甘いの、甘い

水槽の中から見える歪んだその景色に慣れてしまった。
僅かでも手が届く距離に近付いてしまった過去の自分は、陸に憧れた人魚姫と同じ。
最初から、代償を払う勇気なんて持ち合わせていなかったのである。



これといった大きな亀裂があったわけではない。むしろ傷一つない綺麗なまま関係性を隠岐と彼女は築いていた。
今も目の前で新作のフラペチーノを口にする彼は、相変わらずにこにこと微笑んで彼女のことを見つめる。

「眉間にしわなんか寄せて、どないしたん?」
「え、嘘。そんな顔してた?」
「無自覚やったとは。何か悩みでもあるんとちゃう?」
「…………何にも、無いけど」

まるで心当たりなんてひとつもありません、ととぼけた顔をする。そんなのは大嘘だ。彼に見抜かれないように、彼女はさらに眉間にしわを寄せてみる。不思議な顔をした彼女を見た彼が「可愛い顔が台無しやで、そんな顔やめてや」といつものように、さらりと褒め言葉を口にした。息をするように吐き出される言葉に未だ慣れずにいる彼女は、分かりやすく顔を火照らせる。彼はそんな彼女の表情を見て、満足そうに微笑んだ。
フラペチーノよりもいとも容易く胸焼けがしてしまいそうになる生活には、時々塩っぱい味が必要なのかもしれない。



「で? 結局隠岐と別れたいってこと?」
「何でそうなるの」
「隠岐のこと分かんなくなっちゃった〜って言われたら、俺は別れたいのかなぁとか思っちゃうよ」
「本人に言ったら同じこと言われる?」
「いやぁそれはねえな。隠岐、ああ見えてお前のことスゲー好きだから」

出水は揚げたてのポテトを何本か掴み、大きな口を開けて放り込む。彼女は小さく音を立て、シェイクを吸いながら彼の食べっぷりをぼうっと眺めた。今にも泣き出しそうな瞳を隠すように、俯く彼女の口に無理やりポテトを詰め込んだ。んぐ、と可愛くない声を出した彼女に彼は声を出して笑う。

「なんで隠岐のこと分かんなくなっちゃったんだよ、喧嘩でもしたのか?」
「してないよ、でも」
「でも?」
「最近、隠岐くんの告白の回数が増えてて前はちゃんと全部言ってくれてたんだけど、ここのところ私が知らないことが多くて……」

最後の一個を口にしながら、出水は先日見かけた隠岐の告白の現場を思い返す。頭の中で流れるビデオを見て、出水はサッと血の気が引いた。

「出水? なんでそんな顔してるの」
「お前、最後に隠岐に教えてもらったのいつだ」
「えっと多分二週間くらい前かな」

出水の記憶にある真新しい映像は、三日前である。この事実を告げるか告げないか、良き友人の立場として彼は頭を悩ませた。
あー、んー、そうだな、と言葉を濁し始めた彼に何かを察したのか、彼女は「隠さなくていいよ、ちゃんと聞くから」ときゅっと手に力を込めた。ストローを登るシェイクに、気付かない彼女はさらに力を強める。出水は見ないふりをして、言葉を続けた。

「俺が最後に見たのは三日前。そんでさらに言うと」

べちゃっ、とトレーを汚したシェイク。溢れたシェイクは、彼女の動揺を隠しきれずにいた。



手に力が入らず、重い音を立てて滑り落ちていく端末。
出水から聞かされた話が何度も頭の中を巡り、自然と涙がこぼれた。

「………………キス?」
「隠岐の名誉の為に言うけど、隠岐は被害者な。わりぃ、言っておいてあれだけどやっぱ聞きたくなかったよな」
「ううん、知らないままよりはずっとマシ」
「三日前、隠岐の様子おかしくなかったか?」
「三日前……」

三日前は隠岐と新作のフラペチーノを飲みに行った日である。彼の普段と変わらない様子を思い返し、余計に涙が溢れてきた。
やっぱり、隠岐のことが分からなくなってしまった。

ブーッブーッと端末が震える。画面を確認することなく、彼女は通話ボタンを押した。

「…………今から、会えたりせえへん?」

少しの沈黙のあと聞こえてきた関西弁の声。彼女は抱き枕を抱きしめ、震える体を落ち着かせようと精一杯だった。
もう一度聞こえてきた彼の言葉に、掠れた声で答えることしか出来ない。彼女は小さな声で「会いたくない」と告げることしか出来なかった。
ブチッと切られた電話に、隠岐は画面を見つめることしか出来ずにいた。そして、頭を抱えてその場にしゃがみこんでしまった。

かんっぜんに、おれが悪い。こんなん、おれのせいや

行き場のない感情をどうにかしようとしても、情けなくため息が出るだけ。会いたくないと言われてしまったら、話の付けようがない。
彼は、気を逸らすかのように射撃場に足を運んだ。



