼を見ながら足を止めてしまう。
気配に敏い人であるからか、こちらが見つめる中、話の途中で何かに気づいたように顔を上げる。
景色でも見渡すように辺りを一瞬見、通り過ぎ、そして間髪入れずにこちらへ視線が戻ってきた。
驚いたように目が見開かれる。その顔には驚愕がありありと浮かんでいた。
その顔を見たとき、突然襲い掛かってきたような羞恥心と絶望に目が眩み、居ても立っても居られなくなった。
自分を見て何かを言おうと口を開いたローエンに対して、思わず足が一歩引いてしまう。
それに弾かれたように血相を変えてローエンが立ち上がたとき、自分は一歩引いたらもう駄目になってしまっていて、二歩、三歩、と連続して後退してしまい、次の瞬間には背を返して走り出してしまっていた。
最悪だ、と思った。
全てがから回ってしまった。なんで逃げてしまったのかもわからない。
けれど、ローエンの目を見開いた顔を見て、同じようにしまった、と思ったのだ。
見て見ないふりをしたかった。なにか決定的なものを踏んでしまったような気がして、それでいて違うよねと彼に聞けるような強さが今はなかった。ここ最近、どうにか謝らなければ、何かしら話すきっかけを作らなければ、と考えていたのが悪かった。
彼が女性と親密そうに話している風景は、謝罪をするきっかけにしては良くなかったし、ここ最近自分を悩ませていた好きな人が女性と話しているという時点で嫉妬してしまう自分の狭量さに辟易し、そして彼らの間に割り込んでいく豪胆さもなく、自分が出来たのはとりあえず見なかったことにしようという感情から生まれてしまった反射的な逃避という、悪手だった。
多分彼は何かを話しかけようとしていた。同じように何も気にせずに近づいて話しかければよかったのに、妙な悋気を出して逃げるなんて恥ずかしい、と逃げながら思う。
けれど、足は止まらずに、来た道を戻るように階段を降り始めた。
城下町の階段を駆け下りる自分の靴から高い音がする。だが、その狭間を縫うように、か、と聞き慣れた硬質な靴音が後ろから聞こえた。
誰だか振り向かなくても分かる。尚更、頭がパニックになった。
昼の穏やかな喧騒には似合わぬ急いた足音がふたつ、石畳を駆け抜ける。
自分の乱れた呼吸が風を裂き、階段を一段一段降りる度、反響する足音だけが執拗に背を追いかけてくる。
「止まれって! おい!」
音の違う靴音が混ざり合って辺りに散る。それらは音を重ねることなく、ずれあっていた。重なり合うことはなかった。
いつもだったら歩調が合って、靴音は重なった。それなのに、今はこんなにばらばらだ。それがどうしても寂しかったが、足を止められなかった。
「止まれ!」
後ろから聞こえる声を無視して階段を降り続けていると、足音が聞こえなくなった。
不意に背後の空気が変質する。鋭く重く、怖いものになる。
その恐ろしい何かに振り返るよりも先に、大きく一変した、威嚇するような声が降ってきた。
「おい、止まれ」
自分の足が反射的に止まる。時々聞くことがある、命令することに慣れ切った男の声が、身体に染みついた習慣のように足を止めさせた。
「どうして逃げんだよ」
先程の命令口調などなかったかのように、ローエンが階段をゆったりと降りてくる。
足音は自分の背後で止まった。
後ろから伸ばされた手がこちらの肩を掴む。らしくない、どこか必死さのある力加減を忘れた五指が、肩の骨に食い込んで、軋んだ痛みを生んだ。
乱暴な動作で自分の方へ振り向かせたローエンが、こちらの顔を見て、双眸を大きく開く。吊り上げていた柳眉を下げ、小さく息を呑んだ。
「お前、なんて顔してるんだよ」
情けない顔をしているのだろう。自分の顔はいまいちよくわからない。
ローエンの視線が彷徨う。何かを確かめるように口を開き、躊躇うように閉じる。言葉を選んでいるのが、ありありと伝わってきた。
だが、ローエンが何か言うよりも先に「いた!」と遥か上から声が響いて、ローエンと自分は素早く上を仰いだ。
「ローエン副隊長! 仕事ほっぽり出して走り出すのやめてくださいよ!」
西風騎士団の装いをした青年が、階段の上から身を乗り出すようにこちらを覗き込み、大きく手を振る。石造りの壁に反響した声が幾重にも跳ね返る。
「突然護衛対象ほっぽっていなくなったから、みんなてんやわんやしてますよ!」
元気で満ち溢れた溌溂とした声に、目の前でローエンの肩から力が抜けるのが分かった。今までの空気が緩み、ローエンが片手で額を押さえる。それでもこちらの腕から手は離れなかった。
「仕事……仕事?」
呆然と階段の上の方にいながら手を振る青年を見ながら呟けば、ローエンが西風騎士団の青年の方を振り返った。
「よくやった」
「え、なんですか……!?」
突然褒められた彼はローエンに向けて戦々恐々とした表情を見せたものの、「出来る限り早く戻ってきてくださいよ……」と呟いてそそくさと戻っていく。
その後姿を見送った後、ローエンへ視線を戻した。
「仕事なの……?」
「ああ」
「……ごめん」
胸の奥へ沈殿していた重苦しい感情が、今度は別の形へ変わっていく。居たたまれなさと後悔が入り混じり、じわじわと胸を締めつけた。喉の奥は乾き切り、何か言葉を続けようとしても息ばかりが漏れる。
あれほど胸を占めていた感情は、今では跡形もなく消えていた。残ったのは、自分の短絡さへの失望だけだ。勝手に思い込み、勝手に傷つき、その挙げ句、彼の仕事にまで迷惑をかけた。けれど、口を開けば開くほど、取り返しのつかないことばかり口にしてしまいそうで、言葉を探すことしかできない。俯いたまま浅く息を吐く。風が静かに吹き抜け、張り詰めた空気だけが二人の間へ取り残されていた。
「悪かったよ」
端的だった。言い訳も、取り繕うような言葉もない。ただ真っ直ぐに向けられたその一言が、張り詰めていた胸の奥へ静かに落ちていく。
思わず顔を上げると、ローエンは困ったように小さく息をついた。眉間にはわずかな皺が寄っていたが、その眼差しには責める色はどこにも見当たらない。
「私も、色々とごめんなさい」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
ローエンはしばらく黙ったままこちらを見つめ、それから諦めたように肩を竦める。
「今日の夜なら時間取れる。いけるか?」
その言葉に、思わず瞬きを繰り返した。
逃げるように視線を揺らしたこちらに、彼は苦笑する。
「別れ話をするつもりはねぇよ。そんな不安そうな顔するな」
ぺた、と軽く頬を手の甲で叩かれた。その一言だけで、胸の奥を締めつけていた重苦しさがふっとほどけていく。知らず知らずのうちに詰めていた息を、ようやくゆっくりと吐き出した。
「……うん」
返事をするだけで精一杯だった。
ローエンは満足そうに小さく頷くと「じゃあ夜にな」とだけ言い残して踵を返す。
来た道を上着をはためかせて戻るローエンの後姿は、青空によく映えていた。