「何してんだ、こんな時間に」
「諏訪」
スーパーの帰りに、諏訪とたまたま鉢合った。自分の体がぎこちなく固まるのがわかる。
かなり夜も更けていて、電灯がなければ何も見えないだろう。
街灯の下で金色の髪がちらちらと輝いていた。
「諏訪こそ、何してんの」
「色々」
ボーダーで遅くなったとかそういう所だろうか。深く聞く気も起きず「そうなんだ」とだけ告げたこちらの前に諏訪が歩いてくる。うっすらと自分の肩がこわばっていたのがわかったが、一度息を吐いて、自分も同じように諏訪へと足を進めた。
互いに前と同じぐらいの距離間で立ち止まる。
「すげー量だな、それ」
呆れたように諏訪がこちらのスーパーの袋を覗き込んで言った。諏訪の頭が近くなる。
ほんの一瞬だけ諏訪に視線を向けたが、諏訪が顔を上げるよりも先に、自分もスーパーの袋へ視線を下げた。何となく、諏訪の表情に目を向けたくなかった。
「飲むんだよ」
「今からこの量をか?」
「いや、流石に全部ではないけど、半分は飲むかな」
二人でスーパーの袋の中を覗き込む。手当たり次第に入れた酒を見て、諏訪は何とも言えない顔をした。
「おめー、酒飲むんだったら普通に飲みに来いよ」
「そうだね。そうする」
笑って言うと、どうしてか諏訪が顔を歪める。あまり行かないつもりであることが透けていたのかもしれない。
「本当に行くって」
「どうだか。最近やけに付き合いわりぃし」
諏訪が横に並んだ。ほぼ同時に歩き出す。
夜風が頬を撫でた。諏訪との会話の仕方を忘れてしまったような感覚に陥り、慌てて手に持った袋を漁った。
会話をしないでも間を埋めるための動作だった。引き抜いたビール缶を諏訪に向けて差し出す。
「ごめんね。これはお詫び」
「要らねーよ、んなもん」
そうは言いながらも、ビニール袋から取り出して渡した酒を諏訪は受け取った。プルタブに指先をかけるのも見て、指先でそれを止める。鞄のチャックを開け、ウェットティッシュを取り出して口の部分を拭いた。
「まめかよ」
「意外とね」
ぱき、と音がして横で開ける音を聞きながら、自分のも取り出して同じように拭き、開けた。
自分の前に差し出される口の開いた酒に、同じように差し出して軽くぶつける。
「ごめんね」
「許さねー」
そう言いながらも、多分なんだかんだ許してくれるのが諏訪だろう。
多分、飲みに来ないから怒っているというよりも、全体的に顔を出さなくなっているから心配してくれているといった感じのようだった。
こんな会話だっただろうか、と思ったが、久々に話したにしてはまともな滑り出しが出来て安心した気持ちのほうが強く、安堵から緩やかに息を吐いた。
そんな様子のこちらを一瞥した諏訪が、そのまま首を傾げる。
「つーか、おめー食ってんのか?」
「食べてるよ」
「また昼抜いてねーだろうな」
「食べてるってば」
諏訪の顔は晴れない。困ったように諏訪を見上げれば、諏訪もほんの一瞬苦々しい顔をした。
「最近、優等生だし。食事は取ってるよ」
「知ってる」
ぶっきらぼうに告げた諏訪が突然こちらの腕を掴んで引いた。ぐい、と引きずられるようにして、方向を転換させられる。
ほんの一瞬、こちらの腕を掴む諏訪の手を見る。
なんだ、と思った矢先、諏訪が目の前のコンビニに入っていく。そのまま一直線にレジに向かいレジ横を一瞥、「肉まん二つ」とピースを出しながら諏訪が店員に注文した。
肘辺りを取られたままで、財布を出そうと鞄をごそごそ漁ったが、諏訪が「いい」と一言言って電子決済で済ませてしまうので、大人しく奢られることにした。
ビニール袋に入れられた肉まんを諏訪が受け取る。その時になってようやく肘を離された。
「教員に聞きに行ったりしてるし、大学来ても講義受けたら帰るだろ」
夜に沈む空間を、風が穏やかに走る。互いの間を吹き抜けて、髪を揺らした。
暗闇の中で諏訪の金髪は柔らかく光っていた。
「時々見かける。話しかけようと思っても、さっさと行っちまうから」
諏訪の鋭い瞳が滑るようにこちらを見た。こちらの表情から何かを見つけたがっているような素振りだった。それを真っ向から見返し、一つ頷く。
