「司くんが決めていいからね」
私が手に持つその紙は、薄いそれらは確かな存在感を放つ。
それでも彼女がこの紙を破けとそういうのなら、私は迷わずこの紙を破くのだろう。
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彼女、朔間依と付き合うのはそれはそれは労力を費やした。
彼女と思いを通わせることは、難解なようで実は至極単純だった。それは通じあうものが通じ合うべくして通じる、というものか。とにかく、私は彼女を恋愛的な意味で好いていて、彼女も同じ意味で私を好いていた。付き合うこと自体はなんら難しくはなかった。
その思いを周りの環境や立場が湾曲させた。彼女はプロデューサーという立場で、私はアイドルという立場で。私は朱桜家の嫡男で、彼女は(この情報はあまり信じてはいないが)朔間家の、由緒正しき吸血鬼のハーフ。様々な立場が絡み合って、学生の頃は本当に苦労をした。
それでも、私は彼女の手を離したくはなかった。少し冷たくて、細くて、頼りなくて、それでも安心できる手を。そして、私はその手を握っていられるだけの権利をもぎ取った。
彼女は朱桜公認の許嫁となり、事務所にも報告をした。今はゆるやかに世間へと彼女の存在を匂わせながら、アイドルとしての地位と、朱桜次期当主としての地位を確立させているのが今の現状であった。
決して安心などはできないが、それでも手を取り合って、愛し合っていける幸せを嚙みしめていたというのに。
「私は、本当にIndignationしているんです…!!」
「…いんでぃぐねえしょん」
「Indignation!!」
ESが管理するマンション、其の一室にて私と依さんは暮らしている。セキリュティもしっかりとされており、パパラッチ等が入り込むこともない。安心して暮らしていける私と依さんのお家。
そのリビングにて、敷かれたカーペットの上。私と依さんはソファがあるにも関わらず(むしろソファを少しずらして)正座をして向かい合っていた。目の前には、数枚の書類。依さんはその紙に手を伸ばしぱらぱらと捲る。
それはドラマの企画書だった。今度月曜九時から放送される、恋愛ドラマの企画書。依さんは伸ばしきったシャツの袖を口元にあてながら、いつものようにとがった八重歯を見せる。
「これぇ、つかさくんにぴったりの役だねえ。あんず先輩が持ってきてくれたのぉ?」
「いえ、監督の方から直々のOfferなんです…。私にぴったりだと、その監督さんも仰っていたようで…。教えてくれたのはお姉さまなのです」
「へぇ、いいねえ」
ドラマの内容は、品行方正で礼儀正しい年下上司の男性と、その男性に恋をする年上新入社員の女性のラブロマンス。男性は上司であるものの新入社員の女性に優しく丁寧に接し、女性は心惹かれていく。少しドジでおっちょこちょいなものの頑張りすぎる鈍感な女性にまた男性も惹かれていく。しかし彼らを恋路を阻む様々なもの。彼らは無事に思いを通わせることができるのか。二人の思いはとても純粋ですぐにでも通じあってしまうのに、それを周りが阻むという少しコメディも入っているドラマのようだった。
「ふぅん、…あ、監督さんの名前聞いたことある」
「ええ、業界では有名な方です…」
「へ〜。ますますいいねえ。…これ、どうしたのぉ?受けないのぉ?」
「そこ、なんです」
