飛花落葉

 凝り固まった肩をほぐすように腕を回しながら、千尋はノウム・カルデアの薄暗い廊下を歩く。消灯時間はとうに過ぎており、電力の節約の為に必要最低限の明かりしか灯っていなかった。スタッフもサーヴァントも、おおよそ眠りについているのだろう。そうでなくとも自室に引っ込んでいる為、日中の賑やかさはどこにもない。
 そんな中で、千尋の胃袋が空腹を告げた。ぐう、と鳴った腹を撫で、何か味の濃いものが食べたいなと思う。

 カルデアに赴任してからは度々ロマニに。人理焼却が起きてからはエミヤやブーディカ、ナイチンゲールに。ノウム・カルデアに来てからはゴルドルフやアスクレピオス、そしてナイチンゲールに。インスタントラーメンを好むのは構わないが、頻度を抑えろと再三注意されていた。特に深夜に食べるのは体に悪いからやめろと。

 しかし千尋は思うのだ。深夜のカップラーメンほど美味しい食べ物はない。深夜に食べずとも美味しい食べ物が、時間を変えるだけで化ける。これはもう魔法と言っても過言ではないのでは?
 どこぞの特異点で回収した物がまだ残っているはず、と千尋は食堂に足を踏み入れる。厨房に入り棚を開けば、簡潔に「控えるように」と書かれた紙が、カップ麺の容器の上に乗せられていた。書いたのはエミヤだろうか。結構久々のはずだからと都合のいい記憶を思い浮かべて内心言い訳をしつつ、ひとつ取り出して、水を入れたやかんを火にかける。沸騰を待つ間に火薬や粉末スープの袋を開けた。

 お湯が沸いたら規定量を容器に注ぎ、三分にセットしたキッチンタイマーのスタートボタンを押す。普段仕事をしている時は三分どころか三時間だって瞬きの間だが、カップ麺の完成を待っているとなかなかどうして長く感じてしまう。
 不思議だなぁと首を捻る千尋の耳に、革靴が床を叩く音が届いた。

「……婦長には黙っててくれ!」
「ん? ああ、三分蕎麦か」

 ひょっこりと顔を覗かせた斎藤に、咄嗟に口止めを願う千尋。こんな時間にカップラーメンを食べていると知られれば、きっと「依存症の疑いがあります。頭を開くか、胃を摘出しましょう」とかなんとか言われて、追いかけまわされるに決まっているのだ。だがしかしバレなければ何の問題もないという訳である。

 千尋のカップ麺好きと、不摂生を時折咎められていることを知っている斎藤は、悪戯っぽく笑って「僕にも半分ちょうだい」と条件を出した。千尋は首肯し、冷蔵庫から握り飯が二つ乗った皿を取り出す。

「これも半分こしよう。村正が夜食用に握ってくれたやつ」
「三分蕎麦じゃなくてそっち食べりゃいいのに」
「濃い味が食べたい口なんだよ。これは明日の朝にでも食べようと思ってた。セイバー、自分の分の器出して」
「はいはい」

 あと今日はそばじゃなくてラーメンな、と言いながら、千尋はタイマーがけたたましく時間を告げる直前で止めた。深夜の食堂にタイマーの音はよく響く。うっかり普段医務室に出入りしている誰かに聞かれでもしたら、ナイチンゲールに話が行ってしまう。