自分は諏訪ほど頭が良くはない。誤魔化すよりも正直に話した方がいいだろう。
漠然と帰り道の方向に足を向けているものの、諏訪が買った肉まんと、こちらの手元でまだ半分ほどある酒を見れば、どこかで休憩がてら話をする気なのだろう。
そう思っている矢先、目の前に公園が見えてくる。夜もかなり更けているので、昼間は人で賑わう場所だが、今は人の気配はない。
「変わろうと思って」
「へー。珍しいモンだな」
「失礼すぎる」
諏訪に肩をごん、と軽くぶつけられる。横の公園に入れ、ということらしい。
誰もいない広々とした公園に踏み入れ、ベンチに向かって歩き出す。足裏で砂利が鳴る音がした。
「なんかあったのか」
「あった。普通に現実逃避」
簡潔な物言いだったので、こちらもそれに応じた端的な物言いになった。
諏訪の瞳がこちらを向くのがわかるが、今は視線を合わせる勇気が出ず、缶ビールに口をつける。
「なんでこんなことになってんだよ」
「それ聞くんだ」
ほんの一瞬、静けさが落ちた。
「悪い」
「いや、ごめん。諏訪は悪くないわ。今のは私が全部悪い。言い方も最悪だった。諏訪は心配してくれたんだろうし」
いつも通り茶化そうとしたが、こちらの深刻さを憂慮してくれたのか、諏訪がバツが悪そうに謝った。それに首を振る。
気を遣わせているのは自分の方だ。諏訪は多分、飲みも気を遣って声をかけてくれていた。
様子がおかしいから、いつも通りで接してくれ、そして聞かないでいてくれようとしていた。けれど、様子がおかしい女に踏み込む方が早いと考えたのだろう。
人の好意を無下にし続けた女に、配慮などする必要がないのに、諏訪はそういう所で律儀だ。
夜も更けた誰もいない公園で、ベンチに並んで座った。諏訪が手元のビニール袋を漁りながら肉まんを差し出してくれる。礼を言いながら受け取れば、彼は粗雑に掌を振った。
礼は要らん、ということらしい。
「失恋した」
「……は? 失恋?」
腰を落ち着けた矢先、自分の発言に呆気に取られたような声で、諏訪がこちらを向く。けれど、諏訪の顔を見れなかった。
失恋した人に、失恋したことを打ち明けるのは思った以上にしんどいものがあった。
恋してることすら、わかってもらえていなかったらしい。自分の好きは、友情と変わらなかった。アプローチの仕方を間違えたというか、もう少し積極性を示すべきだったな、と遅れて思う。
「……おめーが?」
愕然としたような声に、アルミ缶を見ながら、諏訪の方を見ずに頷く。
手の中のアルミ缶を小さく揺らした。表情も何もかも何でもないことのように振舞えたのに、自分のつま先だけが平静を装えず、砂利を削って地面に濃い線を描いた。
「ね。馬鹿みたいでしょ。笑っていいよ」
「……いや」
驚いたような、動揺したような雰囲気で、笑い飛ばしてもくれなさそうな男に、思わず自分が失笑した。
手元で煙草をつけるライターの音がする。聞きなれてしまった音だった。だが、音がするだけで彼は一向に煙草に火をつけようとしなかった。
「本当に馬鹿なんだよね。まさかさ、自分がこんなになるとは思ってなかったから」
溜め息を吐きながら、背もたれにきつく背中を預けて空を見上げた。
人工の明かりが強いせいで星が見えにくい。一際強く輝く星は、星ではなく人工衛星だろう。もう一度息を吐きながら、諏訪に、好きな人に吐き出した。
「普通に、こんなに調子狂うと思ってなかったし、自分がこんなになるぐらい好きだって気づいてなかった」
缶に口をつける。ひんやりとした冷たさが唇に移った。
自分の指が冷えて小さく震えている。
「ちなみにさ、馬鹿だから、本人に直接聞けてないの。どんな人なのって」
そのせいかわからないが、ほんの少しだけ自分の声は揺らいだ。
横でようやく、諏訪が煙草を吸う音がした。
「相手は?」
「気付いてなかったんじゃない、多分」
今、ずるいことをしようとしている。
諏訪の方を見た。煙草をくわえたまま、眉を寄せている男と視線が絡む。
