第壱話


 ふと、空を見遣る。薄灰色の雲から松の葉のように細長い雨が落ちていた。つい先程まで、雲の切れ間から陽が射し込んでいたというのに。まだ一刻も経っていないはずだ。
 今日という日の天気は実に移り気だった。この小雨も時期に止み、また暫くして降るのだろう。

「あの……」

 ともすれば雨音にかき消されそうな程、控えめに声をかけられ、晋之丞はそちらに顔を向ける。薄暗い廊下でガラス越しに空を見ていた晋之丞に声をかけたのは、幼いながらに喪主を務める千寿郎だった。

 その日、煉獄家には黒い行列が出来ていた。
 先日長男である煉獄杏寿郎が若くして亡くなり、その死を悼む親類や知人らが、喪服を着込んで葬式にやって来ていたのだ。晋之丞もその一人だった。葬儀は滞りなく終わり、今は霊柩車の到着を待っているところだった。

「よければ、兄に……何か、声をかけて頂けないでしょうか」

 その表情からも分かるように、大人しく、物静かで、少し気弱な少年は、泣き腫らした目で晋之丞を見上げた。散々泣いたのだろうということは顔を見ずとも、兄弟のことを思い出せば分かる。傍から見て、実に仲の良い兄弟であり、千寿郎は兄の杏寿郎を尊敬していた。帰らぬ人となった兄を想い、泣いて、泣いて、それでもまだ泣き出しそうな千寿郎を無碍にできるほど、晋之丞は人でなしではなかった。

 晋之丞が頷くと、千寿郎は顔を綻ばせた。安堵の息を吐き、晋之丞を案内する。

 千寿郎がわざわざ晋之丞だけに声をかけ、どうか、と乞う様に頼んでいなければ、晋之丞は杏寿郎に何一つ声をかけていなかった。今後の墓参りだって親兄弟に連れられるまま、少なくとも自分の意思では行くつもりすらなかった。
 当然、かける言葉も用意していない。

 何を言えばいいのか、分からないというのもある。励ましでも送るのか、死んでいるのに? そもそも死んだ人間に声が届くはずもない。生きた人間が行うただの自己満足なら、声をかけずとも満足なのでするつもりはない。千寿郎の認識は違うようだが、晋之丞は杏寿郎のことを“腐れ縁”だと認識していた。互いの家が友好関係にあるから接点が生まれただけで、言葉を交わすことになっただけで。そうでなかったのなら、何も始まらなかっただろうと。

 不思議とその部屋は雨音も人の話し声も聞こえてこなかった。葬儀の際には読経とすすり泣く声が響いていたとは思えないほどに静まり返っている。

 千寿郎が棺の蓋を開ける。晋之丞は「そういえば顔をよく見ていなかった」と思った。他人の死に顔など、そう好き好んで見るものではないから。
 蓋をどけ、棺の傍で正座した千寿郎の目からは涙が零れていた。この場にいるのが自分と晋之丞だけということもあり、堪え切れなかった。
 晋之丞は千寿郎に倣って座し、棺を覗き込む。焔色の特徴的な髪が一番に目に入った。

「………………は、」

 愕然とした。
 建前として考えていた言葉もどこかへ飛んでいってしまう程の衝撃を、晋之丞は受けた。喉奥が熱を持ち、湿り気を失っていく。乾いた喉に代わり、思わず握った拳の内で汗が滲む。

(なんで笑ってんだ、コイツ)

 元々、晋之丞は杏寿郎のことを理解しているなどとは決して思っていなかったが、それでも、今回ばかりは本当に、心底理解できなかった。

 左目は潰れていると聞いた。腹に大穴を空けられたとも聞いた。想像を絶する苦痛があったのだろう。死を覚悟していたとしても、いざ目の前にして微塵も臆することがないなどというのは、不可能のはずだ。限りある命を生きる人間だからこそ。
 まして、この世に何の頓着も未練もない人間であるならばともかく、杏寿郎は違う。千寿郎の存在がある。杏寿郎をこの世に繋ぎ止める存在として十分過ぎるはずだ。見守りたいだろう、寄り添いたいだろう、生きて、いたいだろう。死にたくないと。

