ネコと和解せよ続編







「ねえ、私の印鑑知らん? しゃちはたじゃないやつ」


ことのほったんは、名前のこの一言だった。
おしごとの書るいに印かんがいるみたいで、あちこちさがしてとうとうとおるに聞いてしまったのが、いけなかった。


「ええ? 知らんよ。最後に使ったんいつ?」
「いつやっけ…… 思い出せへんくらい昔」
「よう探してみ」
「うーん……」


ソファにころんでいたあたしは名前の足どりをよこ目でながめつつ、あくびが出そうになっておくちを開けようとしたそのとき、へやがゆれてしまうほどの大ごえがひびいた。


「びっくりした……」


あたしと名前はおんなじ目をしてとおるを見つめていた。目はおんなじだったけど、心じょうはまったくちがうものだった。
あたしは、名前が知らないとおるのひみつを知っている。名前が開けようとしたそのテレビのたなに何がかくされているかを知っているから、おなかあたりに黒い何かがぐるぐるうずまいていくのがわかった。
りゆうはちがえど、名前のおなかにもゆっくりかくじつに、おなじものがわいてしまっているようだった。


「ここになんかあんの?」
「いや、なんもない」
「……そう」
「印鑑、たぶんあっちの部屋やろ」
「そやっけ? この部屋のどっかやった気がするけど」
「とにかくこの棚の中にはないから、あっち探しに行こうや」


にじりよるとおるに名前のがんこうはするどくなるばかり。そりゃそうよ、だってねこのあたしから見てもおかしいもの。
名前は頭のいい子だから、とおるがいつもよりあせっていることはわかっているはず。
また今回も名前がだまされているふりをして終わるのね。そう思ったらまたあくびが出そうになった。


「何? ここに見られたらあかん物でも入ってるわけ?」


名前のひくい声に、あたしのあくびはどこかへとんでしまった。いつもの名前なら、びねつをおびたちんもくをまとわせつつ、とおるの言うがままに行どうにうつすはず。
だけど、今日はちがった。とけてしまうほどのあつい目力と声色で、とおるのせりふをけちらした。


「そうじゃないけど……」
「この何ヶ月かずっと思ってたんやけど、透、最近なんかおかしない? なんか私に言いたいことでもあんの?」


名前の目は、あたしが気がのらなくて怒っているときのあの目をしていた。いつもやさしいももいろの声は、つららのようにつめたくとがり、のらりくらりかわしていたとおるは、名前のひんやりしたオーラのせいでかちんとこおってしまっている。


「なんもおかしいことあらへんやん」
「ああそう、私の違和感が間違ってるってことね」
「そういうわけでも……」
「ないんやんか。何か隠し事がありますって自分で言うてるやん」
「それは……」


わがかいぬしながら、あきれてしまう。
とおるは本当に、名前をまえにするとうそが下手になる。名前のおおらかさにたすけてもらってばかりのつけがここであぶりだされちゃったってわけね。
こうなっちゃったら、早く本当のきもちを、ほら言うのよ。
じゃないと名前が……、


「もうええわ」


ああ、あたしのいやなよかんが当たってしまった。
あたしより長く名前といっしょにいるくせに、なんでわかんないのよ。
ためいきをつきたい気分だったけど、とおるのきもちになって考えてみた。
名前はかしこくてようりょうのいい子だから、たぶんとおるは気づけなかったのね。日々、名前からはっせられるいろいろなサインに。


「ちょっと外出てくる」
「ちょ、待ってや。印鑑どうすんの」
「どうでもええわ印鑑なんて。隠し事言う気になったら連絡してきてもええけど、それ以外で連絡してきたらしばく」
「待って、名前!」


しばし、ちんもくがながれる。
ようやくあのことばを言うけついがととのったのね、とおる。
名前のまつげはさかだったまま、でも心はこいするおとめのまま、とおるのことばを待っていた。
あわあわしていたとおるが、ひとつさんそを飲んで、声をはっした。


「……午後から雨降るみたいやから、傘持って行きや」


げんかんのドアがこんなに大きな音でしまるところを、あたし、はじめて見たわ。







しまった。ここ最近で一番やらかしたかもしれないし、一番やらかしてはいけない相手にやらかしてしまった。
印鑑を探していた名前が手にかけた棚、別に怪しい物やいかがわしい物が入っているわけではない。あそこに入っている物は、おれの心臓。決意、寿命、人生。それと、たった一人に渡す予定の真実の愛。
それらぜんぶを形にした、小さな指輪。


