雑記    

人生と失敗


ハードモードな今とこれからにもはや笑うしかない、自業自得ではあるけど、ぜってぇ失敗とは言わせねぇぞという謎の決意はある、ハードモードな私の人生は全て自業自得、だからこそ失敗だなんて言わせるもんかよ、私の中には忍たちの背中がある

コケたことも間違えたこともそれを認めるのはいいけど、それを理由に私の生き方を失敗と言われたら許せんなと思う。私は私を生きてる、人生成功かは分からんが失敗はしていない、私を生きてるから。





傷と謝罪


傷となるものを渡してしまったかもしれない。
そう考えることが怖い。
人を傷つける自分であることに傷つく自分から逃げたかもしれなかった。

謝りたいという意志がある。
けれど、謝ることすら自己満足な気がする。
どうすればいいのだろう。
どうすれば、好意を抱いた優しい方の優しさに甘えることなく、その優しさに傷をつけることなく、言葉を渡せるのだろう。

ある人に謝られると、悲しかった。
ある人に謝られると、傷つくことがあった。
そんな経験をしているから、もしも私の謝罪がそうなってしまったらという想像を破り捨てることができない。
くしゃくしゃになりそうなくらい真剣な目で握りしめている、きっと。

謝りたい。
傷つけたくはない。
傷つけてしまったのなら、できること全てで謝りたい。
謝ってどうにかなるものではない傷でも、もう傷つけることがないように、謝ることで教えてほしい。
真摯に約束をさせてほしい。
もう二度と同じことで傷つけることがないように。
傷つけたのなら教えてほしい。
そんなのは、わがままだろうか。






人間はどんどんと“人”ではなくなっていく。
感覚を捨て、思いを捨て、思い出を得ることをやめたら、それは本当に人なのだろうか。
悲しい。
時間をかけて感覚と思いの残る一瞬を、それが永遠でないとしてもその時のたった一瞬を得るために時間をかけ感覚を研ぎ澄まし心を抱えるという人のいじらしさを、どんどんと捨てていく世の中。
悲しい。
悲しいよ、心を捨てないで、時間を捨てないで、永遠でないことを、無意義な時間の積み重ねでつくられる有意義を、捨てないで。





自己犠牲


自己犠牲とは一種のエゴであるんだろうな、そうすることが最大限の愛を示すことになると、それが精一杯頑張って考えた愛の終焉だと、その後の世界の終わりを自分は見なくてすむという逃げ。それでも愛だからと考える私はやはり、因为爱 所以爱ですべてを身勝手に赦して生きている。





珍妙な経歴


おそらく少し珍妙な経歴を持っていて、パッケージとして良い響きのものではないそれを、私は劣等感に繋がる重しのひとつだと感じながら5年かけて「面白いでしょ?気に入ってるんだ」と言えるものに着せ替えることに成功し、今は本心から気に入っているから、それを人に差し出して私を踏み台にして心を落ち着かせてほしいなどという傲慢なことを思うのだけれど、人を踏み台にして心の安寧を図ったことに気がついた時にその本人が自分自身に対して傷ついてしまうことを危惧していて、私は未だ誰にもそうして差し出せていない。
踏み台にされたいという願望があるのかも。
そうされた方が珍妙な経歴が喜ぶ気がして。





まだここに


渡してもらえた手の中の言葉を冥界までそして来世まで持っていくことを許してもらえるかわからないから、私はまだ今世にいる方がいいかな





無題


音楽を愛していよう、音楽を、この世の何よりも素晴らしく憎らしいほどに美しいものを、愛していたい、眩しすぎる世界でも色のない世界でも生きていけるよ、出会えてよかった、音楽、私の世界に来てくれてありがとう、赤い糸すら見えないくらい盲目に溺れてるの、でも睨んでも効かないのよね、知ってる





褒めてくれたあなたへ


この所これまでになく褒められすぎていて、嬉しいけど嬉しすぎて不安だよ、そんな柔らかい繭に包まれても大丈夫かな、そんな優しさの中のものは私で大丈夫かな、いつその繭を不用意に突き破って刃を向けてしまうかわからないよ、私の甘噛みがあなたの優しさを引き裂いてしまうものでないといいのだけど