 席につき、カップ麺を半分斎藤の器へ移し、食べ始める。醤油とんこつスープが空っぽの胃袋によく沁みた。

「っあー……うまい! この一杯が癖になるんだよなぁ……!」

 ラーメンを汁物代わりに握り飯にかぶりつく。スープが濃いおかげで、米のやさしい甘さが引き立つようだった。添えられていた沢庵の食感もいい。

「ん、うまいうまい。やっぱ米と麺って合うよなぁ。そばと天丼とか」
「天丼かあ、いいな。村正に作ってもらうように頼んでみよっと」
「僕もご相伴に与ろうかね」

 稀代の鍛冶師に飯炊きの真似をさせるなんて、という台詞が斎藤の口から出てくることはない。斎藤が召喚される頃には村正は千尋の胃袋を掴んでいたし、ノウム・カルデアで再召喚されたかと思えば洋食に限ってはゴルドルフが名を連ねるようになっていた。「あー冷血貴族主義の魔術師風情が作る飯がこんなにもうまい! おかわり!」「君には馬車馬の如くキリキリ働いてもらわねばならんからねぇ藤田。たくさん食べなさいよ」というやり取りを見かけたことがあった。上司に飯炊きさせるのはどうなの? と思わないでもなかったが、村正然りゴルドルフ然り、本人達が好きでやっていることなので特に何も言わないでいる。

 うまいうまいと言いながらあっという間にラーメンと握り飯を胃袋に収め、薄めに淹れた緑茶を飲んで一息つく。

「そういやセイバー、なんでこんな時間に食堂来たんだよ」
「そりゃなんか小腹を満たせるものが欲しくてさ。前はラーメン頼んでおいたんだけど……」

 ああ、と思い当たる節でもあるかのように、千尋は相槌を打った。頬杖をついて斎藤の顔を見つめ「バレンタインの時だ?」と言う。

「立香ちゃんから聞いたよ。ああいう事を言われると、少し困る」
「……へえ?」

 斎藤が声のトーンを落とし、目を細める。千尋は冷め始めた緑茶を啜り、努めて平静を装った。

「あの子しかいないんだ。世界が漂白されたまま異聞帯に飲まれるなんてことになれば、あんたが生きた歴史だって無かったことになるって理解してるか? カルデアは“人理継続保障機関”だ、そんなことは到底認められないし、彼女が逃げる選択をするならこちらは強制せざるを得ない」

 それに、と斎藤が反論する前に千尋は言葉を続ける。

「仮にあの子がいなくなれば、代わりに据えられるのは俺だ。カドック君もいるけど、状態がな……。立香ちゃんから似たようなこと言われなかったか?」
「…………」
「図星かな? ……強制するなら、最初の内にするべきだったのかも、だ」

 千尋は斎藤がまだ召喚されていなかった頃──人理修復の始まりを語る。
 特異点・Fから帰還した藤丸に、ロマニは問うた。「君が人類を救いたいのなら。2016年から先の未来を取り戻したいのなら。君にカルデアの、人類の未来を背負う力はあるか?」と。藤丸がそれに対し「自分にできる事があるなら」と答えたことで、人類の未来は確定した。滅びに抗い、戦う道を選び、歩んで、生を手放さなかった。

 状況を鑑み、強制に近いと理解しながら問いを投げたロマニを、千尋は藤丸のいないところでひっそりと殴っていた。もちろん責めるに責められはしないので軽く。
 藤丸しかできる人はいない、サーヴァントと契約している自分はレイシフト適性が足りず特異点に赴けない。そんな歯がゆさからの八つ当たりであったことも認めているが、それにしたって情というものが欠けていると。千尋はロマニに「為政者としては百点満点、大人としてはマイナス点」と苦言を呈した。

「立香ちゃんのおかげで人理修復は為された。他の誰でもない、立香ちゃんだったからこそ出来たことだ。あの子は、カルデアのみんなの功績だって言うけどな……。……彼女が人類最後のマスターとして立つことを決めた時、俺はロマンを殴ったけど、いま思えばやっぱりあいつは正しいかもしれない。──仮に異聞帯攻略を強制していたら、あの子の足はとっくの昔に止まっていただろうから」

 だから、千尋は逃亡幇助を認められはしないのだ。カルデアの新所長補佐という立場がある。斎藤を慕う心がある。藤丸に戦いを投げ出されるのは、本当に困るのだ。

 ……代わってやれるものなら代わってやりたい。少女が傷を負わない道があるのなら、歩ませてやりたいと、そう強く思う。
 奇しくもそれは、斎条家に囚われていた千尋に対して“セイバー”が抱いていた想いと一致していた。