ぐぐ、と顔をしかめれば、きょとりと小首をかしげる依さん、ザクロのようなくりりとした瞳。普段は眠そうに伏せられているが、驚いたりすると丸くなる。そんな表情に数年経っても慣れないときめきを抑えながら、私は本題を切り出す。
「このDramaには…」
「このどらまには?」
こてりと反対側に首をかしげる依さんを前に、膝に作っていた握りこぶしに力が入る。
「kiss sceneがあるんです!!!」
「…」
ほけ、とした顔。それからじわじわと表情が変わる。それは少し面白がっている表情。それから袖を口に持って行って、ふるふると震えだす。意を決して話した内容は、いつもの笑顔で一蹴されてしまった。
「ん、ふ、あははぁ!」
「な、よ、依さん!?司は真面目にですね…!」
「うんうん…!いや、よりもわかるよ、わかるんだけど、んふっ、ふ、あははっ!」
両手の袖で口を隠して心底愉快に笑う彼女。その様子に力が抜けてしまった。自分が今まで悩んでいたのは一体何だったのか、と思うほどだ。
…もしかして、彼女は自分が他者とkissをするのが嫌ではないのだろうかそんなことはない、とは思うものの、彼女は結構looseな考えの持ち主だ。「ちゅうなんて外国人もやるでしょお」ところころ笑いそう…だ。いやしかし、それでも、彼女はたまにキスをすると見たことのない顔(とてもとても愛らしい顔)でこちらを見つめてくることがある。そんな顔をする彼女が先ほど考えたことを言うだろうか…。
そう自問自答をしていれば、考えて数秒経っていたのか顔の前で白い指が左右に振られた。
「…さくん。つかさくん?」
「っは!…す、すいません…ぼーっとしていました…」
「んふ、別にいいよお…。なんか誤解させちゃったぁ?ごめんねえ」
「い、いえ…ですが、その、…私は」
口元に袖を添えながらも申し訳なさそうにこちらを見つめる依さん。彼女は付き合ってから(付き合う前もその片鱗を見せていたが)私に過保護になった。過保護…というか、私に不安を与えないような、そんな。確かにからかうこともいじられることも、無駄口をたたかれるのも学生の頃から変わらず、しかし言動の端々に本当の気持ちをちゃんと、わかりやすく混ぜている。誤解を決してさせないという意思を感じる。
息を吸い込む。私のまっすぐな気持ちを彼女に知ってもらうために。
「…この企画は確かに私のidolとしての知名度、人気を確かにあげるものです。私に利益がたくさんあります。…しかし、しかしですね。
恋人の依さんが受けてほしくない、と。一言そう仰るのなら、私はこの企画を蹴ろうと思ったんです」
「…そなの?」
「勿論です。私は貴女のことを愛しているんですから、当然ではないですか。
貴女の意見を聞かせてほしいんです。この企画…依さんから見て、どうでしょうか」
数秒の沈黙。彼女の顔をじっと見ていれば、口元に袖を添えたまま目線をゆらゆらと、右、左、そして観念したかのように口元にあててた袖口を下ろし、こちらを少し照れたように見つめた。
「う〜ん。嫌じゃない…って言ったら、嘘なんだけどね?」
「断ります」
「まってまって。…あのねえ、よりはアイドルのつかさくんのこともだぁいすきだから、ファンのより的には、この仕事受けてほしいなあって思うよお」
「…私は、ファンの依さんよりも依さん本人の意見も尊重したいです」
「ファンのよりも十分私本人の意見なの〜。…、むしろなんだけど」
つかさくんは、より以外とちゅうするの、嫌じゃないの?
