呪 の畔
以前とある詐欺企業から奪い取った、呪霊一派の拠点。如何にも手垢に塗れた成金趣味なインテリアであったそこに当時の面影はなく、今では扉一枚を隔てた向こう側にリゾート地もかくやと言ったビーチが広がっている。眩い太陽、白い砂浜、青い海、突き抜けるような高い空──海への畏れから生まれた呪霊・陀艮の領域だ。未だ呪胎と言えど、強力な呪いである陀艮。彼の支配下にあるその領域は、呪霊にとっては居心地の好い場所だ。
現代の転覆を目論む身としてそう派手な行動はできようもないが、縛られている訳でもない。呪霊達は一貫して自由であったが、それでも大半の時間をその領域で過ごしている。
例外は、真人と儚だ。
共に『人間』から発生したことが理由なのか。もちろん拠点には顔を出す、呪霊同士の仲も良好だ。けれど各々拠点とは違った居場所を持っている。
悪趣味だ、と漏瑚は苦い顔で吐き捨てるのだが、儚は毎日街へ繰り出し、各所に点在する教会でひっそりと時間を消費している。それに対して漏瑚はやはり「呪いであろうが」と苦言を呈するのだが、儚の答えは「呪いだからですよ」と決まっている。言い争いにまで発展することはないが、完全なる平行線だ。呪霊一派間には特にこれと言った掟もなく、仲間を売る様な真似などするはずもなく、さらに言えば禁を犯している訳でもないので、漏瑚とてそれ以上は何も言えない。ただ、ちょっとした当てつけとして「そんなだから貴様は脆弱なのだ」と、時折儚を詰めた。「ぼくの強さは始めから打ち止めですよ」都度、儚はそう言い、同じ“呪い”として漏瑚は口を閉ざさざるを得ない、そんなやり取りがいくらかあった。
片や、真人の方は儚とは違い、人間がいない場所でひとりの時間を楽しんでいた。
好奇心旺盛な人間の子どもたちが一度は憧れる“隠れ家”というものを、自分の足で街を歩き、見つけ、人知れず居着いた。幾つもの配管が這うトンネルだ、浄化処理された生活排水が流れている為、空気は少し湿っている。
「どう? いい場所でしょ?」
「そうですね。ぼくはあまり、こういった場所で過ごした経験はありませんが」
──隠れ家に、真人は儚を招待した。先生、などと親しみを込めて呼称してみた日から、積極的に交流を続けている。数日程は、儚が過ごす教会にわざわざ顔を出していた真人だが、今日は「もっといい場所があるから」と儚を引っ張ってきたのだった。
ほのかに湿っているコンクリートの床に積まれた数冊の本は、真人が“人間”を考察する為に集めた物だ。既に読み終わったそれらを足蹴にし、道中、新たに本屋で調達した小説や詩集を小脇に抱えて、パイプの間に張ったハンモックへ飛び乗る。
「物は大切に扱いましょうね」
「はぁい先生」
儚は散らばった本を拾い上げ、適当にページを捲る。
「真人は人間を知る為に、小説や映画といった媒体を選んだのですね」
「うん。基本はつまんないけど、参考になるのもちらほらね」
「良い事だと思いますよ。アレらは人間の感情の機微が記号化されていて、分かりやすい」
ただ……と言葉を続ける儚に、真人はハンモックから身を乗り出す様にして下を見る。
「ぼくとしてはやはり、人間を知るには人間と関わるのが一番だと思うのだけど」
「触れてはいるけど?」
「それは術式の事でしょう。そうじゃないよ。人と対話し、考えや価値観を自分のそれと照らし合わせ、消化する」
「親交を深めろってこと? 好きだね、儚は」
「ふふ、漏瑚に言えば、またどやされてしまいますけれどね」
体勢を戻し、文字を目で追いながら思考する真人。適当に手に取った小説だが、偶然にも人と人ならざる存在の友情を描いたファンタジー小説らしかった。
異種族間の隔たり、だからこそ育まれる友情、迫害や亀裂、愛情、裏切り──展開されるストーリーはおおよそ予測できる程度の陳腐さであったが、儚の言葉を聞いた後であればある程度は一考に値する。
儚が親愛の情を抱いているかのように話す人間は、かつて確かに存在していた。呪いが“そうしたい”“そうしよう”などとは決して思わない関係構築を、行った実績がある。真人とて、良いものであろうとは微塵も想像していないけれど、知的好奇心は少なからず刺激された。ビジネスライクな協力関係ではない、情を用いた人間との接触は、如何程のものか。
「儚はさぁ、人間に色々教えてもらったんだっけ?」
「はい。ぼくを呪いと理解しながら、変わらず接する父がいました」
彼と過ごした日々は何物にも代えがたい。
──まるで歌う様に、儚は脳裏できらめく思い出を話して聞かせる。
儚は今と全く変わらぬ姿で発生した。血染めの絹糸の髪を、儚が父と呼び慕う神父は愛の象徴であると尊んだ。呪いである儚に何故そうも美しいのかと嘆きながら、ひたすらに真摯に、教えを説いた。ただ漠然と現実を受け止めるだけの赤子に等しかった儚は、さながら乾いたスポンジだ。知識や経験といった水を与えてやれば、瞬く間に吸収していった。今の真人は、その頃の儚と概ね同じ状態だろう。
「呪わなかったの? 人間を前にして?」
真人の言葉に、儚は曖昧に微笑みながら首を少し傾げた。
「人間は呪いを生み、呪いは人間を殺す。どんな呪いでも、本能で人間を殺す。……というか、呪うのは俺達の基礎代謝だ。人間が呼吸をわざわざ意識しない様に、俺達も人間を呪うことを特別だとは思わない」
「……えぇ、そうですね。真人の言うことは正しい」
「呪いたくはならなかった? せっかくそれだけのポテンシャルを持って生まれたのに、それこそ神サマからの贈り物ってヤツ?」
特級相当の呪力と、術式と、限りなく人間に近い容姿と、高い知能。
儚は特異な存在だ。それは呪霊一派の全員が認めるところであるし、あの夏油でさえもそう思っているからわざわざ連れ出したのだ。
「さて、どうかな」
言葉を濁す儚。真人は口を尖らせて「なんだよーそれぇ」と、胡乱な返答への不満を表す。
「事実として、ぼくは父を呪うことはしなかった。むしろ呪われそうになっていたくらいでね」
「え? 呪術師だったの?」
「いいえ、そうではなく。父は、ぼくに善きものであれと」
「あぁ……そういう」
呪う気にもならないくらい、相当な馬鹿だったらしい。──真人は儚が父と呼ぶ人間を、そう評価した。人間の悪性の吹き溜まりが形を生したものが呪霊であるにも関わらず、善い存在であれとか、一体どれだけ脳が足りないのだろう。呪いすらも都合のいい存在に押し込めようとする無神経さには、さすがの真人も舌を巻く。
とはいえ、儚は別段我慢しているという様子でもない。『呪われそうになった』というのは『呪われはしなかった』と解釈していいのだろう。それでも今、人間にとって無害であり続けるのは、自分の思うままに節制することが身についていると言うべきか。
それは少しばかり惜しい、真人はそう考える。戦闘力は皆無と言っていい儚だけれど、能力自体は間違いなく優れていて、呪いらしく人を呪う為に生まれているのだから、そうすればいいのに。そうしてくれた方が、きっと楽しいに違いないと、思ったのだ。