「代われないんだよ、今更な。逃げる……のも、あの子はしないだろ?」
「ああ……そうだな」
「うん。でもま、一ちゃんみたいな奴がいてくれるのはありがたいよ。俺はそういうこと言ってあげられないし」

 藤丸が契約するサーヴァントの中には、傷つくばかりの藤丸を憐れむ者もいる。重すぎる荷を背負わされる理不尽に怒る者もいる。それでも前を向いて進む姿を賞賛する者もいる。その旅路の最後を見届けようと寄り添う者もいる。
 マスターだからなのか。藤丸立香だからなのか。どちらにせよ、彼女を大切に想ってくれるのであればありがたいことだった。

 時間を捻出し、1対1で話す場を設ければ、全てではないのだろうけど藤丸は胸中を話してくれる。他の誰の前でも言えないことを零してくれる。ここまで共に歩んできた千尋相手であるから。
 しかし千尋は藤丸に重荷を背負わせるばかりで、半分持ってやることすら出来ていないと考え、笑顔の下で歯を食いしばっている。

 健常なメンタルでいられるはずがないのに、藤丸は今日も気丈に振る舞っている。その笑顔に翳りはなく、瞳に曇りもない。──そうさせたのは、他でもない自分大人だ。


 ──仮に藤丸がいなくなった際の代替として自分が抜擢されるだろうという自覚が、千尋にはある。
 当然、苦渋の決断としてだ。

 レイシフト適性が本当に乏しいこと以外は、千尋は藤丸の上位互換と言えたが、代わりになれる訳ではない。

 それを痛感させられたのが、ブラックバレルの件だった。
 シオンが用意したアトラス七大兵器の一つである概念武装のレプリカ。そもそも兵器というものを藤丸とマシュに持たせること自体、千尋は反対だった。それでも、そうでもしなければ異聞帯攻略などできないと言い含められ、だったらと弾丸になることを望んだ。
 ブラックバレルの弾丸に使われるのはマスターの令呪だ。砲手であるマシュと契約を結んでいる訳ではないが、一画に込められた魔力量だけで言えば藤丸より上回っている。より効率的に、より効果的に、より強力な一撃を放てるはずだと。

 だが、それすらも出来なかった。

 千尋では運命力が足りない。近い将来、形を保てなくなるであろう肉体ではブラックバレルの出力に耐え切れず、一発分の装填すら叶わない。
 トリスメギストスUが、シオンが、ダ・ヴィンチが、ホームズが、そう結論を出した。


 千尋はじっと斎藤の顔を見つめると、人差し指を立てる。

「俺はな、この先もう一度セイバーを召喚するっていう目標の他に、もう一つ大切な目的があるんだよ」
「……どんな?」
「藤丸立香を日常へ帰す。これは言わば、俺だけの冠位指定──グランドオーダーだ」

 セイバーの召喚はその後、と千尋は歯を見せて笑った。どこか子どもっぽい表情に、斎藤は少年時代の面影を見る。

「元には戻れなくても、生きている限りは新たに始めることができるだろ。……俺がセイバーと出会って、そうだったように」

 大切な思い出を噛み締める千尋。しかし、斎藤は表情を曇らせる。

「始まった……本当にそうか?」
「?」

 斎藤はすっかり隈が染み付いている千尋の顔を見て、微かに眉を寄せた。玄孫ほど血が遠くなっているのだから、そんなところは似なくてよかったのにと心底そう思う。似てしまったのは、千尋が激務に追われているからだが、カルデアにいなければそうなることもなかっただろう。