いつも彼女のことをどうやって見つけていたのか分からなくなってしまった。
休み時間のタイミングで教室を覗いても見当たらない。一人になりたいときに必ず訪れる階段の踊り場にも居ない。本部基地は以ての外である。尻尾を掴むことすらできず、二日経った頃にはそろそろ彼も限界が近付いていた。

「……すげぇ顔してるぞ」
「おれ、思うてたよりもあの子がいないとあかんみたいやったわ。猫不足よりも辛くて死にそうや……」
「悪い。勝手にアイツに喋っちまって」
「出水は悪くないねん。隠してたおれが悪いんやから」

壁の隅でしゃがみこんでいた隠岐を見つけた出水は、罪滅ぼしのつもりで自身の端末を見せた。そこには今も絶えず送られてくる彼女からの通知が映し出されていた。

「……隠岐くんの、馬鹿?」

まるで出水と隠岐が一緒にいることを知っているかのような文面が、突然送られてくる。辺りを見渡しても彼女の姿を見つけることは出来ない。隠岐はそのまま出水の端末から電話をかけた。

「おいっ、勝手に」
「どこにおんねん……」

不在着信の四文字が虚しく表示される。隠岐は何回目か分からない大きなため息をついて、頭を抱えた。がしがしと乱雑に頭を掻きむしる。

「明日の、夜十九時」

出水は隠岐の顔面目掛けて、手にしていたタオルを投げる。アステロイドを向けないだけ感謝しろと言わんばかりに、至近距離から投げつけた。

「アイツ、明日オペの人たちと飯行くって言ってたから」

隠岐があっけらかんとしていると、出水は隠岐の額にデコピンをお見舞いする。歯を食いしばり、出水は自身を落ち着けようとして大きく肩で息をした。

「………………お前が行かないなら、俺が行く。いつまでも良い奴じゃねえから」
「出水……」
「忠告したからな!とりあえずお前この後ひと試合させろ。腹立って仕方ねえ!」
「返す言葉もあらへんわ」

隠岐は、降参と腕を上げて出水の背中を追いかけた。
狙いの定まらない隠岐の射撃を見て、出水は大声で笑った。



隠岐と出水がランク戦でやり込んでいた次の日の朝。彼女が靴箱を開けると、一枚の紙がヒラヒラと床に落ちた。拾い上げてみれば、何とも分かりやすい呼び出しの文。このままズルズルと隠岐と話をしないまま自然消滅になってしまうくらいなら、と良くない考えが頭を過ぎる。
バチンと彼女は自身の頬を叩いて、手紙をぐしゃくじゃにしゴミ箱に放り込んだ。同じことをやり返してしまっては意味が無い。そろそろ意地を張るのも辞めるべきなのは分かっているのだが、辞めどきが分からなくなってしまっていた。

またポテチ食べてんの? と友人が呆れた顔をする。そう言いながらも友人は袋から一枚ポテトチップスを取りだし、口の中へ運んだ。

「最近好きなんだよね」
「毎日違う味食べてるし、ほんとどこから見つけてくるの」
「掘り出し物だからね」

チーズバーガー味、なんて見たときは絶対に美味しくないと思っていたが食べてみたら案外美味しい。最後に甘いものを口にしたのはいつだっただろうか。そろそろ飽きがやってきたのも事実である。

「あ、そういえばアンタのこと呼んでる人居たよ」
「え?」

もしかしたら、と淡い期待をして廊下へ出るも彼女の望む相手では無かった。このまま教室へ戻ることもできず、彼女は男子生徒の後ろを着いて向かった。


「隠岐と別れたの?」
「……えっと、別れてないけど」
「でも最近一緒に居ないよね」

嫌な予感がする。そう感じた彼女は、一歩引いて距離を取った。夏を過ぎたというのに、額には汗が流れる。右から左へ流れていく男子生徒の言葉。ちらりと時計を見れば、あと十分ほどで休み時間が終わろうとしていた。

「何も用がないなら、戻る……けど」

線引きをするかのように、空き教室の目の前で彼女は立ち止まった。生徒は、意を決したのか振り返って彼女と目を合わせる。全て見透かされているような瞳に、喉の奥がヒュっと鳴るような気がした。

「俺と付き合ってよ、遅かれ早かれ隠岐とは別れるんでしょ?」
「だから、隠岐くんとは」
「俺知ってるよ、隠岐が違う女とキスしてたの」

ガツンと頭を殴られた感覚に、目の前が真っ白になる。思わずふらっと倒れそうになるが、生徒がそのまま腕を引っ張った。声が出ない。

代償を払う勇気なんて、彼女には持ち合わせていなかった。針が刺さるような痛みも、その声も。彼女は、何も差し出すことが出来なかった。
水槽の中で、眺めているだけの景色の方がずっと美しかったかもしれない。

「知らなかった? 知ってたと思ったんだけど。やっぱり隠岐ってそういう奴なんだよ」

そんな、隠岐くんはそんな人じゃない。
分かっているのに、言葉にすることは出来ずに呼吸だけが荒くなる。生徒を押し返そうとしても、手に力が入らず体重を預けてしまうような形になってしまう。

