鴉の告げる花の散り際
胡蝶カナエは、客間で寝息を立てる同年代と思しき男の子の顔から赤みが引いたのを見て、そっと胸を撫で下ろした。
いつの間に、とか。どうして、とか。疑問に思う事は多々あれど、庭にいた彼はカナエが声をかけた次の瞬間、白目を向いて倒れたのだ。それはもう見事に、受身も取らず、直立不動のまま、真後ろに。
すぐ様父と母を呼び、彼が軽度の熱中症と脱水症状を起こしていると知った。両親がてきぱきと処置を施し、家中の風通しを良くして客間に寝かせた。林檎のように真っ赤な顔をしていたものだから、熱でどうにかなってしまうのではないかと、ハラハラしていたところだった。
首に緩く巻いた手拭いを取り替える。水で濡らしているので、ひんやりとして気持ちがいい。今日は特に暑いから、倒れてしまうのも仕方がないのかもしれない。でも、どうして家の庭で…………?
そんな事を考えながら、団扇で緩く風を送る。妹のしのぶは、男の子のことを「怪しい」「姉さんが看病しなくたって」と言っていたが、カナエは彼が悪い人間には見えなかった。目が合ったその時に、そう思った。姉の自分が見知らぬ誰かに付きっきり、というのが、しのぶは面白くないのだろう。カナエは困ったな、と思いつつも、幸せを噛み締める。
「う……ンン……?」
どうやら意識を取り戻したらしい。男の子はゆっくりと起き上がる。しかしまだ思考は冴えていないのか、男の子はカナエが「大丈夫?」と声をかけても返事をせず、近くの机に置かれていた麦茶に手を伸ばすと一気に飲み干した。
「はぁ……は、…………?」
「身体の調子はどう?」
再度、目が合う。
「…………妖精だ」
ごく、小さな呟き。それこそ蝉の声、もしかしたら、風にさえかき消されてしまいそうな程の。
カナエが目を丸くしていると、男の子はようやく自分がどこにいるのかを理解したらしい。居住まいを正して、カナエに深々と頭を下げる。
「看病を……ああ、えっと、その前に。うん。勝手に上がり込んで、申し訳ない」
「い、いいえ、大丈夫。だからそんな……顔を上げて?」
パタパタと遠ざかる足音と、しのぶの声。恐らくは様子を見に来て、男の子が目覚めた事を両親に伝えに向かったのだろう。
何となく、口を開きづらくて、二人揃って黙り込む。そうしている内にカナエの両親がやってきて、男の子が回復している事を確認すると、「よかった」と朗らかに笑った。
「お世話になりました」
「いやいや、いいんだよ。でも、水分補給はしっかりね。帰るのは、もう少し涼しくなってからの方が良いかな」
「良ければ、この子達とも仲良くしてね」
そうカナエとしのぶを紹介して、両親は客間から出て行った。男の子はカナエとしのぶをそれぞれ見て、おずおずと口を開く。
「えっ……と、
「私は胡蝶カナエ。この子は……」
「…………しのぶ」
「カナエちゃんと、しのぶちゃん」
うん、覚えた。と晄夏はひとつ頷く。
「俺にも二人、妹がいるんだ。五つ下と、八つ下。五つ下の妹は、しのぶちゃんと同じくらい……だと思うんだけど」
「…………」
むすっとした顔で、カナエにぴったりとくっつくしのぶ。晄夏は困った様に笑い、カナエは眉尻を下げる。
「あなた、どうしてうちに来たの?」
しのぶの問いに、晄夏は気まずそうにまた麦茶を飲み干し、視線を彷徨わせてから「……蝶を」と白状した。
「綺麗な蝶がいて、どうしても、近くで見たくて……。いや、人様の家に勝手に入るのは、良くないと……うん、分かってはいたんだけど……。でも…………」
少し俯きながら、ちらりと上目遣いにカナエを見た晄夏は、また林檎のように真っ赤な顔をした。しのぶは頬を膨らませて晄夏を睨み、カナエはそんなしのぶを諌めながら、少しだけ速くなった鼓動を抑えようと、深呼吸をした。
その後は色んな話をした。好きなもの、嫌いなもの、得意なこと、苦手なこと。話していくうちに意気投合し、いつの間にかしのぶの眉間にあったシワも薄れ、離れたところにいた姉妹の両親は、楽しげに響いてくる笑い声に、顔を綻ばせた。
やがてカラスとヒグラシが鳴き始めると、晄夏はハッとして立ち上がった。
「帰らないと。今日は本当に世話になった」
「晄夏君が元気になってよかった」
「また倒れないでよね」
しのぶの言葉に、晄夏は苦笑いをしながら「気をつけるよ」と言い、改めて姉妹の両親に挨拶をして、見送りをするカナエに振り返る。三度、顔を赤らめながら。
「また、遊びに来ても……いいか?」
晄夏があまりに恥ずかしそうにそう言うものだから、つられてカナエもぽっ……と頬を色付かせる。
「うん。待ってる」
カナエがそう言えば、晄夏は大層嬉しそうな顔をし、軽やかな足取りで帰って行った。