「ニャ……」


これの存在はおれと、ハフしか知らない。
壁の中に埋まった鉄骨に、名前の馬鹿力がまだ響いて共鳴しているように感じる。
心身共に逞しい名前をこんなふうにさせてしまい、過去のおれの意気地の無さと現在のおれの余計な一言に辟易していた。


「連絡、したらあかんかな……?」
「ニャ」


ハフに意見を聞いてみるも、「連絡しても怒られるし、連絡しなくても怒られるわよ」と言われた気がした。
しばらく部屋をうろうろして、印鑑が転がっていそうな目ぼしいところを漁って、見つからない絶望と共に空を見る。
印鑑さえあれば、名前を追いかけられるのに。


「ばかじゃないの、とおる」


猫は化けて出ると、人の言葉を話すのだろうか。びっくりしてハフを見ると、無言でおれを見つめている。おもちゃみたいな尻尾をゆらゆらと弛ませながら。
そう、おれは馬鹿なんだ。馬鹿だから、名前を追いかける理由を探している。
印鑑なんて、どうでもいい。名前の言うとおりだ。


「ハフ、ちょっとお留守番しとける?」


ハフは肩越しにおれを一瞥し、尻尾を二回上下に動かした。







「あ、すみません、三十分延長で」


一人カラオケ、何ヶ月ぶりだろう。
怒りに任せて大声を出すと、上手い下手はもう置いといてただただすっきりする。


「……いや、連絡ないんかい」


女という生き物は複雑、厄介、奇奇怪怪。
連絡してくるなと自分から言ったくせに、本当にしてこなかったらとんでもなく腹が立つ。
芸人の端くれのくせに、「連絡するな」の意味すら理解できないのか。おまえは大先輩であるダチョウ倶楽部様の芸で何を学んだんだよ。


「そういえば、透にあんなに怒ったん久しぶりかも」


芸人のパートナーたるもの、みたいな枷を自分にかけていたところは否めない。わがままを言うなんてもってのほか。
弁えた態度で透に接しないと、足元を掬われそうで恐かった。
いつ「さよなら、明日からは他人同士です」と弾丸が胸を抉りにくるか。それは、今もゼロではない。


「ありがとうございましたー」


歌い疲れ、悩み疲れ、時刻は十六時三十九分。休みの日なら、今日の晩ご飯はどうしよう、と考える時間だ。
今のところ帰る予定はないし、ヒトカラ同様久しぶりに一人飲みもいいな。
近所におしゃれげなバルが出来ていたことを思い出して、水分が多く含んだ空気の中を歩き出した。


「名前ちゃーん」


よくよく知った通勤路を足取り重く歩いていると、左前方から明るい声が聞こえてきた。
いつも仕事終わりに利用する青果店は、元気の良いご夫婦が二人だけで営まれている。退勤後の疲れた脳と身体を太陽みたいな笑顔で癒してくれる、私の生活に欠かせない場所だ。


「あら、今日おでかけ?」
「うん、そう。たまには一人でね」
「名前ちゃん、うち来る時絶対一人やんか。次は彼氏連れてきてな?」
「私以上に忙しい人やからなあ。タイミング合えば全然連れてくんねんけど……」
「あ、そうそう! 名前ちゃん、なんで呼び止めたんか聞いて?」


おばちゃんの話はいつも短時間に何回もころころ変わって、私の感情もどんどん上書きされて、モヤモヤしていた気持ちも少しだけ晴れやかになる。
なんで?、と聞くと、おばちゃんは「ちょっと待ってて」とバックヤードに入って行った。遠くでおじちゃんの声が聞こえる。表にいないということは、きっと今はたばこ休憩中なんだろう。


「お待たせ。はい、これ!」
「え? 何これ、どうしたん?」
「あたし元々岡山の出でね、親戚が農家してて売り物になれへんやつは送ってきてくれんねんけど、名前ちゃんいつも利用してくれてるから、これおすそわけ」


薔薇のリースが飾られた紙袋の中には、みずみずしく鮮やかなマスカットが一房入っていた。
形は悪いけど、と一言添えていたものの、購入しようと思ったらそれなりの金額を出さなければ買えないはずだ。エメラルド色の粒が、私に家に帰れと微笑んでいるように見える。


「ありがとう、大事に食べるね」
「ありがとうはこっちのセリフよ。いつも利用してくれてありがとうね」
「……ほんまに、ここに来ると癒やされるわ」
「そうや。名前ちゃん、今日これから雨降るみたいよ」


そのセリフを聞いて、私は部屋にいるであろう彼のことを思いだした。憎たらしい助言は無視して、もし本当に降ってくるのならとことん濡れてやろうと考えていた。
東の空を目にやると、確かに雲行きがあやしくなってきた。


