まず最初に、断捨離をした。
そして次にしたことと言えば、マッチングアプリを入れたことだった。
諏訪に好きな人がいたらしい。
らしい、というのは本人から聞いてないからであり、本人とよく飲みにいく間柄でありながら本人から言われてないからであり、そして自分が諏訪のことを好きで、彼に既に好きな人がいることを知ったが諏訪に聞くことが出来ていないからだ。
普通に吐きそうな気持ちだった。
家の排水溝を掃除ながら泣いて、必要ないものを捨て、そして諏訪と関わった時の思い出のものを捨てようとして捨てられずに箱にしまい込んだ。
水族館のチケット、映画のチケット、よくわからない諏訪から貰った紙、髪の毛が邪魔だった時にくれたコンビニで買ってくれたヘアゴムの束。
目に見えないように、存在を忘れるように、箱の中に押し込んで、そして思い出というよりかは未練を詰め込んだその箱を更にクローゼットの中に隠した。
自分だとは全く思わなかった。
諏訪の大学側の交友関係を把握していない上に、自分はボーダーで同期、大学の受講している講義の一部が被っているだけ。
諏訪を見かけると、なんだかんだ彼の周りには人がいる。
飲み会の度に「彼女作らないの?」と大学の人たちに聞かれているのも知っていた。本人ははぐらかしているが、男女ともに人気があり、ボーダー所属だ。
諏訪のことを好きな女性は確実にいるだろう。
そのうちの一人が自分だったという、簡単な話だ。
■
体調を立て直そうが、立て直していなかろうが、自分の生活に必要なものは決まっていて、自分はそれをやらなくてはならない。
ぐちゃぐちゃの情緒のまま、大学の講義に出席し、とりあえず板書をノートに写すだけの、授業内容を全く理解しないコピー機と化しながらも、午後まで必死に食らいついた。
誰もいない教室でぼんやりしてた時、「ようやく見つけたわ」と後ろから声がした。
当分は聞きたくない声だった。今の自分にとっては、毒に等しい。
「おめー何してんだよ。昼だぞ、昼」
「昼は抜く」
後ろから聞こえた声に、振り向かないまま答えた。
こちらへ歩いてくる男が、「体にわりぃぞ」と、自分の煙草を棚に上げて言う。
「諏訪に言われたくないなぁ」
「飯は食ってるわ」
そのまま目の前まで来た男が、前の席の机に腰を下ろした。緩やかに足を広げて座る態度の悪い姿だったが、金髪と相まってとてもよく似合っていた。
「何かあったの?」
「おめーだよ。まともな返答も寄越さねぇで」
それに、ああ、と思い至って連絡アプリを開いた。ここ数日は全てをおざなりにしていて、人への連絡や、向こうからのものも、杜撰な返しをしていたはずだ。
杜撰といっても、最低限の礼儀はきちんと踏まえているはずだが、と思ったものの、諏訪との返信を見れば、いつもなら会話を繋げるところをスタンプだけで終わらせている。
諏訪は細かいところにも気づくので、飲みの誘いを断り、連絡も雑になった自分のことを、気にかけてくれたのかもしれない、と思った。
だが、あまり色々考えると、蓋をしようとしている感情が沸き立つようで、すぐに携帯の返信欄から目を逸らした。
「じゃあ、今返信するよ」
「要らねーよ」
空気が抜けたように、は、と笑いを零した諏訪に、笑い返す。
いつも通りの軽口が叩けているはずだ。
「別に何もなかったよ。ごめんね」
「いや、なんもねーならいいけどよ」
何か言いたげではあったものの、諏訪は言葉を見つけられらなかったのか、その先の言葉はない。
わずかに開きかけた口が閉じられて、言葉になり損ねた何かだけがその場に残る。視線が一瞬だけこちらに向けられて、すぐに逸らされた。
窓の外から入ってくる風がカーテンを揺らして、教室の空気がわずかに動く。遠くで誰かが笑っている声や、廊下を歩く足音がぼんやりと聞こえていた。
その時、机上におきっぱなしだったこちらの携帯の画面が点灯した。
互いにそちらに視線が向かう。
いいねが届きました。新規会員特典のお知らせ。いいねが届きました。
携帯の画面に浮かんでいたのは、マッチングアプリの通知だった。
