盲亀二木

 千尋の右手の甲に令呪が現れてから、およそ半月後。
 父から渡されたとある英雄の触媒を手に、千尋は街外れにある自身の工房で英霊召喚の為の準備を行う。

 聖堂教会から教えられた召喚陣を、水銀を使って床に描いていく。消去の中に退去、退去の陣を四つ刻んで召喚の陣で囲む。──英霊などという存在を現世に喚び出すという割に、手順自体はそう複雑ではないなと、千尋は思う。

(まぁ……聖杯がなければ、同じことをしても儀式は成立しないだろうけど……)

 召喚陣を描き終えると、千尋は触媒を陣のすぐ側に置き、手を翳す。
 ふう、と胸の辺りでつかえていた息を吐き出した。

「……──素に銀と鉄、礎に石と契約の大公。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 半月の間に暗記した召喚呪文だ。自身の体内に宿る魔術回路の全てを励起し、令呪を通じて召喚陣へと魔力を流し込む。

閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ閉じよみたせ。繰り返すつどに五度、ただ満たされる刻を破却する」

 命を懸けることの重さを、現代に生きる千尋が真の意味で理解することは難しい。聖杯戦争で死ぬかもしれない。漠然と思ってはいても、恐怖を感じ、忌避できるほどの実感はなかった。
 だが、それでも。

「──告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意この理に従うならば応えよ」

 斎条千尋は、聖杯戦争に参加させられるのではない。聖杯戦争に参加するのだという己の意志は、間違いなく本物であると、確かな実感を得ている。

「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。汝三大の言霊を纏う七天……」

 召喚陣が光を放つ。千尋は目を背けることなく、魔力と風の奔流に揺らぎそうになる体を、片足を下げることで支えた。

「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ!」

 詠唱を終えると同時、陣は一際強い光を放って千尋の網膜を灼く。咄嗟に下ろした瞼越しにも、その輝きは見えていた。吹きすさぶ風で、工房に置かれた備品のいくつかが床に落ちる。全身から魔力が持っていかれる感覚に、思わず膝から力が抜ける。尻餅をついた千尋はすぐさま立ち上がろうと腕に力を込めながらも、強く願った。

 この聖杯戦争を、必ず勝ち抜きたい──と。

 やがて光は穏やかに収まり、渦巻いていた風が止む。千尋が目を開けると、そこには誰かが立っていた。……視線が交わる。

「へぇー、あんたが僕のマスターちゃん?」

 気の抜けるような愛想笑いをしながら、その誰かは千尋に問いかけた。現代的な衣装に身を包み、腰には刀を差している。
 千尋は父が用意した触媒に一度視線を落とし、再度、召喚に成功したはずのサーヴァントを見た。……さて、父が触媒として用意したのは、日本の英雄の遺物であったろうか。

 どこか緩慢な動きで立ち上がり、服についた埃を払う。

「……あぁ、そう。僕がマスターです。よろしく、えぇと?」
「はい、よろしく。僕のことは気軽にセイバーとでも呼んでくれ」
「セイバー? ……外国人?」

 セイバーは、千尋の的外れな呟きに目を瞬かせる。真面目そうな顔をしながら首を傾げるマスターを見て、(あぁ、これ本気で言ってるやつか)と、内心溜息をついた。

「あー、まさかとは思うけど、マスターちゃん? 聖杯戦争のことあんまり知らない感じ?」
「……そうですね。知りません。聖杯戦争の参加権を得た半月前、聖堂教会の使い魔に概要を聞いたくらいで」

 魔術世界の歴史においても、“聖杯戦争”などという催しに前例はなく、魔術師として歴史ある家系で生まれ育った両親ですら知らなかったと、千尋は説明する。

「それでも両親が参加を望んでいる、僕も異論はない。……冬木市にいる聖堂教会の人間に話を聞くか、戦争中に把握するかで迷ってたんですけど……」
「いやいや……」

 セイバーは頬を引きつらせて苦笑いをする。戦争中に戦争の仔細を把握するなんて真似が、この少年にできるとは到底思えなかった。できるような人間は、まずそんなことを口にはしないからだ。
 命の重さに実感がない、思考が甘い。それなのに、若さ故の無謀さだけはいっちょ前に持ち合わせている。

 早死にするタイプだ、とセイバーは思った。戦いが日常とかけ離れている現代だからこそ、こうして五体満足で生きている少年ではあるけれど、戦争に身を投じてしまえば、その灯火はいとも簡単にかき消されてしまうだろう。

 こうしてサーヴァントとして現世に呼び出されてまですることが、まさか子どものお守りじゃあるまいな。……セイバーがそんなことを思考した瞬間、千尋の瞳がセイバーへ向く。
 一瞬、考えていることが伝わったのかと仮初の心臓が小さく跳ねた。千尋は瞳の奥に些かばかりの期待を光らせている。どうやら、無礼だと憤慨されかねない思考がバレた訳ではないようだった。

「セイバーが教えてくれるなら、都合がいい。曖昧な情報を話す理由もないでしょ」
「僕が魔術と縁があるように見える?」
「少なくとも、僕よりはずっと聖杯戦争に関する知識があるから、まさかとは思うけど、なんて言ったんじゃないんです?」

 確信めいて告げる少年に、セイバーは今度こそ、内心ではなく実際に溜息をついた。

「……あー、それじゃあ、まあ。僭越ながらサーヴァントの僕から、マスターに説明しましょうかね」
「よろしく、セイバー」

 千尋は召喚の際に落ちた備品を棚に戻しながら、部屋にあるソファーを指して「そこに座ってどうぞ」と言う。セイバーの姿を視界の端に捉えながら、千尋は何気なく呟いた。

「……昔は今よりも神秘が濃かった訳だから、剣士でも魔術は身近だったと思うんですけど。日本なら陰陽術とか」
「いやぁ、少なくとも僕はそういうの知らないなぁ。神秘が濃いって言われてもね、鬼だの妖怪だのなんてのは、空想だった訳だし」
「…………え。じゃあ、セイバーってもしかして、結構現代に近い……?」
「そうなんじゃない?」

 セイバーの返答に、千尋は触媒を拾い上げながら額に手を当てた。……あの父が用意した物だ。少なくとも、紀元前の英霊が喚ばれるはずである。

(触媒が機能しなかった……? 偽物か、この土地のせいだったり……)

 もしかすると、セイバーはこの辺りの地域で生まれ育っていたのかもしれない。

 どんな英霊を召喚したのかは黙っておこうと心に決め、千尋はセイバーと向かい合うようにして腰を下ろした。

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