「……今日」
「うん?」
「……晩ごはん、何にしようかなあ」


果物は新鮮なうちに食べたいから。はんこ屋さんは定休日だったから。
雨が、降りそうだから。
冷蔵庫に眠る食材を思い出しながら、今日の特売品はキャベツだと声をかけられた。
重たい戦利品を両手にぶら下げて、とりあえず自宅の方へ歩き出す。
バルの前で少しだけ立ち止まって内装を伺う。サークルのカウンター内でワイングラスを磨く若い男の子を何の気なしに見ていると、後方で雷の音が聞こえた。


「あ、あの……」


雷に掻き消されてしまうほどの弱々しい細い声。
振り返った先には、今一番会いたいけど会いたくない人がいて、目が合っても名前を呼ばれても、私は妙に冷静だった。


「……雨降るよ」
「うん」
「濡れるよ」
「うん」
「今日に限って白着て」
「うん」
「透けてまうやん」
「うん」
「……捕まるで」
「黙れ」


このやり取りをしてしまったら、もう怒ってなんかいられない。
体ごと透に向き合う。高い位置から「ごめん」と私の耳に届いた瞬間、粒の大きい雨がわっと降り始めた。


「やばっ降ってきた!」
「名前、傘は?」
「へ? 持ってるわけないやん、透は?」
「名前探すことばっか考えててわすれた」
「……アホ!」


早く家に帰らないと、私は公然猥褻罪という罪の名の下の犯罪者になってしまう。
走り出す瞬間に荷物を持たれ、雨に打たれながら「なんでマスカット?」と聞かれた。
どうでもいい。心底、どうでもいい。今は少しでも早く家に帰ることだけを考えてよ。


「名前、服だいじょうぶ? 透けてへん?」


……どうでもいいことばっか、考えないで。






「思ったよりびしゃったなあ」
「このままリビングはなしやわ。私お風呂行く」
「あ、待って、名前」


透はタオルで雑に全体を拭きながら、リビングに向かった。空いたドアからハフが玄関まで来て、私の濡れた体に自身の体を沿わせた。
遠くから「あったあった」と聞こえたので、印鑑でも見つかったのだろうかと勘繰った。


「今印鑑はええから、先着替えるよ」
「印鑑とちゃうねん」


正面に立った透は、私の目をじっと見据え離さなかった。
予想をいろいろつけてみようとしたが、髪の毛から伝う雨粒が脳の奥まで浸透し、思考回路を阻む。


「テレビの棚な」
「うん」
「別に変な物は入ってなかってん」
「そうなん」
「ただ、名前に見つかったらあかん物は入ってた」
「何それ、」


水浸しになった脳を使っても、透の手によって開かれた小箱の中身は明白だった。
誰がどう見ても、下手したら私の足元に転がるこの子が見ても、どういう意味を持つ物か分かってしまうのではないか。
私の誕生日はまだ先だし、記念日は三ヶ月前に過ぎてしまった。
これは、どうリアクションするのが正解なのか。


「印鑑要る書類、いつまでに出さなあかんの?」
「え、あ…… 二週間後……」
「分かった」
「……………………え、どういうこと」
「新しく買う必要ないやろ。おれの使えばええねんから」


なくしたらあかんで。「堂前」って名字あんまおらんから作り直しすると高いし時間かかんねん。
早口なのに音程が揃わないしどろもどろな口調で、顔は雨に降られていつもより白いのに、耳は真っ赤だった。


「それだけ。お風呂行っといでな」


廊下に残された女子ふたりは目を見合わせて、私は我慢できずに笑いがこぼれてしまった。
はーちゃんは何か言いたいことがあるのか、普段は入ってこない脱衣所で毛づくろいをしている。



「名前、とおるとあたしをおねがいね」


きっとこんやから、名前があたしをなでる感しょくがかわる。
名前がおふろに入る前、天じょうからぽつんとお水がふってきた。
見上げると、名前はおはなをすすってりょうほうのほっぺたをつつんだままへなへなとしゃがみこんでしまった。
しばらくすると、名前はおめめからとめどなくあふれるお水をぬぐって、あたしにだけ聞こえる声で言った。


「今の、透に内緒ね」


女は、ひとつやふたつひみつがあるくらいがうつくしく見えるのよ。
このひみつのお水は、なんだかとおるに話してあげたくなっちゃうけど、あたしは、あなたたちをただ見守るそんざい。
あたしがまた次ねこに生まれかわることがあったら、かみさまにつたえたいことがあるの。
こんなにしあわせでみたされたきもちのとき、ねこもおめめからお水を出せるようにしてほしいって、ね。























top