初めて入れたアプリのシステムはいまいちよくわかっていない。
ほぼ全ての説明を飛ばして必要事項だけ記入したものなのに、新規入会の特典なのか、人よりもやや多く自分のプロフィールが表示されるようになっているらしく、通知が多く届く。ロック画面に浮かぶマッチングアプリの通知を確認するだけで見ていないため、幾重にもポップアップが重なっていた。
ボーダー所属であることも記載しているので、お金欲しさに近寄ってこようとしている人もいるのかもしれない。
「なんで入れたんだ、これ」
ほんの少し、尖った声だった。諏訪のほうを見ずに、画面を向いたまま言葉を発した。
「出会いが欲しい」
視線の先は同じだ。同じ画面を見ながら、言葉の応酬は続く。
二人しかいない教室で淡々とそれは続いた。
「ボーダー隊員は多いだろ普通に」
「みんなそう言うけど、それ、男だけかも」
ふ、と画面のポップアップが消える。
曖昧に笑って諏訪を見上げれば、彼は黙ってまだこちらの携帯の画面を睨んでいた。
「そんなに無理しなくたっていーだろ、別に」
「そろそろ無理する時かなって」
こちらに視線を戻した諏訪の表情からは何も読み取れなかった。
そうだよな、と思う。わかりやすく表情に出してくれているだけで、本来かなり理知的な男だ。表情に出されなければ、諏訪の感情を自分は理解することが出来ない。
「おめーにしちゃあ、突然すぎる」
「だよねぇ」
諏訪は感情的に見えて、かなり冷静だ。
結構物言いが強い。粗雑な口調、態度も外見通りだ。眼付きの悪さも重なって、かなり不良に見える。
がしかし、かなり物事は冷静に見るし、自分ごと俯瞰して周りを見る客観視できる広い視野、相手のことを慮った立ち回り、後輩へのさりげない気配りなどがある。
諏訪がかなり慕われていたり、信用されているのは、みなそれを知っているからで、それは老若男女問わず遺憾なく発揮される。
諏訪本人は否定するが、かなり女性からの人気のある男だ。
そんな単純な事実が、手足の指先から体の中心へとじわじわと進み、何かを蝕む。
「……まぁ、程々にな」
「うん」
顔を上げずに頷いた。
程々に、と諏訪は言ったが、自分は諏訪への恋が終わるまで、やめられないだろうという確信があった。
■
大学近くの居酒屋では新歓を兼ねた飲み会が開かれていた。木目のテーブルに並べられた皿はすでにいくつか空になっていて、グラスの中の氷は溶けかけていた。
店内は平日の夜にしては賑やかで、隣の席の笑い声や店員の呼び声が混ざり合い、絶えずざわめきが耳に残った。
久々に参加した飲み会は顔見知りもいれば、ほとんど話したことのない人間もいる。そんな曖昧な距離感の集まりは、居心地がいいような、少しだけ息苦しいような、不思議な感覚を伴っていた。
何よりいつも近くで話していた諏訪がいないというのが大きい。今日は自分からわざと離れた場所に座っていた。
人の話にグラスを傾けながら適当に相槌を打ちつつ、視線だけが無意識に特定の方向を追ってしまう。結露して濡れた手元をさりげなく拭きながら彼の方を一瞥すれば、少し離れた席で笑っていた。
諏訪の声は、この騒がしさの中でも妙に拾いやすく、聞くつもりがなくても耳に入ってくる。
自分でも呆れるほど単純だと思いながら、誤魔化すようにまた飲み物に口をつけた。
「おー」
諏訪の気のない返事が聞こえる。片手で何か携帯を弄っていて、人の話を真面目に聞く諏訪にしては珍しいなと思ったが、視線が合う前に顔を逸らして横の大学の知人の話を聞くことに集中した。
『元気ねえのか? 大丈夫か』
諏訪からだった。
他の人に絡まれながらこの連絡を打っていたようで、顔を上げ諏訪の方を向くと、彼は人の話を聞く姿勢に戻っている。
笑いながら楽しそうに会話をしている諏訪の笑顔を見て『大丈夫』とだけ打ち返して携帯を伏せた。
人のことをよく見ているのだろう。
好きだな、と思った。そして、諦めたいな、とも同じように思った。
携帯がまた鳴ったが、次はもう見なかった。
■