「死にたくなるくらいあの家が嫌だったんだろ。なのに、俺に逃がしてくれとも頼めない程囚われてた。聖杯にまで願って……。……魔術世界に身を置かなくても、お前なら上手くやれただろうに……そうしなかったのは、俺ともう一度会う為だったって言ってたよな」
「そうだけど……セイバー、俺は別に……魔術世界に縛られてる訳じゃない。斎条家にいた頃とは全然違う」
「縛ってるのは俺だ。新たに始めるどころか……千尋。お前はずっと地続きだろ」

 真の意味での自由を、与えてやれなかった。……斎藤の胸に燻るのは、座にまで刻まれた後悔なのだろうか。

 千尋は眉を吊り上げ、拳を机に叩きつけた。その衝撃で皿に乗せていた箸が転がり、地面に落ちる。カラカラと寂しげな音を響かせた。

「馬鹿言え! バカ! 俺に召喚してくれって言ったくせに、今更! このバカ!」
「な……! あれはお前が路頭に迷って死にそうな顔してたから、無理難題押し付けてやれば生きられるだろうってなぁ!」
「素直に俺だけのセイバーになりたいって言えよ! 俺は、俺に、今更セイバーの心配なんていらねぇ!」
「はあ? 心配するだろ! 歳重ねただけで大人になれるとでも思ってんのか? そりゃ成長した部分もあるけどな、俺からすればお前なんてあの頃と変わらないガキなんだよ!」
「マリスビリーはクソ野郎だったけど、俺はカルデアに来たことを後悔してない! セイバーに縛られてるとも思ってない! 俺は自由になって、セイバーのおかげで自由になれて! だから……」

 ぐっ、と口を噤んだ千尋は、もう一度拳を机に叩きつけた。

「……あの日から始まった十数年に後悔なんてあるもんか。あんたが誠に準じたように、俺は俺の心に従った」
「…………、はぁ……」

 溜息をついて、斎藤は後頭部を掻く。何を言ったところで、千尋が斎藤を責めることはないと分かってしまった。──否、それに関しては最初から分かりきっていたことだったか。

「ほんと、俺のこと好きだねえ千尋君は」
「当たり前だろ」
「ははっ! そうだな」

 セイバーだから。斎藤一だから。恩人だから。高祖父だから。──理由は数あれど、抱く親愛を恥じらう必要がどこにあるのかと、千尋は堂々としてみせる。向けられる真っ直ぐな好意が、斎藤にとってはどこかこそばゆい。自分ではない、あの日退去してしまった自分との絆を見ているからだろうか。

 孫にここまで好かれるなんて、まったく爺ちゃん冥利に尽きる。
 斎藤がそんなことを言うと、千尋は楽しげに笑った。

 落ちた箸を拾いながら、千尋は席を立つ。

「そろそろ寝るわ、俺。くれぐれも婦長には今日の事言うなよセイバー」
「分かった分かった。僕も共犯だしねぇ、言わないよ」

 よし、と頷き、皿や箸を片付ける千尋。カップ麺を食べたことの隠蔽工作も慣れたものである。……たまに見つかってしまうこともあるが。

「じゃあおやすみ。……立香ちゃんのこと、これからもよろしくな。一ちゃん」
「ああ、おやすみ。言われるまでもねえ、サーヴァントですから」

 ──残る異聞帯は二つ。
 オルガマリー・アニムスフィアの姿をした異星の神と、どう決着をつけるか。勝利を手にした先に、果たして元の人類史を取り戻す未来は待っているのか。懸念材料は募るばかりだが、目の前の壁をひとつずつ突破していくしかない。

 きっとやりきれるさ、とひとり廊下を歩く千尋は、心臓の辺りを掴む。焦がれ続けて諦めた、セイバーと生きる未来をもう一度目標として据えたのならば、そのひとつ前にある『藤丸立香を日常へ帰す』というオーダーは完遂できるだろうと思った。
 終わりに至るまでの道のりはまだまだ長い。立って、走り続けなければ。

 いつか垣間見た夢の中で、セイバーはそうしていたのだから。

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