硝子の靴は割れてしまった

 いつだって、出来事は突然起こるものだ。
 ナマエは目の前に立つシルヴァンをぼんやりと眺めていた。
 シルヴァンの顔は眉間に皺が寄せられて苦々しく、いつもの軽薄さなど微塵も窺えない。

「……なんて」

 口の中が乾いて声が掠れた。
 理解したくないと脳が叫んで、聞きたくないと耳が拒む。
 ナマエを気遣うようにシルヴァンが再び重たい口を開いた。
 ────帝国が教団を裏切った。黒鷲の学級アドラークラッセも先生も一緒に。
 もちろん、フェリクスもだ。

「そっかー…-」

 やけに遠く聞こえる声にナマエはそっとまぶたを閉じる。
 浮かぶのは、剣を振る大きな背中。

「私とフェリクスじゃ、目指すところが違ったのかー……」

 幼い頃から伸ばし続けた手は、結局何も捕まえられずに。
 ずいぶん遠くに行ってしまった背中をそっと脳裏でかき消した。

「帝国軍、きっとすぐガルグ=マクへ攻めてくるよね」
「そうらしい。二週間程度だったか」

 目蓋を開けてシルヴァンを見たナマエの瞳は意志を固めたように強い。

「ナマエ」
「大丈夫だよ、シルヴァン」

 心配そうに覗き込んだ兄貴分へ、まだ少し歪な笑顔を向けた。




 二週間というのは短いようで長い。
 修道院を歩き回るたびに、何かが一つずつ抜け落ちていく感覚を痛いほど味わった。
 訓練場に行けば剣捌きを、食堂に行けば食べっぷりを、教室に行けば授業態度を思い出す。
 割り切ったつもりでいたが、まだ体も思考もいなくなった幼馴染を鮮明に覚えているのだ。
 ナマエはディミトリの隣の空になった部屋で一人ぼんやりと佇んだ。

「ほんっと、残酷だなあー」

 きっとエーデルガルトやヒューベルトを除く黒鷲の学級アドラークラッセにとっても、前節は不測の事態だったのだろう。
 寮の部屋は荷物がそのままになっていて、それが酷く心を締め付けた。
 部屋にはやや乱雑に置かれた本や、武具の手入れ道具が残っている。
 本人がいるときに部屋に入ったことはないが、まったくフェリクスらしい部屋だ。

黒鷲アドラーなんかに行っちゃって、今頃喋れる人がいなくて困ってればいいのに」

 悪態を吐きながら部屋の片付けを始める。
 とりあえずはまとめてロドリグに送りつける予定だ。

「ふんふふーん、フェリクスは屈折のー、屁理屈のー、素直じゃなーい」

 何も考えないために手を動かし口を動かす。
 即興で出来た歌は我ながらひどく、フェリクスの怒る顔が目に浮かんだ。

「……フェリクスの馬鹿」

 考えないようにしていたのに。
 本をまとめる手が止まった。いつもは尖らせる唇を痛いくらい噛み締める。
 目頭に熱が集まり、やがて本を濡らした。
 ────変わらないって言ったのに。そう簡単に変わるような付き合いじゃないって、言ったくせに。
 呟いた声は誰に届くことなく天井に吸い込まれた。



 この数日後、目測通り侵攻をしてきた新アドラステア皇帝エーデルガルト率いる帝国軍が、ガルグ=マク大修道院を攻囲。多くの犠牲を出しながらも、これを陥落せしめた。
 時の大司教レアは、セイロス騎士団を率いて帝国軍を迎え撃ち、自ら陣頭に立って戦うも苦戦、ファーガス神聖王国の王都フェルディアへと撤退し、再起を図る。
 この一戦を機にアドラステア帝国はファーガス神聖王国ならびにレスター諸侯同盟領への侵攻を本格化。
 フォドラ統一に動き始めたのである。