幸せな話
幸せな話はなんぼでもあっていいんです、なんぼでも聞きたい、大切な人が幸せで嬉しいっていうのは幸せの結晶でできてるからもう、聞く度に嬉しい、溢れるほどあっても絶対にすべてに違う色があるんだから、何度でも幸せ、だって大切な誰かの幸せで喜ぶ誰かが幸せの象徴でないなんてことはないでしょ?
幸せな話を聞くと、私は道のお花ににこにこします、かわいいなって。それって幸せのおすそわけが嬉しくって見えるかわいいお花なんですよ。
雑記
幸せな話はなんぼでもあっていいんです、なんぼでも聞きたい、大切な人が幸せで嬉しいっていうのは幸せの結晶でできてるからもう、聞く度に嬉しい、溢れるほどあっても絶対にすべてに違う色があるんだから、何度でも幸せ、だって大切な誰かの幸せで喜ぶ誰かが幸せの象徴でないなんてことはないでしょ?
幸せな話を聞くと、私は道のお花ににこにこします、かわいいなって。それって幸せのおすそわけが嬉しくって見えるかわいいお花なんですよ。
音楽を愛しています。表現を愛しています。人の心を愛しています。時に愛していることが憎くなるくらいは。
心を世界だとして。感情が天気や天災だとして。
その世界に住んでるのは私ひとりなんだけど、友人や家族、好きな人やキャラたちが木やお花、動物として生きている。大切な物は家具や日用品に、学問や音楽やエンタメが季節や色に。
誰は何として在るかなって考えてる。
嫌いだけど愛はあるし、尊敬してないけどすごいと思うし、一緒にいたくないけど感謝してるの、どういう言葉がお似合い?
表現ってほんとうに好き。魅せられるのも、魅せようと苦しむのも、やめられない。
だから表現者もたまらなく好き。
私は表現者である。って、自分の人生の最後にそれだけでも残っていたら、そういう自意識さえ残っていたら、私は自分を誇れる気がしている。
相棒を世界で一番美しいと思っている限り、私は永遠に表現者で在りたい。
音楽を聴くって時に自傷的な自慰行為。
耳鳴りを覆うように、世界が活きる音に気がつかないように、音楽を衣服にして裸の王様でいる。
会話の中で出たちょっとした疑問や朧気な記憶をはっきりさせようと調べたり遡ったりしている間に皆はどんどん先へ行き、これだ!と思った頃にはその話題など無くなっていて、見つけた答えを話しても一瞥されて終わりだから、やっぱり複数人での会話に向いていない。
皆がフルーツバスケットをしてる中、私は1人でハンカチ落としの鬼をしてる。誰も手を出していないから、私はいつまでも鬼。
最近、気がつきました。
私が人嫌いなのは人が好きだからです。たぶん。
人間が嫌いだと親しい人に零すことがあります。親しい人は私を人間嫌いだと形容します。人が嫌いです。
人を傷つけずには立っていられず、
立っているには人を傷つけずにはいられない。
人とぶつからずには走っていけず、
走っていくには人とぶつからずにはいられない。
人と争わずには進んでいけず、
進んでいくには争わずにはいられない。
だから、人が嫌いです。たぶん、人が好きだから。
全部それだけで済ませてしまえる単語が怖い。結局その人の心がどう動いたのかがよく分からなくて。人の機敏に疎い私がよくないのかもしれないし、私自身が何かと言葉を並べないと不安になるからかもしれないけど、何がどうでどう感じたのかちゃんと言葉にしてよと思ってしまう。長くてもいいから。
100万回の好きより1回の嫌いの方が心に届くのってやっぱり理不尽だよ。でもそれって、人が人を好きな証だよね。どんなときも優しく在りたい。
ここにあるもの、ここで愛を叫ぶすべては、自分しか知らない秘密の愛人。現実の私の側には無い存在。本命は認められて現実に存在しているから、手放せば現実で隠す疲弊ともおさらばだけど、好きだと感じた自分がいることを否定せずいたくて、ただその一心だけでここにあるすべてを抱いて愛でている。
自分の愛の永遠に“絶対”を誓えるほど自分を信じられはしないけど、惚れたその時に自分が抱いた愛が本物だということは“絶対”と言い切れるから、もしいつか愛が裏返ったとしても自分を許したいなと思ってるし、惚れた時に愛を抱いたことを忘れなければその愛は永遠と言えると思うんだ。
どんな組織に属していても、そこにいる自分以外の全ての人たちが当てはまるものに当てはまらない自分を見つけてしまって、自我をハッキリ覚えている小学時代からずっとそうだから、そこから感じる孤独をもうある意味アイデンティティにすら感じるほどには孤立する自分に慣れてしまっているなと思ったり。
絵も文章も好きの伝え方も上手くないけど、いつだって愛を込めて大切にかいたことだけは誓える。
国同士の関わりや歴史って私の生まれ育ちもあって何かと考えてしまうことで。争いばかりで争いしかない、そんなだから歴史が嫌いで人が嫌いで国が嫌いで。でも、どうして嫌いかっていうと、やっぱりどうしようもなく人に愛着があって、国に愛着があるからで。歴史に傷つく度、それをまた実感するよね。
人とご飯を食べるのがとんでもなく苦手なので、私が I love you. をカッコつけて言うと、 あなたとご飯に行きたいです になるし、プロポーズは 毎日あなたとご飯を食べたいです になる。
月が綺麗ですね、とか、死んでもいいわ、にはならないのよ。
人類が滅亡するその瞬間まで音楽が人と共にあることを願う愛に、たった一時を生きる誰かへの嫉妬や羨望なんかが敵うわけがなかろうよ。
言葉って常に不充分だから、自分にとっての過不足なくが人にとってもそうであるわけがなくて、自分の持てる言葉で少しでもその差を埋めようと何度書き直しても不安になるし、絶対に長文になってしまう。ポストも、何分何時間何日って寝かされてることある。
エッセイって何がいいんだろ。読む人に影響を与えすぎない、何回でも読む深みより読み終わったあと1回思い出して貰うことがあれば良し、くらいのサラッとしたものを、できれば穏やかな明るい話題で書きたいのだけれど。
シュークリームみたいな、ほわほわしてて適度に幸せなものを書きたい。
「惚れる」って言葉が好き。
「好き」より濃度が高くて熱っぽくて
「恋」ほど純度は高くなくて盲目的で
「愛」より距離があって一方的。
何か誰かに惚れている時の酔ったような感覚、その酔いに慣れてきた頃にまた一歩惚れさせられた時の、足元が崩れて一層分落ちていく感覚がたまらなく好き。