音楽。


音楽。人類が滅びるその最後の瞬間まで、人の心と共にあり、その生命力をいつまでも力強く持ち続けていて。どこまでも愛を渡され恨みを引きずりそれでも人の心と共に在って。その命の魂をいつまでも人と共に。人の手の中で舞い、人の手の中から溢れ出し、すべてを無に返してただ音楽としてそこに。人が滅びるその瞬間まで、人と共に在って。一生の願い。音楽、いつまでもその魂を人と共に在って。愛しているよ。恨めしいほどに。





愛してるよ。


学内コンクールの決勝を聴いてきた。
良い音楽に触れると本当に、音楽のある世界に生まれて良かったと思う。
生きててよかったな、音楽を愛せて良かった。
音楽への愛を抱く私で良かった。
私が私であって良かった。音楽、愛してるよ。
どれだけ苦しめられようとも愛してる。





寂しがり


素敵な人と出会うと人は寂しがりになるのかもしれない、人が恋しくなる自分に強くありたい自分が説教している声が聞こえる、「でもあんただって人を好きになりたい自分に気づいてるだろ」と言ってやると気まずそうにする、大丈夫どっちも故意に潰しはしない。





言葉に真摯にいたい


真摯にいたいです。
言葉を信じたいと同時に疑いたいと思っています。
それが私なりの真摯です。
受け取った言葉に感じた “相手の意志” を信じたい。
一方で、私の感じたものを “相手の言葉である” と仮定したその正しさを疑うことを忘れずにいたい。
人の意志を汲み取れる自信がなく、人のことをちゃんと解る自信がないから、そうしています。
私は、言葉に真摯にいたいです。





伝道師


愛には伝道師が必要なんです、時に。
抱えているだけでも愛でているだけでも愛が伝わるとは限らないし道になるとは限らないので。
お勧めされるのが好きです。その先どこまで好きになるかを私に託してくれたら嬉しくてもっと好き。
愛の行く先を教えてくれてありがとう、駅を増やしてくれてありがとうね。





経験と考えと共感


私は私の経験しか持っていなくて、私の考えというのも私の経験から芽が出たものだから、自分の意見を言う時は極力経験を添えようと思って話してるかも。
真摯に向き合いたい相手であればあるほどそうなる。こういう経験からこういう考えに“私は”なった という1サンプルとして差し出すつもりでいる。
だから、踏み倒すも吸い込むもご自由にどうぞというものしか差し出さないし、踏み倒されてもそれは無理だと言われても構わない相手にだけ、もしそうされてもいい経験だけ差し出す。
私の意志で隣にいるだけいるから私の差し出すものは好きに使ってほしいし、私は極力ただ隣にいることだけ頑張るよと。

隣にいるのを頑張るというのは、 拒絶しないこと 自分の意志で好意を抱いてそこにいること 手を伸ばされたらその手を握る気でいること を伝えるのを怠らないことかな。
難しいね、でも、どう在ろうともただ優しくありたいのは同じなずだからそこだけは忘れないようにいたい。
優しくしたい心を感じとりたい。





無題


真摯でありたい。愛を抱いたものには真摯でありたい。持てるだけの真摯で向き合う自分でいたい。そのための言葉だと思ってるから、だから、赦して。なんて、ね。だから「愛してる、ごめん」なんだもんな。





祈りのお話


友人に宛てた祈りの話を書いている。
友人を通して抱いた、人々への祈りと願い。
全ての人にそれぞれの優しい時間があればいいのに。





「生きていてほしい」


「生きていてほしい」とは重い言葉で、それをわかっていながらも軽々しく言ってきた。それ以外に言えることがなかった。救うことも笑わせることも楽しませることも泣かせることも私には手に余ることであったから。それでも身勝手に言ってきた。生きてほしかった。それ以外にどう言うべきか、今はまだ「愛している」としか言い方が見つかっていない。命が好きで、魂が好きで、心が好きで、愛している。だから、生きてほしい。そう身勝手に言う。





