零れおちる愛の音

 ディミトリ、と呼ぶ声が「殿下」に変わったのはいつのことだったか。
 いつのまにかフェリクスもナマエもイングリットも名前で呼ばなくなっていた。
 寂しいといえば寂しいが、立場上そうも言っていられない。変わらず名前で呼び合う幼馴染たちが羨ましくないとは言い切れない、が。

「あっいたいた!殿下!」

 満足いくまで槍を振り終えたディミトリに駆け寄ったのは今しがた思い浮かべたばかりの幼馴染の一人だった。

「ナマエ? どうした?」
「どうしたもこうしたも! なーに目の下にそんな大きな隈作ってんですか! 訓練してないで休んでください!」
「……ドゥドゥーみたいなことを言うんだな」

 自分よりもいくらか下にある頭が怒ったように揺れる。
 ディミトリは微妙な笑顔でそれを見ていた。

「ドゥドゥーも言ってるなら余計休んでくださいよ。あんたが倒れたら……」

 ナマエの言葉が不自然に切れる。
 何か恐ろしいものでも思い出したのか、眉は下げられ、顔はわかりやすく青ざめた。

「心配するな、ナマエ。俺の体はそんなに柔じゃない。それに、休まらないのは前からだ」
「……ええ、知ってますよ」

 噛み締めるように頷いたナマエは一度目を伏せてから、ディミトリを真っ直ぐ見据える。

「それでも、せめて体は休めてください」

 ドゥドゥーよりも若干柔らかく懇願したナマエは、付き合いの長さからかディミトリの性質をよく理解していた。
 手放しに休めと言ってるわけじゃない。
 考えごとがあるなら頭を使っててもいいが、体は休ませろと。
 言外を読み取ったディミトリが苦笑した。

「ああ、そうだな」
「……本当に分かってます?」

 疑い深い幼馴染は眉根を寄せて、下からディミトリの顔を覗き込む。
 同じ高さだった視線はいつのまにか随分と低い位置に変わった。

「わかってる。……なあ、ナマエ。ここは王国ではないんだし、俺に付いていなくてもいいんだぞ?」

 その言葉に、ナマエの唇が噛み締めるように結ばれる。眉は一層下げられた。
 
「そんなこと言わないでください」

 絞り出すようにして吐いた声が痛い。
 かける言葉を間違えた、というのはすぐに気付いたが、こんなときにどう誤魔化していいかわからない。
 軽薄で調子の良い幼馴染の一人なら上手く誤魔化すだろう。いや、そもそもあんな顔をさせないのか。

「違うんだ、その、嫌なわけではない。ただナマエにも色んな交友があるだろうから、と思っただけで」

 決して嫌ではない。と念を押すと、ナマエはほんの僅かだが表情を和らげた。

「殿下。私は好きで殿下のそばにいるんですからね。あんまり気を使わないでください」

 ほのかに唇の端を持ち上げたその顔が、何故だかずっと大人びて見えて落ち着かない。
 思わず目を逸らした。

「……なら、ナマエもその態度を改めてくれ」
「え」
「昔のように接してほしい」

 ナマエが言葉に詰まる。
 何もこれはナマエだけに限定して言っていることじゃない。
 アッシュやドゥドゥーにも同じように頼んだことがある。断られたが。

「いやいや無理ですって……。というかですよ殿下? 私、そんなに昔と変わりました?」

 苦笑いになったナマエに、ディミトリは顎へ手を置いて考える仕草をとった。
 言われてみれば、ナマエの態度はたしかに昔から変わっていない。
 それなら、何故距離を感じるのか。

「変わっていないが……」
「でしょう? もー、急にどうしたんです」

 ころころと笑うナマエの表情には幼い頃の面影がある。
 まだフェリクスもナマエも自分のことをディミトリと呼んでいたあの頃。

「……以前のように名前で呼んでくれてもいいんだぞ?」
「あはは、相変わらず冗談が下手ですねぇ」

 ナマエが眉を下げて笑うのに対して、冗談ではない、とはなぜか言えなかった。