愛情が明日を阻む

 あれから数日、ナマエとディミトリは微妙な距離をとっていた。────というより、ナマエが一方的に避けていると言ったほうが正しいだろう。
 最低限の会話はするが、それ以上はない。
 ディミトリもナマエにどう声をかけて良いか掴めず、溝を埋めることが出来なかったそんな時だった。
 実習でディミトリが怪我をしたのである。

 幸いにも大事に至ることは無かったが、報告を受けたときのナマエの心情は計り知れない。
 それこそ、ここ数日の気まずさを全て忘れて医務室へ飛び込むほどであった。

「殿下に何かあったら、どうしようかと」

 寝台に横たわるディミトリを見るなり、ぼろぼろと涙をこぼして嗚咽を漏らすナマエにディミトリは苦笑した。

「そんな柔じゃないと前にも言っただろう」
「そうですけど! 殿下はもっと自分を大切にしてください!」

 軽く告げた言葉はナマエの涙腺をさらに刺激する結果となった。
 一向に泣き止まないナマエにディミトリもしどろもどろである。

「な、泣くな。泣かれると、どうしていいか」

 今まで泣いたところを見たことがなかったから余計だ。
 上体を起こしたディミトリは寝台脇の椅子に座るナマエへ手を伸ばす。

「じゃあ泣かせないでくださいよ〜! ご自身をもっと大切に生きてください〜!」

 顔を上げたナマエに、涙を拭おうと伸ばした腕が止まった。
 涙で濡れた頬も、赤くなった目元も、情けなく下がった眉も、全部初めて見る。

「……なんというか、ナマエもそんなふうに泣くんだな」

 思ったままを口にすると、ナマエはぐしゃぐしゃの顔のまま口を尖らせた。

「どういうことですか……泣きますよ」

 その声すら震えていて、やはり自分はナマエのことをあまり知らなかったのだと痛いほど実感する。

「ナマエは……もっとこう、冷徹な印象というか。士官学校に入ってからはより感情を表に出さなかったから」

 ディミトリの吐露は気付けなかった自分を責めている色を含んでいた。
 ナマエは唇を尖らせたまま、ディミトリに開き直って噛み付く。

「そりゃあ泣きますよ! 普段は目一杯抑えてるんです! 特に殿下にはかっこいいところ見せたいですからね!」
「それは……なかなか男前だ」
「ありがとうございます!」

 やけくそのお礼ですら、いつもよりずっと感情が込められていて、どこか一線引いた言葉よりずっと心地がいい。

「今のナマエの方が好ましいな」
「え」

 ナマエが予期せぬ展開に目を剥いた。
 そんなナマエの様子に気づかず、ディミトリは穏やかな笑顔で続ける。

「感情をぶつけてくれた方が、嬉しいんだ」
「え」

 青い瞳が真っ直ぐナマエを映して、緩く細められた。
 心臓の音が大きくなる。この間期待して失敗したばかりなのに、懲りもせず期待する。

「ナマエが腹を抱えて笑ったり、泣いたりしているところを見たい」

 告げた言葉に嘘偽りは一つもない。
 それは、ナマエにも伝わった。

「泣いてるところもですか……悪趣味ですね」
「もちろん、笑っててくれた方がいい」

 あまりにも甘くて期待させるようなことを言うディミトリへ、せめてもの反抗に棘付きで口を挟むも、笑顔でかわされる。
 本当にずるい人だ。

「感情を我慢しているより、前面に出しているナマエの方が……好きだ」

 こんなことを言われて、期待しない方がおかしい。つい先日、期待して失敗したのを含めても期待する。

「……そんなこと言われたら、期待します」
「期待?」

 恨めしい気持ちを込めて告げたのに、ディミトリはその機微に気づかなかったらしい。
 こういったことに関してとことん鈍感な彼にナマエはもう見栄もかっこつけも忘れて地団駄を踏んだ。

「もー! 殿下は本当に鈍すぎますよ! 期待は期待です!」

 頬は熱いし濡れてるし、泣きすぎて頭は痛いしで感情も顔もぐちゃぐちゃ。
 振るならはやくスパッと振って、金輪際期待させるようなことを言わないでほしい。

「……ああ、そうか、なるほど」

 何やら神妙な様子でうなずいたディミトリにナマエは恨みがましい視線を送った。

「なに一人で納得してるんですか」

 こちとらこの間から貴方に振り回されっぱなしで情緒が色々大変なんですよ。というのは言わずに目で訴える。
 もちろん、それに気づくディミトリではないのだが。

「いや、期待してくれていい。ナマエ」
「……え?」

 思わぬ返しに、ナマエは目を丸くした。
 都合の良い解釈しかできない頭を何とか回転させて考える。
 結論にたどり着くより先に、ディミトリが口を開いて続けた。

「もっと知りたい、もっと近くにいて、もっと笑顔を見たいと思うのは……そういうことなんだろう?」

 いつか、シルヴァンから聞いたことだ。
 自分の欲を恥じた日。なんて贅沢なことを欲しているんだと頭を抱えたあの日。
 まさか目の前にいる人物からその言葉が出てくるとは思いもしない。

「……何か言ってくれ」

 全く何も言わないナマエにディミトリが居心地悪そうな声で促した。
 ようやく我に返ったナマエは、吃りながらなんとか絞り出す。

「わ、えと、いや、え? それは、つまり」

 もう間違えたくない。
 至極慎重になったナマエの頬にディミトリの手が触れる。熱いのはナマエの頬ばかりではなかった。

「……シルヴァンより先に頼ってほしい、といえばいいのか」
「そ、そこですか」

 思っていた返しではなかったことに落胆しつつ、突っ走らなくて良かったと安堵する。
 残念だが、まあ、こんなものだ。
 ナマエが落ち着くために息を吐き出したのと同時に、ディミトリが動いた。

「いや、違うな。……ナマエ」

 頬にあった手が、唇をなぞる。
 形を確かめるように触れた指が熱い。

「どうやら俺はナマエのことが好きらしい」
「ら、らしいってなんです……」

 いまいちはっきりしないディミトリへ苦言を添えたが、心臓は期待に早鐘を打っている。

「恋をしたことがないから、わからないんだ」

 声は弱気混じりなのに、瞳は真っ直ぐ強気にナマエを射抜く。手に入れたいと思ったら手に入れる、欲深い瞳だ。

「なあ、ナマエ」

 低く鋭い音に、唾を飲む。
 逃げられないと本能が悟って足が竦んだ。

「俺はお前の一番なんだよな?」

 ナマエは静かに目を伏せた。
 ────たとえ茨の道であろうとも、何が行く手を阻もうとも。

「貴方だけです」

 唇から指が離れ、熱が遠ざかる。

「そうか。……俺も、お前がいればいい」
「……はい」

 愛の言葉にしては重く、冷たい。
 再びナマエの頬に滴った涙を、ディミトリは舌で舐めとった。
 もう、戻ることはできない。
 この共依存から、抜け出せない。
 
「泣き顔も笑った顔も、見せるのは俺にだけでいい」

 歪んだ愛には気付けない。