愛の傷と怒り


私は、愛を抱いた遠くの誰かを くだらない人たち と言われた時の怒りを忘れたくはないし、愛を向けることを 時間の無駄 とされた時の怒りも忘れたくはないし、いつになったら捨てるのか待たれていたことも忘れられない。その傷は私の愛の傷だから痛くても苦しくてもいつか愛おしくなると信じてるの。





無題


愛の結晶の子を私の言葉で描きたい
行き場のない空想を幻に捧げて、握りしめた来世を雨で溶かして、雪の花を私の手の中で咲かせておくれ
愛の結晶であることを疑わずにいたかったから
捨てられない模倣の結晶を霞へと





無題


愛が好きです。一瞬でも永遠でも寄り道でも構わない。ただそこに足跡が残されている限り、愛という心が好きです。愛を感じられるものだから、言葉を大切に手に取りたい。





無題


愛が好きですし、時に愛だけで充分です
情報や経験は愛のことではなく、愛の先によくあるものというだけですから





自尊心と何者


何者かになんてならなくていい。世界の特別にもだ。
私はただ、自分と全てを共有できる人がこの世に存在しないという孤独を知った時、自分は世界に1人しかいなかったことを知った。そして、誰かと自分の欠片を見せ合った時、自分には握手と拍手と抱擁をできる手があったことを知った。
ただそれだけ。
そしてそれが、私の自尊心である。





呼吸


息の仕方がわからなくなることがある。
胸を完璧な水平で作られた厚い鉄の板に抑えられ、果たして動いているのかも怪しい薄い動きで砂ひとつまみほど息を吸い、砂の気配を微かに感じた瞬間にはもう鉄の重みに耐えられず取り落とし、また新たにヒュっと吸う。
そんな風に呼吸を繰り返してあえいでいた。

もういっそ息など止めてしまえと無理やり力をこめると、その数秒後には最後に吸った砂の霞がぺっと吐き出され、今度は肩まで巻き添えにして腹を引きずって息ができるようになる。それならば深く吸いたいとつい欲張るものの、どれだけ吸えても吐き出されるのは唾のような混濁した何かのダマだった。

そんな風にして、時々、息をすることさえままならず、息の仕方さえもわからなくなる。
それでも生きているのだから、人とはよくわからない。





執着されることへの怯え


好かれることも執着されることも、特別な思いだから嬉しい。だけどどこか後ろめたさを感じてしまって、うっすらといつも苦手意識がある。嬉しいのに。
たぶん私は、それに大切にできるか分からない自分が嫌なんだ。自分を信じることができない。惚れたものの美しさは信じられるのに、惚れたと喜ぶ自分の心を信じられないのと同じなのだと思う。
嬉しい感情を私にくれた人を、私自身はちゃんと大切にできるだろうか、できないかもしれない、もしそうだったら……という怯えと申し訳なさ。
だから、執着されていつか捨てられる恐怖よりも、執着するほど好きになってくれたのに捨てて傷つけてしまうかもしれない未来の自分の行動に怯えている。





学びによる楽しみへの略奪


アニメやゲームなどを無意義と言われた時に「いや、これは勉強になるから」って理由付けするの、よく考えたら変だな。

娯楽から好きや楽しいを得ることと勉強になるものから学びを得ることの難しさの差はそこまで大きくない気がする。
そこに意識を向けるかどうか、そこで自分が得たことに対する達成感をどのくらい感じられるかの向き不向きはあれど、娯楽に無理やり「勉強になる」という価値を与えないとまるで楽しんではいけないみたいになるのは謎。

勉強の全てから自分にとって有意義な学びを得られないのと同じように、全ての娯楽から自分にとって有意義な楽しみを得られるとは限らないのだから、学びが貴重なように楽しみや好きも希少なもの。

楽しいから面白いから好きだからという理由でそれらに時間をかけるのは無意義だとされてしまうのは、どうも受け入れてはいけない気がしてきた。重要なのはその娯楽が勉強になるかではなく、学びと楽しみのバランスを自己管理できるかどうかだよね。

融合はいいけど略奪はだめだよ。結局バランスが崩れてるもの。