──2004年、某日。
斎条千尋が部活動へ向かう為、学校指定の鞄に教科書やノートを詰めている時の事だ。
突如として彼は、酸をかけられたかのような熱を右手の甲に感じた。幸い、その痛みは一瞬のもので、長引くものでもなかったものの、筆箱を床に落としたことでクラスメイトの視線が集まる。隣の席の女子生徒が「どうかした?」と言いながら、千尋の筆箱を拾って差し出した。
「いや……手が滑っただけ。拾ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
千尋は左手で筆箱を受け取ると、やや乱雑に鞄へ詰め込み、足早に教室を出る。昇降口へ向かう途中、所属する部活動の顧問とすれ違い、今日の部活動は休むと、適当な理由と共に告げた。
靴を履き替えると、千尋は走り出す。学校を出て、その足を向ける先に家は無い。真反対の方角へ駆けていく内に、街からも離れ、人気がなくなっていく。
やがてある雑木林へ辿り着いた。
鬱蒼と茂る木々の中に、数十年前まで林業会社が木材採取の拠点としていた建物がある。廃業してから、誰も取り壊さなかったらしいその空き家を、千尋は五年ほど前から勝手に拝借し、自身の工房として利用していた。
人避けの結界を張ってあるそこへ入り、ひと呼吸。
「…………何だ、これ」
右手の甲に現れた、赤い紋様。千尋はそれを、何者かからの攻撃であると、まず初めに考えた。
遅延発動型の呪い、あるいはマーキング──何の気配も感じさせることなく、完全なる意識の外からそれが行われたとするならば、相当な手練であると千尋は考えたのだが、加害される理由については、とんと心当たりがなかった。
攻撃であると仮定した場合、これほど手の込んだことをするほど、自分……ないしは、斎条家に強い感情を持つ者が、果たしているだろうか。
千尋の魔術回路は正常だった。赤い紋様が浮かんだこと以外、何の変化もない。
「…………」
……気が動転して工房に逃げ込んだが、この紋様がマーキングであれば悪手だったと、今になって思う。三度、深呼吸をして、千尋は改めて右手の甲を見た。
左右対称の謎の紋様は、高密度の魔力で形成されているようだ。これをリソースとすれば、本来時間のかかる大がかりな魔術を行使することも容易いだろう。
とはいえ、千尋にはこの
魔力リソースの使い方すら分からないのだが。
心を落ち着ける為のそれとは違う、諦念が大いに込められた息を吐く。魔術的な物である以上、相談できる先は限られている。
(……ちょっと気が重い……)
呪いの類であるならば解呪を、それ以外の何かであるならば解析を。
◆
千尋は足取り重く帰宅し、両親に手の甲に現れた紋様について尋ねた。
現れた時の状況、現れてからの経過時間、紋様を形成する魔力密度など──何度も同じことを聞かれ、何度も同じ返答をし、千尋が得られたのは多分な疲労と、両親でさえもこの紋様については何も知らないという事実だった。
両親は謎の紋様に対して眉間に深い皺を刻む。千尋が幾度目かの謝罪を機械的に口にした頃、邸宅の窓に見知らぬ使い魔が現れた。
その使い魔は、小さな体に似つかわしくない低い声で、淡々と言葉を紡いでいく。事前に録音されたものであり、質疑応答は不可能であると、最初に告げられた。
「この度、冬木市にて行われる聖杯戦争にて、聖堂教会が監督を務める。この使い魔は聖堂教会からの派遣である。本日15時7分、5人目のマスターが選抜されたことを感知した。斎条千尋、貴殿は聖杯戦争への参加権を獲得した」
使い魔は語る。
聖杯戦争は、7人のマスターが7騎の英霊をサーヴァントとし、万能の願望機を巡って行われるものであると。千尋の手の甲に現れた紋様は、令呪と呼ばれる聖杯戦争への参加権であり、サーヴァントに対する3回までの絶対命令権でもある。
「聖杯戦争への参加は強制されない。事前に降りると言うのであれば、冬木市の冬木教会まで赴くこと。聖堂教会の人間が令呪を回収する。そうでないのであれば、英霊召喚の儀をされよ」
使い魔は千尋に、魔術で封印が施された手紙を渡すと、用は済んだとばかりに去って行った。千尋は「聖杯戦争……」と、使い魔の言葉を反芻する。
戦争と銘打っているからには、命を賭けなければならないのだろうと思う。詳細はあえて口にしていないのだろう。千尋は、どう決着をつけるのかさえ分からないでいる。
万能の願望機たる聖杯を巡って行われると言うくらいだから、7人のマスターは協力関係でないと考えるのが妥当か。7騎のサーヴァント、とは言うが、一介の魔術師に英霊などという存在が扱いきれるものだろうか。
(マスター1人とサーヴァント1騎で一組か……? 英霊召喚なんてそう簡単にできるものじゃないはずだし、魔力のことも考えるなら……)
手紙に施されている封印は、令呪に反応して解ける仕掛けだったらしい。使い魔から渡された手紙を開けると、召喚陣と呪文が記されていた。
千尋は手紙を閉じると、両親の様子を窺う。
「聖杯戦争……聖堂教会が動くとなると、聖杯とは救世主のそれか? 眉唾物ではあるまいな」
「万能の願望機と言っていたけれど、本当にそうなら、根源へ至る道が拓けるかも……」
「あぁ、そうだ。英霊召喚なぞ行う大掛かりなものだ。聖杯戦争そのものが儀式なのだろう……となれば、千尋」
両親は期待の籠った眼差しを千尋に向ける。
「強力な英霊を召喚しなければ。少し待て、触媒を手配しよう」
「機運に恵まれたわ。千尋、準備は十全にね」
はい、と千尋は応える。微笑みを模る為に細めた瞳の奥で、仄かな野心を燻らせながら。
前頁 戻る 次頁