互いの視線はぐちゃぐちゃに絡まりあった糸のようだった。その解き方を自分は知らなかったが、相手も知らないだろう。だが、離れることはない。
解き方を知りたかったが、今はそれ以上にただ、自分が好きな人から向けられるその視線に溺れていたかった。
「諏訪だって、気付いてなかったでしょ。私に好きな人がいること」
揺れる視線がこちらを見つめていた。こちらの表情を見ながらも、瞳は惑うように揺れている。その様子を見ながら、微笑んだ。
諏訪のことが、好きだった。彼はやはり気づいていなかったのだろう。
「そォだな……まあ、そうだな」
動揺したような男に、「そうだよね」と笑った。
そうだよね。気づいてなかったよね。そうやって、安心したように笑う、本当に最低な女だった。
「だから忘れようと思ってるんだよね。向こうに迷惑だから」
「迷惑って……そりゃあないだろ」
「あるよ。多分、友達としか思われてないし」
諏訪の方から緩やかに紫煙が広がった。手元の携帯用灰皿に灰を落として、また諏訪が無言でくわえた。
「好きな人がいることぐらい教えて欲しかったけど、言う必要がないぐらいただの女友達だったっぽい」
独白は続き、考えれば考えるほど想いが募った。
「あと、ずっと友達でいたい。私。その人と。凄く、好きなの」
諏訪の息を飲む音がした。静寂の強いこの場所で、その音は強く響く。
吐き出すこちらの震える吐息の音も、諏訪に届いている筈だ。
「多分、ずっと好き。だから忘れたいけど、忘れられないと思うから、せめて薄れさせたい。ずっと友達でいたいから」
諏訪の傷ついたような瞳を見る。
友達の女の失恋に、感情移入してくれるらしい。
「迷惑とかかけたくないし、良い人だから幸せでいて欲しい。だから、さっさと自分の中で終わらせて、新しい人見つけたい」
自分で改めて言葉にした想いは、言えば言うほど自分の中でその想いが強かったことに気づく。
その時開きっぱなしになっていた鞄の中で、ふわ、と携帯が勝手につく。何かしらの通知が来て、自動的に画面が点灯する。
黙り込んでいた諏訪がおもむろに体を捻って、黙ってこちらの鞄のチャックを掴んで、閉めようとしてくれた。
だが、その手がぴたりと止まる。
同じように鞄の中、携帯の画面を見た時、そこには『マッチングが成立しました』の通知が浮かんでいた。
諏訪は何を考えているかわからない、無表情でその通知を見ている。
画面が自然と消えるまで、その画面を眺めている諏訪の顔を、自分は見ていた。
ふ、と画面がまた消え、諏訪は何事もなかったかのようにその鞄のチャックを閉じてくれた。
「会うのか?」
何事もなかったかのように閉じた癖に、公園のベンチの背もたれに背を預けた諏訪が、そうこちらに聞いた。
見なかったことにはしてくれないんだな、と思った。
「会うかも。これも何かの縁だし」
「忘れたいからって、そんなに急いで恋人作ってどうすんだよ。他にもあるだろ」
調子を取り戻したのか、やや呆れたような口調で言われる、ごもっともな意見に笑う。
真っ当な人を好きになってしまった、ろくでもない女だった。
自分が駄目であれば駄目であるほど、自分が好きになった人の真面目さが輝いている。
「別に恋人じゃなくてもいいかなって」
諏訪が握っていたアルミ缶が、音を立てた。空のアルミ缶が乾いた音を立てて、諏訪の手の中で指の力に負けて表面をへこませる。
「まぁ、いいかなって」
本当に自分でも馬鹿なことを言っているな、と思った。
自分自身のつま先を見つめる。いつも見ている足なのに、今日に限っては頼りないような気がした。
「馬鹿すぎるだろ。やめろ」
「止めてくれるんだ」
「普通に考えれば止めるだろ。仲いいやつが、そんな馬鹿な事すんのは」
苛立ったように深く溜息をつく、諏訪に視線を下げる。自分の土で汚れたつま先をまた眺め、音を立てないように地面を叩いた。
「ありがとう」
「そもそも、おめーさ、」
「ごめんね」
諏訪の言葉を無視すれば、諏訪は黙った。言う気が無いことを悟ったのだろう。
一度、強く息を吐いて、背もたれに諏訪が強く背中を預ける。
