夏目漱石から芥川龍之介と久米正雄への手紙(二)

 此手紙をもう一本君等に上げます。君等の手紙があまりに潑溂としてゐるので、無奄フ僕ももう一度君等に向つて何か云ひたくなつたのです。云はゞ君等の若々しい春の氣が、老人の僕を若返らせたのです。

(中略)

久米君の繪のうまいには驚ろいた。あの三枚のうちの一枚(夕陽の景?)は大變うまい。成程あれなら三宅恒方さんの繪をくさす筈です。くさしても構はないから、僕にいつか書いて呉れませんか。

(中略)

 君方は能く本を讀むから感心です。しかもそれを輕蔑し得るために讀むんだから偉い。(ひやかすのぢやありません、賞めてるんです)。

(中略)

 本を讀んで面白いのがあつたらヘへて下さい。さうして後で僕に借して呉れ玉へ。僕は近頃めちやめちやで昔し讀んだ本さへ忘れてゐる。此間芥川君がダヌンチオのフレーム オフ ライフの話をして傑作だと云つた時、僕はそんな本は知らないと申し上げたが其後何時も坐つてゐる机の後ろにある本箱を一寸振り返つて見たら、其所に其本がちやんとあるので驚ろいちまひました。たしかに讀んだに相違ないのだが何が書いてあるかもうすつかり忘れてしまつた。出して見たら或は鉛筆で評が書いてあるかも知れないが面倒だから其儘にしてゐます。

(中略)

 一寸筆を休めて是から何を書かうかと考へて見たが、のべつに書けばいくらでも書けさうですが、書いた所で自慢にもならないから、此所いらで切り上げます。まだ何か云ひ殘した事があるやうだけれども。
 あゝさうだ。さうだ。芥川君の作物の事だ。大變神經を惱ませてゐるやうに久米君も自分も書いて來たが、それは受け合ひます。君の作物はちやんと手腕がきまつてゐるのです。决してある程度以下には書かうとしても書けないからです。久米君の方は好いものを書く代りに時としては、どつかり落ちないとも限らないやうに思へますが、君の方はそんな譯のあり得ない作風ですから大丈夫です。此豫言が適中するかしないかはもう一週間すると分ります。適中したら僕に禮をお云ひなさい。外れたら僕があやまります。
 牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老獪なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事ある相の子位な程度のものです。
 あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
 是から湯に入ります。
   
八月二十四日               夏目金之助
   芥川 龍之介 樣
   久 米 正 雄 樣

引用:小さな資料室 様より 資料202