最近の趣味は掃除、勉強だ。打って変わったように優等生になり、飲みにもいかなくなったから、ボーダーの給金は貯まる一方かと思いきや、やけ酒のせいでややマイナス寄りだ。
最近はやたらと掃除用具やら、収納グッズやらを見て、そういうものを買い毎週毎週家から物を減らしている。
考えると、ちらついてしょうがない。
好きな人いたんだ、なんで教えてくれなかったんだろう、知ってると思っていたのかな、失恋したんだ、とか、様々なことがぐるぐる回る。
そういうことから意識を逸らすために、何か熱中できるもの、そして没入できるものを探した結果、最終的に掃除と勉強に落ち着いた。
ボーダーには諏訪に会うとぶり返す為、いつもよりも早めに切り上げたり、逆に遅めに行ったり、長時間ボーダーの一室にこもることが多くなった。
一方、大学は教員に聞きに行ったり、すぐに帰宅したりと、今までと比べ物にならない優等生であった。
やけ酒は半ば寝酒寄りになっているせいで、朝起きるのがしんどいぐらいだったが、マッチングアプリの方もちょこちょこ返信し、画面越しに頑張っている。
けれど、苦しさは拭えなかった。
結局のところ、告白して振られたわけでもないので、自分の中で区切りがつけられていないのだろう、と思っているが、玉砕することがわかりきっているのにそれでも真っ直ぐ告白できるほど、自分は度胸や胆力がある人間ではなかった。
緩やかに感情の整理をつけようとするぐらいには臆病で、告白で今の立ち位置を無くしたくないぐらいには諏訪が好きだったのだ。
今の立ち位置といったものの、諏訪とはめっきり合わなくなっているので徐々に疎遠への道を歩んでいる。その事実も寂しさを募らせたが、これ以上不毛な感情を抱えるよりはさっさと全てに区切りをつけたかった。
「今日も来ないの?」
「うん」
いつもなら行くのに、とぼやく友人にごめんね、と掌を合わせる。
最近めっきりと付き合いが悪くなった自分に対して、緩やかに飲みの誘いは減ってきている。
前までは普通に楽しかったが、今はやや傷心中で全てから距離を置いていた。
飲みのときの恋の話なんてよくある話で、今はそれを聞けそうにない。
諏訪とも距離を置いていたし、又聞きでも彼の話を聞くと一喜一憂してしまうので、心身の健康上に悪かった。
ひらひらと手を振って友人から離れる。
今日の夜も暇だな、と思った。人づきあいが無くなると、こんなに時間が空くことを知らなかったし、今は孤独感よりも自分の傷をどうするか、傷を深くしないようにと息をひそめて生きていくことの方が大事で、現実逃避の 術 を必死に探していた。
大学の構内で諏訪の姿は時折見かける。向こうが気づけば、話もする。
けれど、それ以上に諏訪に会わないように、諏訪に気づかれないように、無意識で諏訪を避けていることに最近気づいた。
今まで使わない道を使ったり、座ったこともない講堂に向かったりと、自分の動きは違和感を覚えるものだ。
嫌な状態だな、と、ほとほと思う。けれど、諏訪と会わないでいると、どうにも気が楽だった。随分と性格の悪い人間になったものだと、自嘲する。
けれど、その楽さはどこか薄いとわかっていた。気を抜けばすぐに裏返るようなもので、実際、構内で似た背格好を見かけるだけで無意識に足が止まり、違うと分かってからようやく息を吐くということも増えている。避けているはずなのに、それは結局探しているのと何も変わらなかった。
視界の端に入る可能性を消しているだけで、頭の中から追い出せているわけではないのだと、嫌でも思い知らされている。
これでいいのだと何度繰り返してみても、納得したことにはならない。むしろ、理由をつけて遠ざけている分だけ、余計に不安が増えていく気さえ感じられた。
だからといって距離を戻す理由も勇気も見当たらない。結局はこのまま、見つからない場所に逃げ込むようにして日々をやり過ごし、緩やかに自分の恋を殺していくしかないのだろう。
そうやってやり過ごしているうちに、いつか本当に何もなくなるのか、それとも別の形で残るのかもわからないまま、ただ今日も同じように漠然と彼のいない方角へと足を向けることを選んでいた。