また口元に袖をあてて、こちらをじっとみる依さん。
「…そ、れは…考えていませんでした」
「ええ〜!なにそれえ。つかさくん、他の人とちゅうするんだよ?唇だよお?…もうちょっと真剣に、よりのことばっかりじゃなくて自分のことも考えてほしいなあ」
いくらよりのことが好きだからってねえ。と、軽口をたたいているものの口元に添えられる袖が二つに増えた。そこで彼女が少し怒っていることに気が付いた。
「す、いません…。どうしても貴女の事が頭をよぎってしまって」
「んも、よりはそういうことを聞きたいんじゃないのぉ。こたえて、つかさくん」
少し伸びたそでからきゅ、と握り拳をこちらに向けられる。どうやらマイクをこちらに向けているフリをしているようだった。
「つかさくんは、より以外とちゅうするの、いや?それとも別にいいの?」
「嫌です」
間髪入れずにそう言えば数拍の無音。それからぽかんとした依さんの顔。次には少し照れたように口元を袖で隠した。
「秒じゃん…」
「それはそうです。恋人以外とkissなんて好きでやるわけないじゃないですか」
「んま〜、つかさくんはそういう子だもんねえ…」
「子って…」
あなたと同い年ですよ、と言おうとした口がふさがれる。少し薄い、少し冷たい、それでも熱をもった唇に。
「よ、り、……さん」
「あは、かおまっかだ。こんなんじゃ演技できないねえ」
そう言いながら依さんは距離をつめて私の胸に頭を擦り寄せる。
「いやですって言わなかったら実家に帰るところだったよお」
「それは困ります!」
「んふ、即答してくれたから許したぁ」
猫の様にすりよる依さんの頭を撫でてあげれば、いつもの笑みとは違う、少し頬を染めた、心底何かを噛みしめるような笑顔を浮かべる。
「ねえ、そのキスシーンが撮影されるまで、練習しよ?」
「practice…?」
「そーそー。ぷらくてぃす、だよ」
胸の中で可愛らしく首をかしげる依さん。まるで猫のよう。黒猫。しなやかで甘えたで、可愛い私の猫。
「そんなにまっかっかじゃあ演技になんないもん。慣れるくらいにね、…回数なんか気にならないくらいにさ、ちゅうしよ?」
するりと頬をなぞられる。冷たい指の先は明確な意思を持たずゆらゆらと動く。
「それで、ドラマの撮影の時も…よりのことずっと考えてればいいよお。…これはね、つかさくんのこいびとの、よりの気持ち」
「…私はずっと依さんのことを考えているのですが」
「あは、愛されてるぅ。んふふ、ありがとお」
今度は私が依さんの頬を上に持ち上げる。くりりとした瞳。その体、爪の先まで私の物だと、こんなに思っているのに。
「…ん」
「ん、ふ」
触れるだけのキスは、いつもよりも少しだけ長かった。どちらともなく離れて、どちらともなく目を合わせる。
「どうでしょう。kissはうまくできていますか?」
「…、ん、ふふ、顔が赤いよお?まだ、うまくない、かも?」
貴女だって、顔が赤い。蕩けたようなその顔で何を言っているのだ、と。その気持ちを飲み込む。いまは彼女の挑発にのっていたい。
色ごとに恥ずかしさを覚えるのは、私だけではなく彼女も同じで。こうして私を誘惑する。もう少し素直でもいいでしょうに。と、そうは思うが素直にこられても私がどきどきするだけだ。
誘惑するのは貴女からでも十分大いに結構。しかし、主導権は渡したくない。
肩を引き寄せる。もう一度軽くキスをして、離れる間際に唇をぺろりと舐める。そうするだけで、彼女の肩は軽く跳ねる。
それから息をつく暇も与えずに頬にも、瞼にも、首にも、耳にも。逃げられないように両肩を抑えて。そうして最後にまた口へ。ながいながいキスをする。酸素を求めてふは、と赤い舌を見せながら口を離したそこがチャンス。
「ん、あ」
「っん、あぇ」
口内に舌を滑り込ませる。逃げる舌を捕まえて、絡めて、吸って。逃げないで、堪能させて。貴女から求めたのだから。私にも求めさせて。もっと、もっと。もう少し。
「つ、かさ、く…」
「ふふ、口の端から涎が垂れてますよ」
「ん、ひあ…やめ、うう」
「どうでしょう?司のkissは、上手ですか?」
「っう、…うまい、じょうず。じょうず…」
「ほんとうですか?…ですが、私はあまり実感がわかないので…もう少し練習のお付き合い、お願いいたします♪」
「う、うええ…」
頬が赤く染まって、比較的ひんやりとした体温の彼女はいまや私の体温と交じり合って生ぬるい。そのまま一緒に溶けてしまえばいいのに。
この仕事は受けることにしよう。それから、キスシーンが撮影されるまで、沢山たっぷり、彼女にキスの練習に付き合ってもらおう。きっと撮影が終わっても、私は変わらず彼女にキスをするのだが。
そう頭の片隅で考えておきながらまた一つ彼女にキスをした。