項にかかる長い髪を括り、少し雑に髪ゴムでひとつにまとめる。短い髪が項に触れるのもお構い無し。机に置かれた銀色に輝く長年の相棒を手に取り、ぬるくなった金属に唇を添える。
フルート。木管楽器の一種で、エアリード式の横笛である。木の管と書くのに、この楽器は木で出来ているわけではない。かつては木で出来ていたようだが。
彼女は今日もこのフルートを吹いている。三階の空き教室、蒸し暑い夏の日に一人で。
「一人で何してるの」
「……見れば分かるでしょ」
音も立てずにやって来たこの男は、彼女とクラスメイトの犬飼だった。彼女は彼が得意ではない。何を考えているのか分からない、飄々としていて掴みどころがない。だからこそ、何故こんな所に来ているのかも分からなかった。
彼女は彼のことを追い出すわけでもなく、ただ一言彼からの質問に答え、再び視線を楽譜へと戻す。鳥の鳴き声と比喩されるフルートの音は、心地が良く、犬飼は目を閉じて音に聞き惚れた。
一定のリズムを刻む電子音と、フルート。この場だけ、涼しい風が吹いているのでさえ感じられるほどであった。
「何しに来たの」
「聴きに来たんだよ」
「何を」
「何を、ってフルートだよ」
「犬飼に音楽鑑賞の趣味があるとは思えないんだけど」
「辛辣すぎない?」
あざとく首を傾げて、彼女に笑いかけてみる。彼女は眉間に皺を寄せて、いかにも怪しむような表情しか見せない。彼女はそれ以上彼に話しかけることはなく、楽譜とにらめっこを続けた。
気が付けば、犬飼はその場におらず、彼女はため息として吐き出した息を大きく吸い込んで、音を奏でた。
「ねえ、おれさ聴きたいやつあんの」
「あのさ、なんでここに居るの」
あの日以来、犬飼は度々彼女が練習している空き教室にやって来ることがあった。彼の聴きに来たという言葉に嘘はないようで、話しかけることもなく満足したらいつの間にか居なくなっていることも多々あった。
だが、今日は彼女が教室へ向かうよりも早く彼が待ち伏せをしていたようであった。
彼女が普段練習をしている場所に腰掛け、ニコニコと彼は微笑んでいる。彼女はため息をつき、いつもとは反対側の机に荷物を置いた。
「おっ、吹いてくれるの?」
「嫌だよ、吹かないよ」
「なんでよ。おれからのリクエスト応えてよ」
「そんな暇ないの」
「え〜」
「大体毎日なんでこんな所に来るの」
彼女は視線を向けずに彼に問いかける。日が当たって、銀色が反射する。ふっと、楽器に息を通せば低い音が響いた。そして、トゥー、トゥー、トゥトゥトゥ、と一定のリズムを奏でる。一向に返事がない彼の方へ視線を向ければ、彼は肘を着いてこちらを見ていた。
「な、何……」
「フルートが似合うなと思って」
「は、はぁ……?」
「ねえおれ聴きたいの、オペラ座の怪人」
彼は立ち上がって、彼女の側まで距離を詰める。そして、机の上にある楽譜を捲り一番最初のページを指さした。
「おれ好きなんだよね。これ」
「……からかってるの」
「違うよ」
ファイルの一番最初にしまってあるオペラ座の怪人の楽譜。これは去年の演奏会で演奏したものであった。そして、彼女がソロパートを吹けなかった曲でもある。
「好きだから、これが一番」
彼の目を見たら、自然と楽譜に手が伸びていた。彼女は書き込みで真っ黒になった譜面に視線を落とす。譜面なんか見ずとも、指は勝手に動いた。
「うん、やっぱり好き」
「……そう」
彼女にはやっぱり彼が何を考えているか分からないままであった。
突然の雷雨であった。傘を持っていなかった彼女は、昇降口の前で佇む以外に選択肢はなく、時間の潰し方を考えていた。楽器を抱えて駅まで走ることも考えたが、これだけ勢いのよい降り方をしているのならば一時間もしないうちに止むだろうと、彼女は時間が過ぎるのを待つことにした。
スマートフォンを取りだし、イヤホンの電源を入れる。流れ込んでくる聴きなれたフレーズに思わず口ずさんでしまう。自然に動く指、息遣い、まるで生きるのと同じように、彼女にとっては身体に染み付いたものであった。