 杏寿郎の顔はどこまでも穏やかだった。ただ死んで力が抜けただけの人間がする顔ではないと、晋之丞は知っていた。だから余計に分からない。

「杏、寿郎」

 笑えない、笑えるはずがない。たかだか二十年ぽっちしか生きられていない人間が、どうして天寿をまっとうしたような顔をしていられる。

 辛うじて口を付いた呼びかけ以降、晋之丞は何も言えなくなってしまった。言葉が出て来なくなった。千寿郎は膝の上で固く握り締められていた晋之丞の拳を両手で包み込んだ。

 涙は出ない。悲しくないから。
 ただ、千寿郎はそんな晋之丞を見て、また新しい涙を流していた。

 とっ、とっ、と複数人の足音が耳に届き、千寿郎は顔を上げて涙を拭った。何度か拭っても溢れていた涙は、近づく足音の持ち主たちが部屋に入って来るまでの間に、何とか止めることができた。襖が開き、大人が三人現れる。晋之丞の両親と兄だ。「ここにいたのか」という口振りからして、晋之丞を探していたらしい。千寿郎は居住まいを正す。

「ああ、千寿郎君。杏寿郎のことは、本当に……残念に思う」

 晋之丞の兄である明之丞あけのじょうが、眉を下げて優し気に言う。その声色には確かに寂寥や悲哀があった。生きていてくれたら、という願いに偽りもない。

「何か困った事があれば、いつでも頼りなさい。燎家は煉獄家と共に在る」

 晋之丞の父がそう言い、母が同意を示すように頷いた。千寿郎は気遣いに対する謝辞を述べ、頭を下げる。
 明之丞は俯き加減の晋之丞を励ますように、肩に手を置いた。「辛いだろうが……」晋之丞と違い、明之丞の目元は少し擦った跡があった。

「杏寿郎に……続か、なければ、お前が……」

 言いながら、明之丞は息を詰まらせる。顔を背け、何度か咳をする明之丞を見て、母はすぐさま手に持っていた羽織を明之丞の背中にかける。

「雨で身体が冷えたのね。これ以上は身体に障るから、帰って休みましょう」
「ありがとう、母上……」

 母は明之丞に連れ添い、父もそれに続く形で出て行く。再び部屋が静かになると、晋之丞は小さく息を吐いて立ち上がった。千寿郎は咄嗟に晋之丞の手を握る。少し驚いた様子で千寿郎に振り返った晋之丞に、「あ……、う……」と口籠る。

「……っあ、ありがとう……ございました。兄上に、会ってくれて……」

 会った、という表現は適切なのか。晋之丞は何も言わずに千寿郎から目を逸らした。

 自分の兄の方が、この場にいるには適当だったのではと思う。あれは本当に杏寿郎の死を悲しんでいた。それはそうだろう、杏寿郎と明之丞は友人だ。千寿郎が本当に礼を告げるべきなのは兄ではないか。涙を流すこともなく、悲しむこともなく、辛いという感情も抱いていない、自分ではなく。
 もちろん、そんな人間なんだよと千寿郎に告げられるはずもない。ただ、やはり何を言っていいのか分からないので、晋之丞は無言を貫いた。そうするしかできないのだ。

「また、いらしてください。いつでも……本当に、いつでも」
「……ああ……」

 握られた手から、体温と共に伝わる千寿郎の想い。晋之丞は端的でぶっきらぼうな返事を喉から搾り出し、空いた手で千寿郎の頭を撫でた。

 その手付きはあまりにも慣れていない。不器用で、千寿郎に対する何らかの引け目や負い目が伝わってくる。千寿郎は上目遣いに晋之丞の表情を窺った。
 晋之丞は普段からあまり表情が変わらない──よく笑い、ハキハキと話す杏寿郎とは正反対に、いつも口を固く引き結んでいるか、眉根を寄せている人だった。口数も多くはない。
 今もよく見る表情をしているように思う。けれど、ほんの少しだけ。顔にかかる影が濃いような気がした。天気が悪いのと、黒い服を着ているからかもしれない。

弔いは二枚舌であれば

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