情けは人の為ならず

 おおよそ二百年を、静謐な教会で過ごしてきた。
 山奥にひっそりと建てられた、かつては豪華絢爛であった場所だ。人々が祈りを捧げ、許しを請い、そして塵の様に踏み荒らした聖域。太陽の光を受け、極彩色の神秘を透かしていたステンドグラスは砕け散り。高らかに讃美歌を唄い上げていたパイプオルガンは鼠の住処にもなれないほど捻じ曲がり。主の象徴、愛の証として掲げられていたはずの十字架は穢され。如何にも愚かしい、あるいは敬虔であった神父の亡骸だけが横たわる──生命の息吹ひとつ無い汚泥に塗れた廃屋にて。

 儚は根付いていた。己が人を呪う存在だという自負の下、ずっとそこにいた。

 まだ教会が煌びやかであった頃に、儚は発生していた。神の膝下、清廉なはずの場で呪いが生まれるなど皮肉でしかないが、それでも儚は生まれるべくして生まれたのだ。
 息づいていた神父は呪霊が見える側の人間であったので。対話の末に師と仰ぎ、父の様に慕い、教えを受け、倣い、人々に愛情を向けた。儚は己の根源──即ち、人間が放つ『儚』という呪霊を形作るに足る負の感情、その色をきちんと理解していたので、呪いでありながらも人間を慈しむ事ができた。情なくして人の営みはない。

 だから例え、己が出生地たる教会に人が寄りつかなくなったのだとしても、儚はそこにいた。
 自分が人間を呪う存在であると理解していたから。


 ──というのは、全て過去形である。

 人間好きの儚は、夏油傑を名乗る呪詛師に連れ出され、人里へ下りた。最後に人々と触れ合ったのは百五十年程前だったろうか。
 百年後の荒野を夢想し、自身と同じく特級に分類される呪霊たちと共に徒党を組むというのは、初めての経験であった。

 時代がすっかり移り変わった街は人で溢れている。その分呪いも至る所で発生し、呪術師たちはそれを祓う為に奔走し、数多の人間が呪われていた。世界の在り方がそうさせるのか、進歩しているようでしていない人間の人格がそうさせるのか。儚など比べるべくもない強力な呪いが発生している。呪いの王・両面宿儺の受肉が叶うなどというのも、変革の狼煙に違いなかった。

「お、ホントにここにいた」
「こんにちは。……扉はきちんと閉めてくださいね」

 街中にひっそりと佇む小さな教会。生まれ故郷を懐かしむかの如く、最後列の長椅子に座る儚。変革の徒、ツギハギ顔の青年──の形をした特級呪霊である真人は、ひょっこりと顔を覗かせて長椅子の背もたれに腕を置き頬杖をつく。
 ひとりでに開き、ひとりでに閉じる扉に違和感を覚えた人間は何人かいたが、すぐに風か何かだと適当な当たりをつけ、危機感を意識の外に放り投げた。教会内は静かなもので、恰幅の良い牧師が聖書の一文を恭しく読み上げる声だけが響いている。

 儚は瞼を下ろし、真人からすればどうにも真剣に祈っている様に見えた。……儚は常に目を閉じていてその虹彩を見るのは稀であるし、そもそも呪霊が何を祈るのだという話なのだけれど。

「ぼくに何か用事ですか?」
「あぁ、うん。儚も人間から生まれた呪いなんでしょ? 夏油が色々教えてもらえってさ」

 何かと訳知りな呪詛師は、やはり儚に関する事も例外ではなく。呪霊の真人から見ても胡散臭い訳知り顔で「君達気が合うんじゃない?」と、真人に儚の居場所を伝えたのだった。ご丁寧に詳細な時間帯まで。

「それはそれは。彼もまた随分と勝手なことを言うね。きみがぼくから学ぶことなど、何もないでしょうに」

 口許に薄く、穏やかな笑みを浮かべる儚。外見の美醜に興味も頓着もない真人だが、それでも美しいと思わせられる造形をしている。目を奪われ、心惹かれる存在として成っているのだ。「まあね。儚ってば弱いし」そう茶目っ気たっぷりに返事をする。

「でも聞きたいことはあるよ。例えばさ……コレって楽しい?」

 真人は人差し指を牧師に向ける。どうやらこの場には儚と真人を認識できるだけの呪力を持つ人間はいないようだった。現に人間たちの意識は、一切二人に向けられていない。

「楽しい、楽しくない……という括りには当てはまらないものですよ」
「じゃあ何でここにいるの?」
「自覚、そして確認。真人、きみも知っておいて損はない教えで溢れていますよ。有名どころで言えば、“汝の隣人を愛せよ”……とか」
「愛ィ?」

 素っ頓狂な声で復唱する真人。信じられないものを見る様な目を儚に向ける。儚は至極真面目な表情で、声色で言う。

「ぼくは人間が好きです。人間がいなければ呪いぼくは生まれていない。であれば、ぼくが愛すべき隣人は人間に相違ないでしょう」
「……花御が植物に言うんだったら分かるんだけど。人間なんかよりも呪い俺達の方が隣人じゃない?」
「ふ……勿論、大切ですよ。きみたちは」

 人間を愛するだなんて、気色悪い。真人は儚に見えない様に顔を背け、オエーッとえずくフリをした。話の最中にそれをしなかったのは、同じ人間から生まれた呪いだからこその気遣いだ。人間相手ならばそんなことはしない。

「アーメン」

 牧師が言い、そして祈る。人間たちはそれに倣う。儚は立ち上がり、牧師が朗読台に置いた聖書を取ると、真人に差し出した。つい先程まで手にしていて、確かに台の上へ置いたそれが瞬く間に紛失し、牧師は困惑した様子で辺りを見渡している。

「教えに従わずとも、人間の事が知りたいのであればこれを読むのが手っ取り早い。なにせ、人々がこぞって救いを求める罪悪の象徴ですからね」

 真人は、差し出された聖書と儚、そして牧師を順番に眺め、「いらない!」とにこやかに宣言した。

「こればっかりは儚から直接聞いた方が面白そう。教えてよ、先生」

 きょとんと、真人の言葉を理解するのに三秒ほど要した儚は、くっくっと喉の奥で笑いながら肩を震わせる。

「いいですよ。……えーと、そう、夏油傑。彼がぼくに何を求めているのかは知らないが、真人。きみが求めるのなら、ぼくは応えるとも。我が父の様に、教えを授けましょう。ぼくはきみよりも余程、長生きですからね」