「なーにしてんの」
「……犬飼、」
真剣に音楽を聴きながら、フレーズを口に出して、指を動かす後ろ姿。顔を覗き込めば、やはり彼女であった。彼はにっこりと笑って、彼女に声を掛ける。気を利かすように、イヤホンを外し答えてくれる所は優しい。
「もしかして傘忘れた?」
「そうだよ」
「入る?」
「いや、大丈夫」
「入りなよ」
「いいって言ってんじゃん」
「じゃあ、入って」
そう言えば、彼女は呆気に取られた表情を見せる。犬飼はけらけらと笑い、彼女の腕を引いて傘の下に引き込む。
「ちょっ、と!」
「良いじゃん、家隣なんだから」
「そう、だけど……」
「あーあ昔は可愛かったのになぁ」
肘で脇腹を小突く彼女は、犬飼の幼馴染であった。中学校へ進学した辺りから徐々に疎遠になり、彼はボーダーに所属し、彼女はフルートに夢中になったり、いつの間にか呼び方すら変わっていた。
ひとつ傘の下、昔よりも背も伸びて大きくなった彼らには狭くて窮屈であった。雨の音だけが響いて、直接頭の中にこだまするようにさえ感じる。
「ねえ、祭り行こうよ。夏祭り」
「は? 何でよ。私じゃなくて違う人と行けばいいじゃん」
「7月の終わり、空いてる?」
「……話聞いてた?」
彼はスマートフォンを操作しながら、ほらこの日と写真を見せた。彼女は画面を覗き込み、自身のスマートフォンで予定を照らし合わせる。何だかんだ付き合ってくれるんだねと言おうとしたが、口にしてしまったら断られてしまいそうなので辞めた。
「ごめん。部活だ」
「ん、じゃあ終わるの待ってるから」
「え、いや、なんでよ。他の人と行きなって」
鈍感なこの幼馴染は、きっと自分がただ夏祭りに行きたいだけだと思っているようである。彼は彼女の顔を覗き込み、むにっと頬を掴んだ。
「おれはお前と行きたいの。なんで分かんないかな」
「な、なんでわたし……」
彼女は気付いていない。その肩にかかる真っ直ぐで艶やかな黒髪と、大きな目。楽器を吹くからと整えられた爪に、ほんのりと色づくピンクの唇。自分自身が可愛いことに、彼女は気付いていないのだ。
「いいじゃん。たまにはおれと遊んでよ」
「尻軽みたいな言い方ですっごい嫌だ」
「……本当さ、ここまで言わなきゃわかんないの? 頭の中、フルートのことしかないの?」
「何が言いたいの、意味わかんないんだけど。あと、別にフルートのことだけじゃないし」
「うん、まぁ分かった。とりあえず祭りの日、空けておいてね」
これ以上何を言っても無駄だと思った彼は、大人しく攻めるのをやめた。煮え切らない彼女は眉間に皺を寄せて、彼の顔を見つめる。やっぱり何を考えているのか分からない。
家に着くまでに雨が止むことはなく、結局彼にお世話になってしまった。玄関先から彼の顔を見ても、彼は変わらず笑顔を向けている。
「……傘、ありがとう」
「いいえ、またね」
「うん、またね」
彼が横を向いたときに濡れた彼の肩に気づき、咄嗟にタオルを手に取って再び彼の側へ向かう。
「澄晴っ、肩……!」
「ちょ! そのまま出てきたら濡れるでしょ?!」
彼も咄嗟に彼女の方へ傘を傾ける。彼女はバサッと彼にタオルを被せた。腕を掴まれ、ぐいっと傘を真っ直ぐに持ち直させられる。ここまで彼女のことを濡らさずに帰ってきたのに、台無しだ。彼女は雨に降られてびしょびしょである。
「もう〜……なにしてんの、おれすぐ家だからこれくらい平気だって。お前が濡れてどうすんの」
「あっ、いや、ごめん……」
「あはは、いいよ。名前で呼んでくれたから」
「名前……?」
「さっきおれのこと澄晴って呼んだでしょ」
「えっ、あ……」
ぷいっと顔を背ける彼女が可愛らしくて、思わず彼は濡れた前髪に触れる。
「おれは大丈夫だから、早く風呂入りな」
「ご、ごめん……」
今度こそ彼女が家に入ったのを確認する。彼は被さったタオルの温かさに笑ってしまった。