陽炎に舞う蝶の
──手を伸ばす。
ひらり、ひらり。不規則な軌道を描いて飛ぶ、一匹の蝶を追う。
昨日より、一昨日より、暑い日だった。木の葉は青々と茂り、葉の隙間から射し込む陽光は蝶の羽根を一等美しく輝かせる。額に滲んだ汗が頬を伝い、顎にしがみついては耐えきれずに地面に滴り落ちる。喉はもう渇き切っていたが、何故だか目の前を飛ぶ蝶から目が離せない。蝶が小休憩を挟む度、捕まえようと試みる。しかし、何度やっても手は空を切る。また蝶はどこかへ飛び立ってしまう。それを追いかける。その繰り返し。
もしかしたら、今まで、こんなにも長い時間走ったことはないかもしれない。当然足は疲れるし、このまま走り続けていたら草履の鼻緒がちぎれてしまうのではないかとすら思う。我こそはと名乗りをあげる蝉の声が煩わしい。休みたいと、そう思うのに、身体は蝶を追いかけ続ける。
以前、蝶はこの世を去った人が姿を変えて現れているのだと、そう話していたのは確か祖父だ。人間が関わってはいけない、そんな人外めいた存在なのだと、妹たちと一緒に脅かされた。
祖父の話を信じ込んでいた訳ではないし、話を聞いた時には(あんなに綺麗なのに)と、むしろ否定的な意見さえ思っていた気がする。けれど、不意にその話を思い出したのは、あながち間違いではないのかもしれないと今になって思ったからか。
バシャ、と川の浅瀬に足を突っ込む。どうやら追いかけていた蝶はこの川を真っ直ぐ渡ろうとしているようだった。火照った身体に冷たい水が心地いい……が、このまま蝶に倣って川を渡る事はできないと、妙に冷静になった頭で思う。
どうしようと辺りを見渡せば、すぐ近くに橋がかかっているのを見つけた。弾かれたように走り出し、遠目に蝶の姿を確認しながら橋を渡る。すれ違った大人がぎょっとしていたような気もするが、それどころではなかった。早く、早く、行かねば見失ってしまう。逃げてしまう。
あの蝶を捕まえて、どうしようというのだろう。走りながら、ふと疑問に思う。自分は一体あの蝶をどうしたいのか。
(……近くで、眺められたら)
橋を渡り切って土手に下り、蝶が飛んで行ったはずの方向へ向かう。物の陰に隠れていやしないかと目を凝らす。視界の端でひらりと舞った極彩色を見つけ、また再び追いかけ始めた。先程の蝶と同じ個体かは分からない。どれもそっくりに見える。
川から遠ざかると、また少し暑くなった。濡れた足は瞬く間に乾き、張り付いていた砂がはらはらと散っていく。少し痒い。
口の中はもう唾液も飲み込めないほど乾いていた。それでも足は止まらない、止められない。
宙に浮いているというのは有利なもので、生垣も屋根も、蝶は障害としていない。こちらはわざわざ回り道をしなければならない訳だから、その分疲れてしまう。蝶を見失うことがなかったのは奇跡なのかもしれない。
飛び回っていた蝶が駆け込むようにして誰かの敷地内へ入っていく。他人の家に勝手に入り込むのは──たとえ庭であっても──よくない。そうは思えどこっそりと中を覗き込む。庭に人の姿はなく、障子は閉め切られていた。
そろり。一歩踏み出す。鼠小僧にでもなった気分だった。人の気配はない、多分、留守なのだろう。この家の庭に逃げたはずの蝶を眺めたら、すぐに帰ろう。
しかし、どういうことか。あれほど追いかけ回して、見逃さなかったはずの蝶は忽然と姿を消していた。
その家の庭は様々な植物が植えられていて、色とりどりの花が咲いている。そのどれにも蝶はとまっていなかった。
短く、速く、息を吐く。耳の辺りに心臓が移動したかのように、鼓動がうるさい。何だか一気に疲れが押し寄せてきた。いや、元々疲れていたのだとは、思うけれど。
「誰……?」
鈴の音が聴こえた。振り向いて、ああ、鈴の音ではなかったと気づく。人の声だった、女の子の。
女の子の…………。
──暗転。