「帰ろっか。ごめんね、ひどい話して。気にしなくていいよ、本当」
諏訪は黙り込んで立ちあがらなかった。それを無視したまま、おごってもらった肉まんの包みを四つ折りにして鞄にしまう。諏訪の手元のアルミ缶も回収しようとした時、その手を諏訪が掴んだ。
「諏訪? どうしたの?」
数秒、こちらの手を掴んだまま、諏訪は俯いていた。
その後、黙ったまま立ち上がり、空のアルミ缶を片手に持ったまま、公園の外へ向かう。
手は掴まれたままで、やや強引な動きだった。
「諏訪?」
こちらの手を引く、自分よりも高い男性の後頭部を見る。
返事は返ってこない。それどころか、更に強く手を握られる。
公園から出て解散かと思いきや、出たにもかかわらず手は離れない。そして自分が通らない方向に諏訪が歩みを進める。
もう一度、無理矢理先導する男を見上げた。
「諏訪。私、そっちの方角じゃない」
「わかってんだよ、んなこと」
投げやりな返事が返ってくる。振り返ってもくれない諏訪は自分を連れて、どんどん違う方向に歩いている。
手は、離れなかった。
■
空のアルミ缶が玄関で落ちて、飛び、転がる軽やかな音がした。
暗がりの視界の端でアルミ缶の銀色が弾ける。後頭部に冷たいドアの感触が当たって、背中を押しあてた。
互いの吐くアルコール混じりの呼気が宙に溶けてゆく。ドアと後頭部の間に差し込まれた掌がこちらの髪を梳きながら、頭を押さえた。
ドアを開ける前に手首から移って、掌を握った諏訪のかさついた手を見た。
その視線の動きを諏訪は黙ってみていて、そこから何かの均衡が崩れるように自分たちは二人とも玄関から動けないでいる。
やや鋭く見える目が、間近にあった。この暗がりではますます尖っているように見える。
今までこちらを貪っていた唇がほんのわずかに離れて、また間髪入れずに塞ぎにかかる。八重歯が微かに覗く口が開くのを見て、視線を伏せた。
頭を押さえる手と反対に、もう片方はこちらの腰をしっかりと抱いている。
「ふ、っ……」
一瞬、息継ぎのためか角度を変えるためか、口と口との間に僅かに隙間ができて、吸い込まれるはずだった声が零れ落ちてしまった。熱っぽい吐息混じりの声は、いつもの自分のものとは随分と違っていて、羞恥を覚えたが、 顎を引いても唇を追いかけられ、しつこかった。丁寧についばむような、なぞるような口づけに全身から力が抜けるとゆっくりと諏訪の舌が唇を割る。
唇を重ねていた時間が増すにつれ、彼の体がどんどん密着する。自分よりも上背のある人が背をかすかに曲げて、執拗にこちらの唇を嬲る。
舌を絡めながら、下肢がぶつかる。諏訪の掌が落ちて、こちらの腰回りを緩慢に探った。
その生々しさに 眩暈 がするようだった。酸素が不足しているせいか、あるいはこの状況に飲まれ始めているせいかもしれなかった。
唇が離れた瞬間、本音が零れ落ちてしまった。
「す、きな人とかいるんじゃないの……」
「今それ聞くかァ?」
しまった、と思うものの、自分の恐れとは裏腹に、諏訪が眉を下げた。嫌そうな顔ではなく、困ったような顔をしていた。
それにどこかほっとしつつ、それもそうか、と思って両手を持ち上げた。諏訪の両頬を挟むのと同時に、諏訪がわかりきったようにこちらに身を屈める。自分も同じように首を晒して、どちらともなくまた唇を重ねた。
「もう、黙れよ」
唇が離れた直前にそう言われて、素直に頷いた。
ほんの一瞬、諏訪が迷った顔をした。傷ついているような、そんな顔だった。
そんな顔をしてほしくなくて、せめて後悔はしてほしくなくて、それに思わず、諏訪の首に腕を絡めてこちらからもう一度したら、諏訪はどこかほっとしたように、それでいて泣きそうな顔でもう一度強く唇をこちらに押し当てた。
「ごめん」
それに諏訪は答えずもう一度こちらの唇に触れるだけの口づけを落とすと、こちらの手を引いて、部屋の奥へと 誘 った。
部屋の奥、倒れ込んだ寝台で、自分が諏訪の首に腕をかけるのと、諏訪がこちらの腰を引き寄せるのはほぼ同時で、合わさった唇が更に深く重なり、声も息も全て、両者の間で消えてゆく。こちらを見下ろす瞳は、酩酊したように水分をたたえて揺らいでいた。