まるで、水の中で溺れてるようだ。

「…………ち、がっ」
「なに?」
「お、隠岐くんは、そんな人じゃ……ないっ、」
「それって恋は盲目ってやつ? 隠岐のこと過大評価しすぎなんじゃねえの?」
「ちが、うって!! 言って、んの!」

ドンっと生徒の身体を押し返す。気付いたときには倒れると思い、ぎゅっと目を瞑った。

「…………勝手に、人の彼女攫うなんてどんな頭してんねん。ええ加減にせぇや」

抱きとめられたときに、香る彼の匂い。聞こえてくるいつもよりも速い心拍に、何故か安心感を覚えてしまう。ぼろぼろとこぼれる涙を拭う余裕なんて彼女には残っていなかった。



「落ち着いた?」
「……うん、ごめんね」
「それはこっちの台詞や、ごめん」

真っ赤になってしまった彼女の目に優しく触れ、隠岐は彼女を抱きしめた。休み時間はとっくに終わってしまっている。騒がしかった廊下が、今はしんと静まっていて彼の声がやけにはっきり聞こえてきて、ドキドキしてしまう。しーっと人差し指を立てた彼はゆっくりと空き教室の扉を閉め、鍵をかけた。

「さっき、出水がな」
「出水?」
「……知らん奴に、連れられてるぞって教えてくれてな」

隠岐は彼女を離し、キュッと手を握りしめた。そしてその場に力なくしゃがみ込む。彼女も彼と目線を合わせるように、その場にしゃがみ込んだ。彼の瞳は、不安と焦りでいっぱいになっていた。

「ほんまに、あかん思うて。しまいには泣いとるし」

涙を堪え、震える声で話を続ける彼を抱きしめようとするが彼はそれを許さないというようにぎゅうっと更に力強く手を握りしめた。

「……おれのせいなんやけど、な。隠し事、されるの嫌や言うたのおれなのにおれも隠し事してた。おれの口から言うの、怖くて。ほんま、情けないわ……すまんな、ほんと」
「私も、意地張ってごめんね。ずっと、隠岐くんのこと避けてて」
「自分は悪うないねん、おれのせいやから」

ああ、あかん涙出てきたわと笑う彼に堪らず抱きついた。ゆっくりと背中に回される手に、安心して彼女は彼の肩に顔を埋める。

「隠岐くんに、振られると思った」
「振るわけないやん、おれこんなに好きなのに」

むにっと頬を手のひらで包まれる。恥ずかしくなった彼女は、いつものように顔を火照らせた。

ほんま、かわいい。絶対離したりなんかせぇへん

ちゅうっと口付けを落とせば、ほんのりと塩の味がした。
当分、塩っぱいものは食べたくないかもしれない。



「お前ら、俺に言うことは」
「ほんますみませんでした」
「……ご迷惑をお掛けしました」

太刀川隊の隊室で、ドーンと威張った態度を見せる出水。今回ばかりは彼の態度も頷けるものであった。
隠岐と彼女は、菓子折りを持って出水に謝罪をした。良いところのどら焼きを口にしながら、出水はケラケラと笑う。

「まぁいーって、お前らが仲直りしてくれて良かったわ」
「あ、そうだ。出水ちょっと遅くなったんだけどこれ誕プレ」
「え!? まじ?!」
「ちょい待ち、今日誕生日の彼氏のおれが貰ってへんのに先に出水に渡すんか?」
「誕生日は出水の方が先じゃん」

おれのは〜と駄々をこねる隠岐の横で、彼女は出水への誕プレを手渡す。出水は勝ち誇った顔をして、隠岐を見下ろした。

「うっわ、何やその顔。うっざい顔やな」
「イケメンって言えよ」

何故か言い合いを続ける二人を他所に、彼女は一足先に隊室を後にしようとする。それに気付いた隠岐が、彼女の背中を追い後ろから覆いかぶさった。数日前の喧嘩の後から彼は、執拗いくらいに彼女の後ろをついて回っている。猫よりも犬のようだ。

「隠岐くんの誕プレね、この前の謝罪も意味も込めて選んでたらいっぱいになっちゃったから……」

申し訳なさそうに、眉を下げて「だから家まで取りに来て」とはにかむ彼女に思わず、隠岐は彼女の肩に顔を埋めて息を吸った。

「期待してええ?」
「隠岐くんの好きそうなものいっぱい買ったよ」
「うーん、そうやなぁ」

煮え切らない返事の彼に、彼女は首を傾げる。
彼は顎を掴んで、そのまま彼女にキスをした。言葉の意図を理解した彼女は、みるみるうちに顔を赤く染めていく。

甘い生クリーム乗ったケーキ、やっぱり甘いものの摂りすぎは身体に毒かもしれない。けれども、与え続けられる甘味に飽きることはないだろう。


「いっぱい、好きって言うてあげる」

flavoring