「諏訪」
諏訪の名を呼べば、唇を離した諏訪は至近距離で小さく「クソ」とぼやいた。
■
「消せ」
全てが終わった後、頭を抱えながら煙草を吸いにベランダに消えた男に背中を向けて寝ようとしていた時、暗闇の中で、寝台の上の携帯が光った。
起き上がり、それを確認しようしたとき、その手を止めるように吸い終わって戻ってきた諏訪がこちらの手を掴み、勝手に使っている諏訪の毛布の中に自分の体を滑り込ませるようにして入ってきた。
真夜中の寝台の上で、素肌が触れ合っている状態で、諏訪が忌々しげにこちらのポップアップを見た。
腰の上に軽くのっていた腕が力強くこちらを引き寄せる。汗ばんだ素肌がシーツの海を泳いで、皺の波を作り上げた。諏訪の胸と、下着だけを身に着けた自分の胸が当たる。
寝台の上に無造作に放られた携帯の画面が、ふ、と消えたが、諏訪は勝手にこちらの携帯を指先で引き寄せ、画面をつけると、浮かんだポップアップをこちらの眼前に突きつける。
「退会しろ」
「……これ?」
「それ以外に何があんだよ」
諏訪に突きつけられた携帯の画面がまた消える。暗くなった液晶には、困り顔の自分が写り込んでいる。
諏訪から受け取って、画面を開いた。諏訪がそれを横に並んで勝手に画面を覗き込む。
まるで恋人のような関係だが、そうではない。今しがたまで性行為をしていて、肉体を許したせいか、お互いの距離が近くなっているだけだった。
マッチングアプリのメッセージの欄に飛ぶ。
消そうか、消さないか迷った時、諏訪がメッセージの上の方に指先を滑らせた。
数秒見てから、メッセージの一欄に戻る。そして別の人のメッセージ欄を見て、こちらの返信を見て、メッセージの一欄に戻る。それを繰り返し、ある程度確認したとき、諏訪が顔を上げた。
「消せ」
二度目だった。重い声に、逃げ道がないことを悟った。
設定のところに行き、退会のボタンを押す。自分がしたのはそこまでで、その後のよくわからないシステムの説明は諏訪が勝手に全部アナウンスに従ってこちらの目の前で操作し、退会してしまった。
満足そうに一度鼻を鳴らした男が、携帯からほんの一瞬、こちらに視線を移した。
こちらの表情から何かを探そうとしていた。探る瞳だった。暗いからか、それとも何も浮かんでおらず見つけられなかったのか、すぐに視線が外れた。
「諏訪」
その言葉には諏訪は答えず、こちらの携帯の画面を消すと、勝手にこちらの手首を握った。
手首を握り、緩やかに手の中で絞るように掴み、そして暗闇の中で指先に視線を凝らした。
「明日、飯食いに行くぞ」
肺から息を丸ごと吐くようにゆったりと呼吸しながら、諏訪が手を握ったまま呟いた。
「昼抜いてんだろ。食うぞ」
返事をする間もなく、握られていた手に軽くまた力を込めて握られた。狭い寝台の上で互いに同じシーツを共有していて、自分の肩の下から伸びるシーツの皺が、諏訪の下に飲まれて見てなくなっている。諏訪との距離は近く、呼吸のたびにわずかに体温が伝わってきている。
「お前、どこもかしこもほせー」
ぼやくように呟いて、諏訪がこちらを抱き締める。
寝ようとしているのだろう。呼吸は緩やかで、喋るのも億劫そうだった。
「諏訪がしっかりしてるんだよ」
諏訪の呼吸が、ほんの少しだけ深くなる。もうほとんど眠りに落ちかけているのだろう。呼びかければ応じるかもしれないが、わざわざ確かめる理由もなかった。
「ちげーよ」
自分のものとは違う、硬く、強靭な身体。それに触れながら言えば、諏訪はそれをぶっきらぼうに否定した。
諏訪に触れた手を毟り取るように握られた。いやだったのかな、と思ったものの、諏訪に握られた手は離されることはなかった。手の甲が触れる彼の胸から、鼓動がする。諏訪の掌が触れているこちらの背中からも、自分の鼓動が伝わっているはずだ。
自分たちは今、それだけの近さにいるのだ、と思った。
「抱いたんだから、わかる」
それだけ言って、彼はこちらの手首を掴んだまま、目を閉じた。